整脈と不整脈と

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7/14/2025, 12:17:07 PM

目を閉じれば、
ひとつ前の夏がまぶたの裏に浮かぶ。
それは記憶というには淡すぎて、
夢というには湿っている。

路地裏のアスファルトが、
空の色を映していた。
陽炎は逃げ水のように揺れ、
誰かの影をからかうように踊っていた。

私は白いサンダルで、誰かを待っていた。
多分、もう来ないことを知っていながら。

氷の溶けたジュースのグラスが、
テーブルの上に水たまりをつくる。
その水たまりの奥に、知らない風景が見えた。

なぜか、懐かしかった。
なぜか、少しだけ、怖かった。

夕立が来ると知っていて、
それでも洗濯物を取り込まなかった。
私のなかの誰かが、
わざと忘れたみたいに。

そうして夏が通り過ぎる度、
私の影は少しずつ、
焦げついたように短くなっていく。

夏は過ぎる。
だけど、置いていってはくれない

7/13/2025, 12:29:38 PM

壁の裏には何があるのか、
私はずっと知っていた。
知っていたけれど、誰にも言わなかった。
言葉にした瞬間、
世界の形が変わってしまう気がして。

家の廊下を歩くと、
二歩だけ音が違う板がある。
指でなぞると、
そこだけわずかに温度が違った。
幼い頃、そこに耳を当てて──
ずっと、何かの息づかいを聞いていた。

母は、私のことをよく叱った。
「また変なこと言ってる」と。
私は黙ることを覚えた。
黙って、見て、嗅いで、感じたものを、
飲み込んだ。
音の大きさは増していった。

ある日、我慢できずに声が漏れた。
「ここに何かいるんだよ」
その瞬間、母の目はわずかに震えた。
それは怒りではなく、恐れだった。

私は知ってしまった。
母も、その存在を知っていた。
だって、それはわたしの形をしていたから。

夜。灯りを消して、目を閉じると
あの音がまた聞こえる。
わたしが、壁の向こうで泣いている。
あの日からずっと、同じ場所で、同じように。

私は知っていた。
ずっと知っていた。
でも、それは「隠された真実」だった。
わたしが隠れたんじゃない。
私が、隠しておきたかったんだ。

7/13/2025, 5:06:36 AM

鳴った。
とても遠くで。
まるで、別の季節の記憶に引っかかった音。

風鈴は窓辺で揺れ、
ガラス同士が触れ合って、
優しい痛みを生んでいる。
触れたがって、でも壊れたくない、そんな音。

去年の夏が、またぶらさがっていた。
軒先で。
何も変わらないように見えて、
どこかが欠けたまま。

音の正体はたぶん──
私の言えなかった言葉。
わたしが聞こえないふりをした瞬間。
ふたりの沈黙が吊るされたまま
風に吹かれている。

繰り返されるたび、音は軽くなっていく。
まるで忘れる練習をしているように。

もう一度、風が吹いたら壊れてしまいそう。
でも、鳴らないと寂しい。

ねえ、覚えてる?
あの音は、私たちの声の代わりだった。

鳴るたび、ひとつの嘘が風に溶けていった。
鳴るたび、ふたつの影が少しだけ離れた。

風鈴が落ちる日、
わたしたちはやっと話せる気がした。

7/11/2025, 1:05:19 PM

光が網戸に触れながら
午後を一枚ずつ脱ぎ捨ててゆく。
私はまだ椅子の上、
動かない体に、透明な旅支度。

窓の向こうのベランダで
洗濯物が青空に干される。
風にゆれるシャツが手を振っている。
「はやくおいで」と言っているような──

脈の隙間からそっと抜け出し、
鍵のかかっていない思考の扉をくぐり抜け、
心だけが、するりと抜けた。
逃げた。
逃げてくれた。

草むらを踏み分け、
一度も訪れたことのないはずの
駅を知っていた。
知らない電車の、どこか見覚えのある揺れ。
知らないはずの乗客たちの、
見えすぎるほどの孤独な目。

心だけ、列車に乗った。
私を置いて。

置き去りの体がベランダに寄りかかると、
窓ガラスがうっすら曇った。
透明だったはずの旅が、
ほんのすこしだけ見えた。

「戻ってきたくない」
風がそう言った気がした。
わたしも、そう思った気がした。

心だけの逃避行。
終点のない、心だけの旅。
まだ、終わっていない。

続いている。

7/10/2025, 12:14:26 PM

第一歩は、靴の中の小石だった。
痛いけれど、脱げないまま歩き続けた。
舗装のひび割れを辿って、
フェンス越しの向こう側へ。

風景は変わらない。
でも、私は知っている。
今日の風は昨日の風じゃない。
空の色も、ほんの少し違っている。

曲がり角には誰かの影があった。
姿はないけど、そこにあった。
忘れられたガラス片、ぬるんだ空気、
濡れたままの手すり──
冒険とは、きっとこんなものだと思う。

何かを探してるのに、
何を探してるかは知らない。
「たぶん、ここじゃない」
それだけが頼りで、
それだけが、地図になる。

帰り道に見かけた猫が、
来た時と同じ場所に居てくれる保証はない。
だけどそれも、きっといい。

誰にも説明できない風景を、
誰にも話せない形で、
私はそっと、胸にしまっていく。

たぶん冒険とは

「どこに行ったか」じゃなく、
「誰にも伝えられないこと」のこと。

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