「希望、キボウねぇ……」
バラの花言葉のひとつが「希望」らしいから、「たった1本のバラの花」とかに置き換えたらエモいハナシも書けるのかな。 某所在住物書きは己の過去投稿分を辿りながら呟いた。
去年から既に、エモネタや綺麗事系の不得意に苦しんでいた物書きである。お題の中の単語を類語、あるいは別の字に変換することは何度か試していた。
今回のお題を例とするなら、「たった」が平仮名であることを良いことに、「経った」にするとか、「建った」に変えるとか、「断った1つの希望」として絶望ネタに落とし込むとか。
「……でも希望を断つって、それはそれでムズいな」
ため息ひとつ。今日も物書きは途方に暮れる。
――――――
年度末、最後の1ヶ月。
長年一緒に仕事してきた職場の先輩の、里帰りに一緒に行って帰ってきたら、突然職場から
『明日からお前、別の支店で仕事してね』
って異動命令を出された。
先輩は藤森って言うんだけど、先輩も突然の異動を食らったらしくて、別々の職場になっちゃった。
メタいハナシをすると、前回投稿分だ。要するに、そういうことだ。
グルチャで異動先聞いても、先輩は「お前とは別の場所だ」の一点張りで、何も教えてくれない。
何か、おかしい。
何かがおかしいけど、それを調べる方法が無い。
ひとまず私は土曜日の、午前中だけの仕事をするために、昨日突然言い渡された同じ区内の別の支店に、ひとりで向かった。
「まさか君がウチの支店に来るとはなぁ」
支店長は知ってるひと。一昨年まで私の隣の隣の、そのまた隣の部署で課長をしてた。
名前忘れたけど、あだ名は覚えてる。「教授」だ。
「まぁ、この支店は万年、廃止が検討されては、なんだかんだ理由をつけられ残り続けている過疎支店だ」
ゆっくり羽を伸ばすつもりで仕事してくれたまえ。
教授支店長は、常連さんっぽいおばちゃんにお茶出しながら、私に言った。
と、突然。
「すいませぇん!遅れましたー!」
職員玄関をばたんと開けて、知らない人がご登場。
「ツウキです!俺、今日からこの支店にお世話になる、付烏月って言いまぁす!」
カップケーキ入れたカゴを手に持ったその人は、
どこかで、メタいハナシをすると先月の22日か23日あたりで、先輩から聞いたような名前だった。
でも本当に驚いたのはその先だ。
「『諸事情』で『呼ばれ慣れてない』ことになってるんで、『附子山』の方で呼んでくださーい!」
「附子山」。ブシヤマ。
藤森先輩が、恋愛トラブルという「諸事情」のせいで、捨てざるを得なかった「旧姓」だ。
なんでその「附子山」を名乗ってるんだろう。
何か、おかしい。
やっぱり何かおかしい。
昨日から全部、ぜんぶ、変なことになってる。
その日の業務は午前中で終わったけど、
付烏月さんの持ってきたカップケーキがバチクソに美味 of 美味だったってことしか、覚えてない。
仕事終わってすぐ向かったのが先輩のアパートだ。
あそこが私の最後の砦だ。散々「何かおかしい」を突き付けられた私の、たった1つの希望だ。
本棚にいっぱい並べられた難しそうな本、優しい香りを出す茶香炉、たまに遊びに来てる子狐、低糖質と低塩分に定評のあるシェアランチにシェアディナー。
5:5想定で私達は現金だの食材だの持ち寄って、2人分を一度に調理して、何度も生活費を節約した。
先輩に会ったら、付烏月さんのことを聞こう。
先輩の今の所属先も聞こう。
もしかしたら、私と先輩が離れ離れになった裏話なんかも、宇曽野主任から聞いてるかもしれない。
そう思って、いつもの先輩のアパートに行って、先輩から貰ってたスペアキー使って部屋に飛び込んだら、
「やっほー、『後輩』ちゃん!」
そこに居たのは先輩じゃなく、支店で先輩の「旧姓」を名乗った付烏月さんだった。
「藤森から話は聞いてるよん。これから多分数ヶ月の付き合いだろうけど、ま、ヨロシクー」
年度末、最後の1ヶ月。
私は長い付き合いの先輩と突然職場を離されて、
その先輩の「旧姓」を名乗るお菓子な、もとい、不思議な人と一緒の支店に異動させられた。
生活のあちこちから突然先輩が消えて、ともかく何がなんだかサッパリな1日だったけど、
ひとまず、付烏月さんが突然の来訪者な私に出してくれたレモンパイは、バチクソに美味 of 美味だった。
「付烏月さん、なんで先輩の部屋に居るの」
「附子山だよ後輩ちゃん。俺、ブシヤマ」
「ツーキさん、先輩とどういう関係なの」
「だからブシヤマだって」
「レモンパイ持って帰って良い?」
「マーマレードパイもあるよん」
「去年は『二次創作って、自分の欲望のまま好きなように好きなものを書いてると、別の人の欲望とか好きなものとかと衝突しがちだよな』っての書いたわ」
アカウント開設2年目である。よくここまで長いこと続いたと思う。某所在住物書きはため息を吐いた。
「文才と力量があればさ」
物書きは言う。
「『欲望って要するにドーパミンが云々側坐核が云々ってハナシよな』っての、書いてみてぇの。淡々とした知識ネタとか、カッコイイから」
まぁ無理よな。レベル、足りねぇよな。再度ため息を吐く物書きはスマホのネット検索結果を見た。
前頭葉だのエンドルフィンだのの講座小説を書くには、まずこの検索結果で出てくる知識を全部理解している必要がある……「エンドルフィンが遊離してドーパミン」とはコクーンがパージ的なサムシングか。
――――――
3月1日の都内某所、某職場、夜。
つい数時間前まで先輩たる藤森の帰省に付き合い、
採れたてのフキノトウだの目の前にいる白鳥だの、あるいは雪広がる貸し切りの公園だの、もしくはメインとして、レトロな店内で堪能するミルクセーキやご当地カレーなんかを楽しんでいた後輩が、
先輩の親友で隣部署の主任、宇曽野からダイレクトメッセージによって呼ばれ、その日の朝配布された人事異動を受け取っている。
「藤森はとっくに来て、私物も全部撤去済みだ」
紙には後輩ただ一人だけの情報が記載され、要約するに、「明日から◯◯支店配属ね」とのこと。
「先輩も異動?!」
今まで数年、なんなら数時間前まで、ずっと一緒だった先輩と離れる。しかもこんな突然。
何がどうなっているのだ。後輩は仰天し、驚愕した。
「お前と藤森は明日から別々の勤務だ」
「先輩は、どこに、」
「俺からは話せない。建前としては『個人情報に関わる』、本音としては『諸事情』。お前と藤森の代わりに、俺がお前達の部署に入る格好になる」
「『諸事情』?」
「加元がウチに来る。明日から。この部署に」
加元。 元カレ元カノの、かもと。藤森の元恋人。
当時「附子山」姓であった藤森が未婚のまま合法的に改姓改名した理由。恋の依存者にして厳選ガチ勢。
己の中にある「恋人こうあるべし」の欲望と理想を「附子山」に押し付けて、そうならぬ附子山を散々裏垢でディスり、心をズッタズタに壊して、
ゆえに去年の11月、「藤森」にやんわりフられた。
加元は最後まで附子山が既に「附子山」でないことも、今現在の氏名も、知ることはなかった。
後輩はハッとした――あいつ、まだ諦めてなかったんだ。フったのが「やんわり」だったから。
「『じーちゃん』に俺から事情は話しておいた」
宇曽野が言った。「じーちゃん」とはこの職場のトップ、最高責任者、緒天戸 正義である。
「『ひとまず距離離して様子見るか』だとさ」
いやぁ。親友のためとはいえ、コネと権力でお前を支店飛ばしにするのは、非常に胸が痛むなぁ。
まぁ、「オテント様は全部見てる」し、「最後に勝つのはマサヨシ」、もとい正義だろうよ。
イタズラに笑う目と口は、それはそれは、もう、それは……奥にまだ何か秘策を秘めていそうであった。
――同時刻。宇曽野と後輩の会合など知りもせず、マンションでスマホ片手にニッコリ笑う者が在った。
「転職できて良かった。給料随分下がるけど」
高めの男声とも、低めの女声とも聞こえる中性は、ディスプレイに表示されている「採用」の2文字と、その下に続くメッセージに向けられている。
名前を、加元という。己をうつす鏡、あるいは己の価値を引き上げるアクセサリーとしての恋に恋して、
9年前、あるひとに一目惚れ。
1年程度付き合ったが8年前突然逃げられて、去年、ようやく足取りをつかんだ。
相手の名前を附子山という。
スマホの採用通知は附子山の勤務先からであった。
「待っててね。附子山さん」
既に附子山が「附子山」ではないことも、己の掴んだ部署からも離れていることも、つゆ知らず。
純粋な欲望に従う瞳と唇は、それはそれは、もう、それは。オーダーしたジュエリーを受け取りに行く、歓喜な乙女か青年のそれであった。
「年中行事ネタが多いこのアプリだから、てっきり『うるう日』とかだと思ってたわ」
某所在住物書きは呟き、メモから目を離した。
これまで365のお題を投稿し続けて、少なくとも、雨雪系は8以上、空ネタは14以上、恋愛系は12以上で年中行事ネタは8、季節ネタが20以上。
1〜2ヶ月に1度は行事ネタが来ていた計算なのだ。
エモネタも多いが、集計はしていない。
「空と恋愛と季節・年中行事。あとエモネタ」
これがこのアプリのお題の配信傾向だな。
物書きは主観と個人的感想で総じた。
「2年目、ネタ枯渇、どうする……?」
――――――
2月28日のおはなしです。東京から遠く離れた青い空、白残る平野、雪の田舎町のおはなしです。
この田舎町の出身の、名前を藤森といいますが、
観光シーズン外、平日の比較的混雑しない時期を狙って、メタ的なハナシでは前回投稿分からの続きで、
東京から新幹線に乗って、2〜3回乗り換えて、
一路、列車に乗って、遠い遠い自分の実家へ、里帰りに向かっておるのでした。
ガッタガッタ、ぎっしぎっし。タタンタタン、ととんととん。動力持たぬレトロ客車は適度に揺れて、懐かしい音がして、なかなかに快適。
東京の最先端とは違う、心地よい「かつて昔の暖かさ」が、藤森の日常の疲れを優しく癒やsh
「先輩先輩先輩、すごい、雪、いっぱい」
「そうか」
「白鳥もいるよ。ほらこんな近く、いっぱい」
「そこそこ近い距離で撮影可能な田んぼを知っている。鳴き声がクェークェーうるさいが、行くか?」
「行く」
「本当にうるさいぞ」
「朝の山手線とどっちエグい?」
「……やまのてせん」
雰囲気ガラリ。エモなノスタルジーが台無し。
ボックス席、藤森の向かい側で、ガキんちょのようにキラキラ、目を輝かせている者がありました。
藤森の職場の後輩です。ネイティブ都民なのです。
藤森が雪国に里帰りするというので、一緒に有給取得して、ついてきたのです。
ガッタガッタ、ぎっしぎっし、東京の車両では聞かない列車のレトロを聴きながら、
タタンタタン、ととんととん、東京の車両でも一応聞くことは聞く列車のレールも聴きながら、
後輩、窓の外の白に、釘付けになっておりました。
「ところで。お前にふたつ、選択肢がある」
「はい」
「私の実家の最寄り駅は、お前が撮りたいと言っていた『春の妖精』、開花一番乗りのフクジュソウの最寄りでもあり、かつ白鳥の撮影地にも近い」
「はいはい」
「その次の駅、徒歩1分、美味いカフェがある」
「ファッ?!」
「サイフォン式のコーヒー。地元食材を使った軽食。昔の建物をそのまま利用したノスタルジーな店内で、昭和なミルクセーキ、冬限定のスイーツ」
「えも……おお……えもぉ……」
「だがそこで寄り道すると、おそらくフクジュソウは花を閉じる。当たる日の光が少なくなるから」
「じゃあ明日フクジュソウ撮って、今日、」
「おそらく可能だ。ただ明日は今日より天気が悪い。昼にツボミが開いていない可能性もある」
「フクジュソウと白鳥撮ってから夕方にカフェ」
「こちら、私の故郷の『片田舎』のカフェでして、ラストオーダー16時半となっております」
「はやいよ!?」
「私達に深夜営業を求めるな」
ヘイ、オッケー先輩、1日でどっちも楽しむ方法!
一番乗りなフクジュソウのご利益も甘い甘いスイーツも、双方我慢したくない後輩が尋ねます。
ピロン。コーヒーとスイーツを写真も撮らず、爆速で食べて、全力でフクジュソウの土手まで30分走れ。
カフェの内装とパフェとクリームソーダと、それからアフォガードのようなスイーツの表示されたスマホを見せつつ、藤森が澄ました顔して答えます。
バチクソ悩んだ藤森の後輩、最終的に泣く泣く、カフェを、パフェとクリームソーダを明日に後回し。
その日は晴れた青空の下の、雪国の冬を払うフクジュソウを、その黄色を、撮りにゆきましたとさ。
去年の3月1日から続いた、とある職場の先輩と後輩の、少し非現実が織り込まれた現代ネタ連載風も、これにてシーズン1あたりが、無事終了。
明日から2年目。彼等に新たな困難が待ってるのか、いっそキャスト総入れ替えで別の物語が始まるのか。なんならこれで物語が全部閉じるのか。
すべては明日のお題次第。しゃーない、しゃーない。
「お題が、1周まわって戻ってきた……」
コレ、「遠くの街へ」って、俺が丁度1年前、3月1日の日中にアプリ入れて最初に書いたお題だぜ。
某所在住物書きは感慨深そうに、本日配信の通知文を見てポテチをかじった。
舞台設定を東京に、日常ネタの連載風形式を採用することで登場人物と舞台設定を使い回せるようにして、しかしそれだけでは対処できず、稲荷の不思議な狐をはじめとした「非現実」も取り入れた。
その執筆スタイルを続けて、1年である。
街はこれまで「遠くの街へ」「街」「街の明かり」「街へ」と、計4回書いた。
「1年連載風の投稿して、思ったけどさ」
過去記事を辿りながら、物書きが呟いた。
「1週間くらい前の伏線を1週間後に回収するのは可能だがな。1年前の伏線回収はツラい」
理由は過去参照方法。365個前の記事を、誰がスワイプ地獄を為してまで見ようと思うか。
――――――
2月28日、東京駅、早朝。
北へ向かう新幹線のホームまで、コロコロ、キャリーケースを押して歩く者がある。
比較的空いている平日に、有給使って2〜3日、里帰りする計画の藤森と、
主にグルメ目当てで同行する、職場の後輩である。
「私の故郷はね」
構内アナウンス、人々の話し声、雑踏、
『そういえば丁度1年前、こんな話をした』。
あと数十分で朝の混雑ピークを迎える賑わいの中で、藤森は過去をなぞるように、過去に回帰するように、ポツリ、隣であくびなどする後輩に呟いた。
「雪が酷くて、4月直前にならなければ、クロッカスも咲かなくて」
あー、はい。そんなこと、去年の今頃。
後輩も心得ており、小さく頷いている。
「今頃はまだ、妖精さんも雪の中だ」
3月1日だ。あれから、もうじき1年経つのだ。
藤森と後輩は、別に微笑し合うでもないが、1秒2秒程度、視線だけを合わせた。
「『春の妖精』でしょ」
「そう、『春の妖精』。説明は必要か」
「フクジュソウとかカタクリとか、『春の訪れ』を教えてくれるっていう花」
「そう。そして夏を待たず、土の中に帰る花だ」
「先輩のところはキクザキイチゲが多いって」
「そうだ。『追憶』が花言葉の、美しい花が」
穏やかなため息をひとつ。藤森が言った。
「『いつかおいで』と言ったのが、1年前だ」
ホームは既に一定数の客がおり、それぞれがそれぞれのドアをくぐるなり、車内で荷物を置くなり。
あるいは窓越しに乗客と見送り客とで、通話など、している若者もある。
「『遠い、何もない、花と山野草ばかりの街だけど』と。まさか本当にこうなるとは」
冬の終わりの美しさを語った「遠くの街」へ、花咲くどころか雪溶けきらぬ最低氷点下に、ふたりして。
「だって今年は暖冬で、例年より早くフキノトウが、顔出して丁度食べ頃なんでしょ」と後輩は言う。
ネイティブ都民の後輩が、体感0℃だの1桁だのを耐えて、雪の中から若草色の春まんじゅうを探し当てられるか、藤森には大きな疑問であったが、
それでも、新幹線の予約済みの座席に座って、着いたらアレしたい、コレしたいを語る後輩の目は、
純粋に、幸福そうであった。
「……おっと。なかなかタイミングの良い」
「どしたの」
「実家から速報だ。近所の土手で、フクジュソウの早起き組が一部、今日開花したと。撮影できるぞ」
「春の妖精だ!?」
「日当たり等々、条件の一番良い場所の中の、さらに一部だけ、らしいがな。それでも例年より随分、2週間程度早い。暖冬の影響だろうけれど、良かったな」
「撮らなきゃ先輩、妖精、ご利益、開運!」
「いや春の妖精にご利益のようなハナシは、多分、……でも『福』寿草なら有るのか……?」
金運上昇、悪疫退散、クソ上司総離職、容姿端麗焼肉定食。 フクジュソウの福に願う予定であろう欲望を両手で指折るネイティブ都民と、
フクジュソウ、花言葉、……一応「幸せを招く」なのか。諸願成就的なご利益は……? 黙々と真面目にスマホで調べ物などする雪国出身者。
期待と長考、双方が双方の理由でため息など吐いたところで、彼等を乗せた新幹線が発車時刻を迎える。
これから藤森とその後輩は、遠くの街へ、北の雪国へ、一路、向かうことになる。
「そういやどこかで『勝てないものに立ち向かうな。離れろ。津波が来たら高台に避難するし、クマに会っても立ち向かわないだろ』っての、見たな……」
うん。逃げは、大事だと思う。某所在住物書きはため息を吐いて天井を見上げ、目を閉じた。
スマホ、散歩、読書、酒、ゲーム。
現実逃避の手段を探せば色々出てくるが、面白そうな「変わり種」はなかなか思いつかない。
物書きは部屋を見渡し、なにか1個でも得意特殊を探そうと努力したが、最終的に成果は何も無かった。
「極論、人生のトラブル全部から逃避したい……」
――――――
かなわない相手から離れる。ひどい現実からちょっと逃げる。結構大事なことだと思います。
自分の執筆スキルの程度がバチクソ再認識されてしまうため「みんなの投稿」を時折しか見ない姑息な物書きが、こんなおはなしをご用意しました。
最近最近のおはなしです。都内某所のおはなしです。
某そこそこ森深い稲荷神社に、不思議な不思議な、人に化ける妙技を持つ化け狐の末裔が、敷地内の一軒家にて、家族で仲良く暮らしておりました。
そのうちホンドギツネな父狐は、某病院に漢方医として勤務して納税もする、戸籍上40代の既婚。
人間の知ってる漢方薬と、稲荷の狐の不思議な薬で、都の悪しき感染症や不調等々に立ち向かう、とっても善い化け狐なのです。
そんな稲荷神社の敷地内の、父狐が大事に大事に育てている薬草の庭に、去年植えた木がありました。
ウンシュウミカンの木です。メタいハナシをすると、12月30日頃の投稿分です。ぶっちゃけスワイプがバチクソ面倒なので、細かいことは気にしない。
ともかく愛する母狐に、賢く美しいお嫁さんに、喜んでほしくて褒めてほしくて、
コンコン父狐、ちょっと植え付けの時期を間違えましたが、生薬「陳皮」のための苗木を、お小遣いはたいて買ってきて、薬草の庭に植えました。
さっそくですが、お題回収です。
そのミカンの木、今日の酷い強風で、ポッキリ一番大きい枝が、なんと折れてしまったのです。
ぴし、バキッ!
森の中だから風も弱まって安心。大丈夫。
油断していた父狐。なにがどうしてそうなった。
ぶっちゃけ理由なんて今回のお題が「現実逃避」だから、なのですけれど、
ともかく、ピンポイントで、薬草の庭の若い苗木を最大瞬間風速20m以上が襲ったのです。
あら災難。
「大丈夫。だいじょうぶだよ」
せっかく根付いたミカンの木、せっかく一番大きい状態だった筈の枝の1本を、折れ落ちてしまったそれを抱えて、しょんぼり、父狐は自分に言い聞かせます。
「幹はちゃんと、残ってるもの。2番目に大きい枝も、3番目に大きい枝も、残ってるもの」
それはひとつの逃避でしたが、同時に、父狐に事実を突きつける両刃でした。
「大丈夫」と言うたび、「だけど、折れたよね」が顔を出します。
「2番目も3番目も無事」と言うたび、「つまりは、1番目が折れたよね」が顔を出します。
現実逃避したいのに、現実逃避するたび、現実がハッキリ見えてくる。コンコン父狐、悲しくて悲しくて、化けて隠してた狐耳も狐尻尾も、しょんぼり出てきてしまいました。
こうなったら、お揚げさんをたくさん食べて、お神酒をがっぽり飲み干して、気を失ったように眠るしか逃避方法はありません。
コンコン父狐、折れたミカンの若木の枝を大事に大事に抱えて、お台所に油揚げを探しに行こうとしましたところ、 まさに、そのときでした。
「あら、どうなさったの?」
父狐のお嫁さん、賢く美しい母狐が、枝の折れた音を聞きつけてやって来たのです。
ああ、かかさん、私の愛しい愛しいかかさん。私はもう、完全に打ちのめされてしまったんだ。
ミカンの枝を抱える父狐、自分の心の裂けてしまったのを、母狐に伝えようと口を開きますが、
言葉が、出てきません。
そんなコンコン父狐を見て、母狐、顔色を少しも、ちっとも変えずに、淡淡々と言いました。
「嬉野茶の取り引き先にミカンも育ててる方が居て、今丁度いらしてるの。連れてきますね」
もしかしたら折れた枝が挿し木。今後の強風対策も少し。云々。ぽつぽつ言いながら母狐、なんにも絶望せぬ風に、とてとて歩いてゆきました。
「うれしの、……佐賀県?」
大事に大事にミカンの枝を抱える父狐、ポツンとひとり。佐賀県ってミカンもやってるんだと、ぽっかり、口をあけておりましたとさ。
おしまい、おしまい。