言おうと思ったとき、
チャイムが鳴って言えなかった。
渡そうと思ったとき、
手がふるえて落としちゃった。
泣こうと思ったとき、
誰かが近くに来て、こらえちゃった。
タイミングが、
いつもわたしのじゃない。
あと一秒早くても、
あと一歩近くても、
あと一言聞いてくれてたら、
なにか変わってた?
…わかんない。
だってそれも、もしもの話。
でも、でもさ、
タイミングのせいにしていいなら、
わたし、ずっと間違ってなかった気がする。
言えなかったんじゃない。
言わなかっただけ。
渡せなかったんじゃない。
待ってただけ。
泣けなかったんじゃない。
強がってただけ。
そうやってぜんぶ、
タイミングのせいにできたら、
ちょっと楽なんだけどな。
…ほんとうは違う。
ほんとうはぜんぶ、
わたしのせいかもしれない。
でもそれでも、誰かが言ってくれないかな。
「それ、タイミング悪かっただけだよ」って。
それだけで、ちょっと生きのびれるからさ。
そうやって、
私は生きてきたんだし。
雨の音は、ずっと続いていた。
止むことを忘れたように、静かに、冷たく。
私は、傘を持たずに外へ出た。
理由なんてなかった。ただ、濡れたかった。
足元には水たまり、
その奥には知らないわたしの顔。
目を合わせると、
すぐに揺れて壊れてしまった。
空が少しずつ薄くなって、
遠くに色が差し込んだとき
私は忘れていた願いを思い出す。
虹の、いちばん手前を探してみたかった。
どこにも繋がらない曲線の、始まりを。
誰も触れたことのない、端っこを。
濡れた道に靴音を落としながら
向かうあてもないのに、ただ歩いた。
誰かの笑い声を横切って
止まった信号に、意味もなく背を向けて。
でも
あの七色は、追えば追うほど逃げていく。
まるで
いつかの私みたいだった。
それでも、探すの。
なぜって、あの色に手が届いたら、
きっともう一度だけ
私は、わたしを信じられる気がしたから。
虹のはじまりなんて、
最初からなかったのかもしれない。
だけど、探したことだけは、
嘘じゃなかった。
砂の音を知ってる?
それは風が吹いたあとに残る
誰にも聞こえない、乾いたささやき
歩きすぎた足が重くなって
影を失った背中がかすれていく
あぁ、また
私じゃなくなっていく
まっすぐに立てる日ばかりじゃない
起きる理由が見つからない朝もある
それでも
なぜか喉が渇いたまま
歩くことだけはやめられなくて
見えたの
揺れてたの
目の端に、一滴のやさしさが
誰かの声だったかもしれない
忘れていた歌の一節かもしれない
それとも
ただ、あなたの笑顔だったのかも
オアシスは、
決して水じゃなかった
それは、
私が“わたしに還れる”という確信
ここまで来てよかった
なんて言葉を誰にも言わないけれど
私の中に、やっと根が張った
名もなき優しさが、今も波紋を広げてる
だから今日も、砂の上を歩いていく
目を細めながら
もういちど、その影を探して
あの夜、枕の端に落ちたひと粒が
いつまでも乾かずにいたのは
私が忘れたふりをするからだ
カーテンの隙間から
街灯がゆらゆらと部屋の壁をなでて、
薄く波打つ、過去の情景
誰かに「泣いていたの?」と
訊かれたとして
この頬の跡に言い訳は必要だろうか
夜は優しくなれない
だけど、優しすぎるから困る
涙を流せば、夜はただそれを拭わず
ただ、眺めている
涙の跡が語るのは
そのとき言えなかった「大丈夫」の代わり
私の知らないわたしが
鏡の奥で頬をなぞって
代わりに「私は大丈夫」と言う
翌朝
冷えた跡が残るその場所に
また、ファンデーションを置いて
何もなかった顔に作り直す
でもね
あなたが気づかなくてもいい
この跡は、私が生きていた証だから
午後のバス停で
風が通り抜けた後、
あなたの腕に視線が止まった
日焼けも、
無防備な薄い絆創膏も、
あまりにも、あっけなく見えて
私は半袖を着ない
理由がないわけじゃない
ただ、それを口にするのは
ずっと、苦手だった
でもあなたは平気で
袖の短さに、心まで短くしたみたいに
「今日も暑いね」って笑った
夏が来るたびに
毎年くるくる袖を折り返して
何も知らずに、明るい様子で
私の沈黙をくすぐってきた
あなたの半袖は
何も隠されていなかった
私だけ。
───鉄の匂いが鼻を掠めた気がした