かたいなか

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「失われた30年、失われた時を求めて、失われた……聖櫃は『時間』じゃねぇわな」
去年までの数年は、完全に感染症のせいで「失われた時間」だったか。某所在住物書きは「失われた」を検索語句に、ネタを求めてスマホをスワイプ。
たとえば「失われた○月○日」とすれば、少しはエモい物語が書けるだろう――執筆スキルが伴えば。

「失われたバレンタインとかは?」
ふと、物書きがひとつ閃いた。
「……ただのぼっちの俺だわ」
投稿には結びつかなかったらしい。

――――――

最近最近の都内某所、某アパートの一室、早朝。
部屋の主を藤森というが、その日は室内に藤森の友人も1名居て、クマのエプロンに三角巾など付けて生クリームをガシャガシャ!手動でホイッパー片手に全力で泡立てている。
パティシエモドキは名前を付烏月、ツウキという。

「ナンデ?!」
「『なんで』とは、付烏月さん?」
「だってお前、オーブンとかせっかく俺の部屋より良いの揃ってるのに、泡だて器もブレンダーもミキサーも、ことごとく手動じゃん!」

「手作業にすれば運動不足が少し解消できる」
「その手作業中に失われた時間と気力で、他の作業がいっぱいできるっつってんの!手伝って!」

諸事情により、3月から勤務している支店で小さな講義をすることになった付烏月。
議題は「脳の発達過程から見るお客様〜誰が怖そうで危なそうか少し予想をつけるハウトゥ〜」。
前日の朝、付烏月の支店に悪質でモラル無き客がやって来て、新卒者をいじめたのが発端。
付烏月お手製の絶品キューブケーキ4種類3個ずつ計12個を囲み、茶を飲みながら、
支店長の体験と経験と、いくつかの反論や追加情報も交えて、開催される運びとなった。

「丁度良いじゃないか、付烏月さん。脳科学はあなたの得意分野だし、『こういうカンジの人はこう』の目印があれば、その新卒も事前に身構えられる」
「そりゃそうだけど、そうだけどね?」
「何か問題が?」
「大アリだよ!かくかくシカジカ、四角いキューブケーキ!ルイボスティーと紅茶付き!」
「すまない。よく分からない」

付烏月の属する支店は、都内にありながら、1日に約10人も来れば「今日は忙しかったね」の判定となる静かな店。来客数が片手で足りることも多い。
今回のプチ講義は、そんな支店の状況ゆえに実現した新卒者へのメンタルケアと言えた。

講義発案者からキューブケーキの発注を受けた付烏月は、すぐさま藤森に連絡。
自分のアパートより高性能の調理器具が揃い、支店に相対的に少し近い藤森の部屋を緊急訪問。
『これで朝余裕をもって、良い機械と良い材料を使い、良い味のケーキを作ることができる』。
菓子作りを趣味とする付烏月は馴染みの果物屋等々で入念に材料を選び――そこまでは良かった。

「イチバン労力使うクリームの泡立てが手動とか!俺聞いてません!ホント手伝って附子山!」
「今は藤森だ。付烏月さん」
「つべこべ言わないで!一緒に泡立てて!俺と一緒に睡眠で失われた『余裕で間に合う筈だった時間』を取り戻して!ガチで間に合わないから!」

「宇曽野が『俺の嫁と娘にも1個ずつ寄越せ』の交換条件で、既にこの部屋に向かっている」
「あざぁす!!」

ガシャガシャガシャ、カチャカチャカチャ。
早朝の藤森の室内に、ボウルとホイッパー、金属と金属の接触音が断続的に、かつ怒涛の速度で響く。
「附子山、状況!」
「藤森だ。付烏月さん」
「じょーぅきょー!!」
「スポンジが良い具合に冷めた。ジャムは、私には煮詰まっているように見えるが、よく分からない」
「コンコンコンで切って味見して砂糖!」
「……ケーキスポンジを5cmの立方体で切ってジャム味見して私の甘さの感覚次第で砂糖追加了解」

あぁ、ああ、嗚呼。
ホイッパーもブレンダーも、ミキサーも手動だと知っていれば、自分の部屋から事前に持ってきたのに、あるいはもっと早めに起きていたのに。
己自身の睡眠によって失われた時間を悔やみながら、付烏月は渾身の残力で腕を動かす。
付烏月が受けたケーキの発注は、結果として出勤ギリギリの時間に完成し、文字通り「できたて」の状態で保冷バッグに入れられ支店で供された。
ケーキは好評。講演の第二弾も打診されたものの、
翌日、酷い筋肉痛でダウンだったとさ。

5/14/2024, 3:58:33 AM