名前もない風景が
胸の奥で地図のように広がって
私を誘う
行ったこともないのに
そこにずっと、誰かが待っている気がする
声はしないけれど
目を閉じれば、手を伸ばしてくれるような
うまく笑えないとき
まっすぐ歩けないとき
世界がきしんでうるさくて
息が詰まるとき
朝焼けに包まれた坂道とか
子供が落書きした橋の裏とか
誰かが落としたハンカチの匂いのする空とか
そういう、くだらないけど
あたたかい場所を歩いてみたい
なにも証明しなくていい場所
なにも演じなくていい場所
ただの「わたし」でいていい
そんな場所を、遠くで探したい
だから今日も、地図を開けずに
心だけポケットに入れて
そっと、歩き出す
私がわたしに
ただ「よかったね」って
言ってあげられるように
わたしはクリスタル。
透明でできていて、中身はからっぽ。
けれど誰かがのぞき込むと、
その瞳に、わたしの中のものが映る。
汚れてなんかいないって、みんな言う。
でもそれは光が当たっている間だけ。
夜になれば、ただの硬い石っころ。
割れそうで割れない、無音の器。
わたしはクリスタル。
誰もが欲しがる装飾品。
友達たちが胸元に下げてくれたときは、
ほんのすこし、嬉しかった。
でも熱で曇っていった。
呼気で曇っていった。
指のあとがついて、爪の先で傷つけられて、
それでもみんなは「きれい」と言ってくれた。
本当は、
最初から欠けていたのかもしれない。
でも誰も気づかないから、
わたしも気づかないふりをした。
わたしはクリスタル。
冷たくて、きれいで、
どうしようもなく、
みんなに触れられたい。
夜の熱気に、皮膚がうすく焼かれている。
鼻の奥に刺さる、
湿った土と熱せられたアスファルトの匂い。
それは遠い過去の感情を呼び覚まし、
まだ言葉にならなかった頃の、飢えと怒りを起こしてくる。
夏の匂いがするたび、
私は思い出す。
あの夜、声を出せずに泣いたあとの
あの匂い。
血のついたシャツを脱いだときの
あの汗と錆の混じった匂い。
それを知っているのは、私だけ。
どこまで逃げても、
この季節は必ず追いかけてくる。
吐き出すたびに、息のなかに残ってる。
でも焼けた世界の匂いは、
心の最奥を焼き切ることができない。
私は生きている。
誰にも気づかれない場所で、
手を火傷しながらもこの現実を撫でている。
夏の匂いを嗅げるのは、私が生きている証。
私はそれを信じている。
薄く揺れる布は誰かの気配を知っている
朝の気配に、私はまだ気づかない。
部屋の隅で、カーテンが静かに揺れていた。
風が言葉を持たぬまま差し入れてくる。
ふとした拍子に、私は目覚めてしまった。
差し込む光。閉じたまぶたに染みる。
その白はどこまでも無垢で
けれど、裂け目から滲む影は、残酷で
私の知らないわたしの形をしている。
衝動的に視線を外す。
誰もいないはずの背後で、
カーテンが、誰かの気配を孕んで、膨らんで、また萎んだ。
それが風だと、わかっていても。
見てしまった、という不安が心を染めていく。
カーテン。
あれは、ただの布。
なのに、向こう側がある。
私の知らない、わたしの裏側が。
ときどき私は、あの向こうに行きたくなる。
あるいは、あちらから来る「わたし」に
憧れてしまう。
たった一枚の壁。
布が震える。
心が、
揺れる。
朝は来たのにまだ、カーテンを閉じたまま。
開けてしまえば、すべて壊れる気がするから。
開けてしまえば、この静けさは幻になるから。
光と影の揺れる布に、
私はずっと囚われている。
私は落ちていく
方向を掴み上を見つけ、水面から顔を出した
足元は見えない。手のひらはしわくちゃ。
片手にじめじめした金属壁を感じる。
私は深いところに沈んでいる
気づいた時にはもう下にいた
指の先で押す水は、
固く、冷たく、柔らかい。
私は名前を呼ばれた気がする。
ただそれはわたしであって私でない。
上がろうとするわたしを私は見つめている
きっとそれが最善だから。
私は完璧な自分を追い求める。
深く沈み、わたしは上がる
自分は私を押し殺した
全ては自分のため、喜びのため
私って一体誰なんだろうか