※中学生百合。金髪パリピ系女子と黒髪ロングの物静かな女子。
「あたしさー、黒髪の頃の自分、嫌いなんよね〜」
中学校からの帰り道。産まれてこの方、染髪なんて一度もしたことのない黒髪をスカート丈と同じように長く伸ばした私と並び、唐突にそんなことを言い出したのは、金色に近い明るい茶髪に髪を染め、丈を短くした制服のスカートを揺らして歩く、何処からどう見ても「不良」にしか見えない同級生。
この子の名前は明里綺良々(あかりきらら)。えっと、その······一応、私──古森伊子(こもりいこ)の、こ、こ······恋人、ということに、なっている。見た目のイメージからも明らかなように、私達は対極の属性といっても過言ではない。それが何故、そんな間柄になってしまったのか。
私は友達とは少人数で話すのが好きで、しかもどちらかと言うと自分から話すことは少なく聞き役に回ることが多い。大勢の人の輪の中に入れられると、何も喋れなくなりただニコニコ笑っていることしか出来ない。読書をすることや、勉強をすることが好き。スポーツは得意じゃなくて、運動音痴。教室の隅で密やかに生きる、半分空気みたいな存在。
対する綺良々はと言うと、髪色は派手だしスカートもすっごく短くしているけど、「不良」だとか「ワル」みたいな子ではなくて、むしろクラスの中心でワイワイと皆で賑やかに楽しんでいて、所謂「パリピ」の方に近いのかもしれない。勉強は嫌いみたいで授業中はほとんど寝てるか周りの席の子達とお喋りしてて、運動神経はいっそ羨ましく思うほどに抜群だ。名前の通りに、明るくてキラキラしてる人気者。
私達は同じクラスではあったし、稀に綺良々から話し掛けられた時にはあたふたしながらも応答したりしていた。でもそれは私だけじゃなくて、他のクラスメイトへの接し方にしたってそうだった。私だけ特別、みたいなことは断じてなかった。
だからあの日······たまたま帰宅するために向かった下駄箱で二人きりになって、そこで「あたし、古森のことそういう意味で好きだから、付き合いたいんだけど」なんて、豪速ド直球なストレートすぎる告白を受けることになるだなんて思ってもみなかった。
そもそも私は、自分みたいな人間のことを好きになってくれる人なんてこの世界に居るわけない、と思いながら生きてきたし、そんな中学生で恋人なんて早すぎるのでは!? とかも思ったし、しかも女の子同士で付き合うってどういうこと······? って疑問もあったしで、綺良々の告白に対してすぐに言葉を返すことが出来なくて、でも何故か顔だけは物凄く熱くって。きっと真っ赤になってしまっているのであろう顔を少し俯かせながら、「あ」とか「う」とか「えと」とか、そんな言葉になりきれなかったただの音を無意味に発しながら、頻りに瞳を右往左往させたり······と、これでもかとコミ障ぶりを発揮し尽くしていた。
······というのに、綺良々はそんな私にフラフラと吸い寄せられるように近付いてきて、ふわりと優しく両腕を私の肩の辺りからダラリと背中へ垂らし、その先で手と手を組んで、「可愛い······」と熱に浮かされたような声でそんなことを呟き、突然ガッツリと私の体を抱き締めてきた。パニックで硬直し、更に熱さを増したような気がした顔面。頭の中は「?」で埋め尽くされていて、相変わらず何が起きているのか全く理解出来ていないような状況だったけど、不思議と嫌な気持ちには全然ならなくて。そうやって私を抱き締めながら、綺良々は私の黒髪にスリ······と頬を擦り付けながら、言った。
「ごめん、我慢出来なくて······でもあたし、本気だから。今ね、あたしの心臓バックバクしてて超うるさいけど、でも古森の近くに居ると凄く安心する。あたしが求めてたものってこれだったんだ〜って、そう思ったんだよ。だから······」
綺良々は抱き締めていた腕を解き、今度は両手を私の肩にポンと置き、真正面から私を見つめた。綺良々の顔も真っ赤になってて、綺麗なカラコンが入ってる瞳はチワワみたいにウルウルと水気を増していて、たったそれだけのことで私の心臓は一気に鼓動を早めて、胸の奥がキュゥッとなった。
「お願い、古森。あたしの恋人になって」
小首を傾げながらそんな「お願い」をされてしまったら、もうそんなの答えは一つしかなかった。
後から当時のことを思い返した時に、その場の雰囲気に当てられたか、流されたか······そんな、綺良々に失礼すぎる成り行きで恋人になんてなったのではないか? と自問自答することを何回か繰り返したけど、私の答えは結局いつも同じだった。私にないものをたくさん持ってて、こんな私にたくさんの「好き」を伝えてくれる綺良々のことを、私も好きになっちゃったんだ。
······そうして漸く話は冒頭に戻るんだけど。
「黒髪の綺良々かぁ······ちょっと想像出来ないかも? でも、何で嫌いなの?」
「そんなの、理由なんて一つに決まってんじゃーん! 全っっっっ然、似合わなかったの!」
綺良々は、私の背中に流れる髪を一房掬い、それをサラサラと落としていきながら、ホゥ······と幸せそうな吐息を吐く。
「伊子みたいな見蕩れるような綺麗な黒髪だったら、また違ったのかもしれないけど」
「も、もうっ······! は、恥ずかしいから、やめてよ······」
「伊子がいちいち可愛すぎる反応してくれるのが悪いんだよー?」
「理不尽だよぉ······」
暫く私の髪に悪戯していた綺良々だったけど、その指は私のご機嫌を取るみたいにスルリと私の指へと自然に絡まってくる。恥ずかしい······恥ずかしいけど、私も勇気を出して自分の方からも綺良々の指に自分の指を絡めた。途端、力強く握りしめられて、私達──相反する二人の少女達は、想いを確かめ合うかのように互いの手を握り、同じ歩幅で歩く。
「······私、綺良々の陰にしかなれないなぁ」
何気なく私が呟くと、綺良々は私の方へ顔を向け「どゆこと?」と尋ねてくる。
「ん、と······綺良々って、すっごく眩しいから。こうやって綺良々の隣に居る私は、綺良々の眩しさに飲み込まれて、真っ黒い日陰にでもなってるんだろうなぁって」
綺良々とこういう関係になって、二人肩を並べて生きるようになって······そうして私は改めて、この明里綺良々という人物の煌めきを再認識した。強すぎる光は、陰を生み出す。私はまるで、綺良々に憧れて真似してみただけの綺良々の陰みたい······なんて、少しばかり考えていたんだ。
「······伊子、相変わらずむずかしーこと考えすぎ!」
「あはは······ごめんね?」
「あと! よくわかんないけど、伊子は日陰でいーの!」
「え······?」
私も綺良々の言いたいことがよくわからなくて、首を傾げながら綺良々の顔を見つめる。
「だって日陰ってさ、あっつーーーい夏の日にあると嬉しくなんじゃん!? ここでちょっと休も〜······ってなるじゃんね? だから伊子は、日陰でいーの。あたし専用の休憩ポイント! 癒し効果バツグン!」
そんな、想像もしていなかった綺良々の持論を聞いて······私は、声を出して笑った。
「アハッ! アハハハ! もう、綺良々ぁ〜······真顔で面白いこと言うの、やめてよ〜」
「ハァ!? 今の、何処が伊子のツボにぶち刺さったぁ? 伊子の笑いのツボ、マジわからんのだがー
!」
「ごめん、ごめんね? 面白かったのはそうなんだけど、でもそれ以上に······嬉しかった。ありがと、綺良々」
「······〜っ!」
突然吹いてきた風が私達を包み、私のこの黒の髪が舞い踊る。漆黒の闇を彷彿とさせていたはずのそれは、大好きな人の癒しになれることを喜び、縦横無尽に跳ね回っては嬉しさを露わにしていた。
昼休憩の時間となったキャンパス内は道という道を大勢の生徒達が移動のために使用するため、喧騒も混雑具合も一日の間で一番激しいかもしれない。
そんな人波の中を、俺──伏見静海(ふしみしずみ)と、幼馴染みのうちの一人である小向井茜(こむかいあかね)は、いつも使用していた食堂とは逆の方向にある別の食堂へ向かって二人、歩いていた。
「いやぁ〜、それにしても今朝はビックリしたよね〜!!」
茜が大きく明るい声で話し掛けてくる。茜は身長が小柄で、俺との身長差は約三十センチにもなるため、声が聞き取りやすいようにとボリュームを上げて話す傾向がある。
「まぁ······そうだな」
俺は自ずと、今朝のことを思い返す。
俺と茜にはあと二人、幼稚園から大学まで丸々同じ進路を辿ってきた幼馴染みが居て、一人は王野宥人(おおのゆうと)といい、もう一人は羽金穏(はがねのん)という。宥人は誰とでも仲良くなれる「良い奴」って感じで、クラスの中心に居ることが多い、所謂人気者タイプ。穏はある意味「不思議ちゃん」な面もあるもののその独特の感性が面白く、そして分け隔てなく誰にでも優しく出来るような大らかな心の持ち主だ。二人とも、自慢の幼馴染みだと断言出来る。
いつも四人で登校し、四人で集まって学食を食べ、それぞれサークル活動だったりバイトだったりで帰りは別々になることが多かったものの、暇さえあれば自然と四人で寄り集まり、共に過ごすのが当たり前だった。しかしそんな当たり前は、何の前触れもなく今朝、終わりを迎えたのだ。
「あの、さ。二人に聞いてほしいことがあるんだけど······」
そう切り出したのは、宥人だった。いつもハキハキ喋るコイツが妙に歯切れの悪い言い方をしたのが、微かに心に引っかかったのを覚えている。
俺と茜が先を促すと、宥人と穏は一瞬お互いに顔を見合わせて。
「実は俺達······付き合うことになり、まし、た······いや、なった!」
「宥人〜〜? そーんなわかりやすく照れられるとこっちまで照れるんだけど〜〜? ······えと、今宥人が言ってくれた通り。お付き合いすることになりました〜〜パチパチ〜〜!」
「······マジか」
俺は純粋に驚いた。今までずっと四人で過ごしてきたのに、まさかこの二人が恋人同士になりたいという気持ちをお互い胸の内に秘めて過ごしていただなんて、恥ずかしいことに微塵も気付かなかったのだ。近すぎると逆によく見えなくなるものなのだろうか、そういうのって。
「すげービックリしたけど······ま、おめでと」
二人を祝福する言葉を述べれば、宥人は「サンキュー!」と歯を見せて笑い、穏は「ありがとね〜!」と小首を傾げながら微笑んだ。
「いや、マジですげーな······俺全然気付かんかったわ。茜はどうだった? ······茜?」
俺が茜の方に目を遣り声を掛けると、それまで一言も発していなかった茜はハッとした表情をしたあと、困ったように眉を下げ申し訳なさそうに笑う。
「ご、ごめんごめん······あまりにビックリしすぎて、頭が宇宙に飛んでってた」
「宇宙猫ならぬ、宇宙茜ってやつ?」
「宇宙茜〜! 今度コラ画像作って送ってあげよっか〜?」
「やめてよ、もー! 肖像権侵害で訴えるぞー! コラー!」
そんな掛け合いをし三人で楽しそうに笑っているが······俺はどうにも、茜の様子に違和感を抱いた。なんていうのか······挫いた足を我慢して歩いてる感じというか、本当はもうフラフラですぐにでも倒れ込みたいのに気合いでそれを耐えている感じというか······とにかく、どことなく「あ、コイツ無理してんな」ってのを何となく感じ取った。
「そんなことより! まだ大事なこと私言えてないじゃん!」
そう言い会話を仕切り直した茜は、笑顔で二人に向き直り、その言葉を口にした。
「二人とも、おめでと! お幸せにね!」
その満面の笑みが、俺には何故だか泣いているように見えて。そんな茜を見つめたまま俺は、被っていたキャップ帽のバイザーを少しだけ左右に弄った。
そんなことがあったので、いつも四人で食べていた昼食だったが、急遽茜と二人で食べることになったわけだ。二人には茜からLINEで連絡したらしい。
「二人でゆっくり食べな〜って送っといた! ハートマークつきで!」
そう話す茜はやっぱり笑顔なのだが······未だに今朝感じた違和感を俺は拭いきれずにいた。この時、既に俺の中では一つの仮説が浮上していた。近すぎて見えないものはあの二人のことだけじゃなかったんだ、きっと。
「でもさぁ〜なんていうかお似合いの二人だよね〜! 二人とも顔面よくてさぁ、そんでもって性格もいいって、もう理想すぎるカップルじゃんねー!?」
「······茜」
「嬉しいなぁー、二人の恋が上手くいって! だって、お互い小学校の高学年ぐらいにはもう意識してたって言ってたじゃん? 二人して一途すぎるよ〜〜とんでもない大恋愛じゃん!」
「············茜」
「ねぇねぇ、このまま二人が付き合い続けたら、いつか結婚までいくかな? そうしたら私ら、絶対結婚式呼んでもらえるじゃんね〜! ハァ〜穏のウエディングドレス姿、綺麗だろうなぁ〜······早く見たいなぁ〜······」
「茜」
まるで何か疚しいことでも隠すかのようにペラペラと口を動かし続ける茜を、その名を少し強めの口調で呼ぶことで何とか黙らせることに成功する。
いつだって、茜だけに限らず、幼馴染み達との会話は俺にとって楽しいものだった。でも今は。今のこの茜との会話は、ちっとも楽しくなかった。だんだんと腹が立ってきた程度には、面白くなかった。
「お前さ、嘘つくのやめろ」
「ハァ? 嘘? 私、嘘なんかついてないよ」
強情な茜の態度に、俺はハァ······と一つ溜め息を吐く。茜を傷付けたいわけではないが、これは茜のためにも言わざるを得ないことだろうと割り切り、俺は足を止めて真正面から茜を見下ろした。
「じゃあ、言い方変えるわ」
「へ?」
「誤魔化すのやめろ」
「え」
「二人のこと、祝福してるようなフリすんのやめろ」
「ハァ!? フリって······別にそんなこと······!」
「悲しい気持ち押し殺してまで、笑うの。やめろ」
「············」
茜の顔からストンと、一切の表情が抜け落ちて。茜はその何も無い顔で俺を見上げ、暫く呆然としていた。俺は目を逸らさなかった。逸らしてなんてやらなかった。お前の考えてることなんて全部お見通しなんだよバーカ、と視線で告げてやった。
それが追い討ちとなったのだろうか······茜は、ゆっくりと口を開いた。
「······自分でも、気付いてなかったの」
「······」
「でも、朝、あの話を聞かされて······そこで初めて、気付いたの。なんでだろうね。近すぎると、逆にわかんなくなっちゃうものなのかな」
「······」
「私······一体いつから、宥人の、こと······ッ」
そこまで話して、漸く感情が追い付いてきたのだろう。俺を見上げたまま、茜の目から涙が溢れる。決壊した川のように、流れ続ける。
顔を俯かせ、凍てついた風に耐えるかのように肩を震わせ泣き続ける茜を見下ろして······俺は自分の被っていたキャップ帽を脱ぎ、茜の小さな頭に乗せた。
「気ぃ済むまで泣きな」
「······ぅ、ッうぁ······!」
「それ被っとけば、誰にもバレないから」
「ッう、ん······うんっ······!」
手で涙を拭いながら頷く茜のキャップ帽の位置を少し調整してやり、きっとろくに前も見えていないのであろう茜の腕を取って、俺は出来るだけゆっくりと時間を掛けて食堂への道を歩くのだった。
今どき珍しくも何ともないだろうけど、私の両親は離婚している。私が小学生になってすぐの頃だったと思う。理由は単純なもので、父親が愛人を作り浮気していた。これにしたって、別に珍しくなんかないありふれたものだろう。親権は、当たり前のように母が獲得。それ以降、あのダメ親父とは母子ともども一度も会っていない。
父親に対しては、高校生になった今でも良い感情なんて到底持てるはずもないのだけれど、あんなクソ野郎でも父親は父親。離婚する前は、それなりに可愛がってもくれた。そんな父親と、まだ幼い頃に引き離された弊害だろうか。薄々自覚していたことではあったのだが、私は恐らく、父性愛に飢えている。だからといってあのダメ親父に会いたいかと言われたら絶対に会いたくない。嫌すぎる。二度と目の前に現れるな、ドタマかち割るぞ。
つまり何が言いたいかというと、私の恋愛対象は父親ほど歳の離れた······世間的に考えれば歳が離れすぎた男性に惹かれてしまうパターンが多い。同級生にも年下にも一ミリも興味が湧かない。同世代に分類されてしまうような年齢の年上でもダメ。ケツが青すぎる、却下。
そうなると、普通に学生生活を送っている中で、恋愛対象になってしまう相手というか属性というかが自ずと定まってしまうわけで。何とも難儀なことに、私の歴代の片想い相手は全員が全員、二十〜三十歳ほど年齢の離れた学校の先生である。勿論、ストライクゾーンの年齢であれば誰でもいいというわけではない。私は別にただのオジ専なわけではないのだ。当然だが、一般的な清潔感、感性、常識、人間として尊敬出来るか······などなど、相手に求める条件はきちんと設定している。言葉を選ばずに簡潔に言うなら、デブとハゲは論外かつ、いい意味で年齢を感じさせないような大人の男性がいい。ぶっちゃけ、顔が好みならもう言うことなし。
さて、そんな難解な性的嗜好の持ち主となってしまった私ではあるが、実は現在、片想い真っ最中なのである。私が通う高校に勤めている、丁原(ていばら)先生という人だ。
丁原先生は数学の授業を受け持っており、私のクラスにも授業をしに来てくれている。年齢は四十六歳。私と丁度三十歳の差だ。はい、ストライクゾーンにフリーキック入りました〜。いえ〜い。
少し長めの黒髪ショートヘアは、先生のクールな印象にとてもよく似合っていて、目付きは鋭く表情の変化にも乏しい、言ってしまえば近寄りがたく話しかけ辛い先生の姿に爽やかさを付け足し、演出してくれている。淡々と授業をこなす先生の声はとても落ち着いていて、高すぎず低すぎないとても良い声をお持ちだ。黒板に書く文字は筆圧が濃く少し角張っていて、「あ〜、先生の文字だなぁ」なんて、文字一つにすら先生の面影を感じ、恋心を抑えられない。その恋心に数学の成績が追い付いてくれないのだけが大きな課題である。
更に、丁原先生は風紀委員会の担当教諭でもあって、毎朝校門の横で風紀委員の生徒達と共に「おはようございます」と登校してくる生徒達の集団に朝の挨拶をしてくださっている。毎朝登校一番に先生の姿を見ることができ、声を聞くこともできる。あまりにも最高の一日の始まりすぎる。こんなの、目の前にニンジンをぶら下げられた馬にもなろうというもの。私はそのお陰で、遅刻・欠席することがなくなった。恋の力は偉大である。
しかし、だ。こんなにも丁原先生のことを心から慕ってはいるものの、私はこれまで丁原先生と面と向かって直接話をしたことがない。だって、あまりにも好みどストライクすぎるのだ。落ち着き払っていて、クールで、顔もタイプで、パッと見では実年齢より若く見えるにも関わらず年齢を感じさせる薄い皺が目元に数本存在しているのもこれまたたまらんポイントで、常に纏っている「厳しい先生」独特の尖ったオーラには怯えや恐れといった感情を抱くよりも先に脳みそが痺れる。漫画とかイラストなんかで、落雷で感電して骸骨として描写されるよく見るアレ、まさしくあんな状態。実はアレ私でした。知らんかったけど。
丁原先生を目の前にした私は絶対に理性を失う。断言出来る。想像するまでもなく目に見えている。多分人間の形を保てなくなる、先生のことが好きすぎて。
それでも······恋する乙女としては、やはり一度くらい、先生とちゃんと「会話」をしたい······と、思ッテ、ハ、イル。でも絶対無理。絶対絶対、無理。廊下の遥か先から丁原先生が歩いてくる姿を見つけただけで心拍数が爆上がりの鰻登りで命の危機を感じるというのに、そんな······そんな······会話だなんて、畏れ多すぎるッ······!!
とか何とか言いつつ。結局これは、私に勇気がないってだけの話。ただ、それだけ。丁原先生の前に立った時、先生の目に私がどう写りどんな感情を抱くのかを想像して怖くなる。丁原先生と会話をし、先生が私にどんな印象を持ちどんな評価を下すのかを想像して恐くなる。······私の、この不純すぎる気持ちが伝わってしまうかもしれないことを想像して、その時先生にどんな視線を向けられるのかを想像して、死にたくなる。
それなのに、私の心はもう先生への「好き!」でいっぱいで今にも張り裂けそうで、あんなウジウジと湿った六月の湿気みたいなことを考えながら、その一方で「先生とコミュニケーションを取ってみたい」という気持ちも沸々と煮立ってきて、もう自分でもどうすればいいのかわからない。完全にお手上げだ。そう思っていた。
そんな私の元に、天啓が舞い降りた。──世はもうすぐ、バレンタインデーを迎える。
二月十四日。朝。
校門の少し手前で立ち止まり、私は必死に何度も何度も深呼吸を繰り返す。それでも落ち着かないので、ついでにラマーズ法もやっておいた。やっぱり全然落ち着かなかった。
スクールバッグの中に忍ばせた、青い包装紙でラッピングされただけの小さめの正方形の箱へと視線を向け、ゴクリと喉を鳴らす。用意してしまった。そう、私は用意してしまったのだ······丁原先生に贈る、バレンタインのプレゼントを。
ここまでしてしまったのならもう後には退けない。それが恋する乙女というもの。恋という名の戦場で日々戦い続ける者。退かぬ、媚びぬ、省みぬの精神を持たなければ。帝王に逃走がないのなら恋する乙女にだって逃走なんぞない。乙女ナメんな。
頭の中でどこかの聖帝が華麗に空中を舞うと同時に、私の足は遂に一歩を踏み出した。心の中で素数を数えようとしたが、生憎素数が何なのかよくわからないのでただ一から順番に数字を数えるだけになった。あまりにも無益すぎる時間だった。
そんな馬鹿なことを考えている間に、校門はどんどん迫ってくる。もう風紀委員の生徒達のクソデカ大声の輪唱は余裕で聞こえてきている。私はスクールバッグに手を突っ込み、そっとプレゼントを掴む。ああ、神様、聖帝様、お願いします。私に、ほんのちょっとの勇気を!!
「おはようございます。······はい、おはようございます」
今日も丁原先生は校門前で、通り過ぎていく生徒達に向け挨拶をしている。風紀委員達とは対照的に、一定のトーンで淡々と放たれる落ち着いた声。ともすれば事務的とも捉えられかねない、静かと言われればそうでもなく、かと言ってとてもじゃないが元気ハツラツとも言えない、ある意味で先生らしさが滲み出ているマイペースな挨拶。
いつもは。いつもだったら、その声を聞き、幸せな気分に浸りながら、挨拶を返すことも出来ずにそそくさと足早に校門ゾーンを抜けていた。でも、今日は違う。今日の私は、違うんだ。
「······ッ丁原先生!」
先生の傍へ行き、初めて自分から先生の名前を声に出し、呼んだ。ああ、既に顔が真っ赤になっていそうだからこっち見ないでほしい······なんていう、自分勝手にもほどがある失礼すぎることを考えていたら、先生の顔がこちらを向いた。
「はい、おはようございます」
先生、それはズルすぎる。ファンサが過ぎる。先生の挨拶、独り占めしちゃったよ私。
「お、おはようございます! あのっ、その······いつも朝の挨拶お疲れ様です! よければこれ、食べてください!」
途中何度か言葉に詰まりかけるも、言いたいことを全て伝えた私はスクールバッグから例のプレゼントを取り出し、頭を下げながら両手で掴んだそれを先生に向けて献上する。
「············」
先生の手がプレゼントに触れることもなく、また何か声を発するでもない、「無」の時間が数瞬、私達を包んだ。周りの喧騒が右から左へ流れていき、何の音もない世界に放り投げられたような感覚。下げた頭を上げられない私は、ひたすら地面を見つめながら待つことしか出来ない。ヤバ、顔に変な汗滲んできた。
そうして幾分か経った後、先生はその静寂を切り裂いた。
「生徒から個人的な贈り物をもらうことは出来ない」
ガツン、と頭を鈍器で思いっきり殴られたような衝撃が走る。はは、あはは。考えてみればそりゃそうだ。だって今日は二月十四日。わざわざこの日を選んでプレゼントを渡してくる意味なんて、一つしかない。その一つに気付かないほど先生は鈍感ではなかったし、それどころか受け取ってしまった後のリスクまで考慮しているに違いない。私は生徒。相手は先生。こんな小娘、先生にとってはハエを追い払うみたいに簡単にあしらうことが出来る。しかも丁原先生は、学校の風紀を守る風紀委員を纏める先生なのだ。そんな人が自分から風紀を乱すわけがないじゃないか。そんな簡単なことにも気付かずに私は一人で浮かれて一人で舞い上がって······あー、なんてバカなんだろう、私。
「そうですか······ッそう、ですよね! ごめんなさい!」
先生の姿を見たら涙が出そうな気がして、顔を上げられないまましかし声だけは明るくあろうと努め、気合いで気力を振り絞った。大丈夫、バレてない。今にも泣きそうになってるだなんて、そのせいで声が震えそうになってるだなんて、そんなのバレてるわけない。大丈夫、大丈夫。
「ただ」
もう話も私の恋も終わったとばかり思っていたのに、先生の声が再び耳に染み渡る。それは、さっきスッパリとプレゼントを受け取ることを拒否した時より、ほんの少し、トゲが取れた声音のように感じられた。
「どうしてもと言うことなら、休み時間か帰りのホームルームが終わった後にもう一度来なさい」
ビックリして勢いよく顔を上げる。先生の顔はいつも通り、人に心を読ませないような仏頂面だったけど、掛けられた声は······やっぱり、いつもの先生よりちょっと優しくて、声に“温度”を感じた。先生も一人の人間で、生徒のことをちゃんと大事に思ってくれているんだなって······そんな当たり前のことを、再認識した。クソぅ、惚れ直しちゃうじゃん先生のバカ!
「はいっ······! 必ず、もう一度会いに行きます! あと、丁原先生」
「はい、何ですか」
ものはついで。このチャンスを最大限、有効活用するべし。戦闘モードに切り替わった乙女のパワー、まだまだ先生に注入してやるんだから。恐れおののけー!
「私、素数が何なのかわかんないのでついでに教えてもらいたいです!」
「············」
片手を上げながらお窺いをたてる私を見ながら先生は暫し絶句し、「素、数······」と何かに恐れ慄いたような声色で、悲愴感溢れる表情をしていた。わ、これ初めて見る表情だ! どんな先生も格好良い! 好き!
背後で先生が現実を受け入れようとするかのように「素数······」と何度も呟いていることなどいざ知らず、私は登校したばかりだというのに既に放課後のことで頭がいっぱいで脳みそお花畑状態になりながら、自分のクラスへと足取り軽く向かうのだった。
これは、むかぁしむかし、あるひとざとはなれたもりのなか。ちいさなむらにまよいこんだ、おとこのこのおはなし。
おとこのこのすんでいるむらは、けっしておかねもちではありませんでした。おとなたちはまいにちひっしにはたらき、みちばたのこいしていどのおかねをすこしずつたくわえながら、しっそなせいかつをおくっていました。
おとこのこはまだおさなく、そだちざかりだというのに、まんぞくなごはんもあたえてもらえず、ひもじいおもいをしてすごしていました。
そんなあるひのことです。おとうさんとおかあさんがしごとをしにいっているあいだ、おとこのこはいつもどおりいえのちかくでひとりであそんでいました。きょうは、おとこのこのあたまとおなじぐらいのボールをつかってあそぶことにしました。
ボールをりょうてでもち、いえのかべにぶつけてはキャッチし、ぶつけてはキャッチし。うごけばそれだけおなかもへってしまうのですが、おとこのこはいえのなかでじっとしていることはたいくつなのできらいでした。
きょうのごはんはなんだろう。またてのひらぐらいのパンと、やさいがひとつしかはいっていないスープなのかな。
よるごはんにおもいをはせていたおとこのこのおなかが、グゥ〜、とおおきなおとをならしました。
それにきをとられてしまったのか、おとこのこのてもとがくるい、ちからかげんをまちがえてなげてしまったボールは、かべにはねかえったあと、おとこのこのあたまのうえをはるかにこえたさきでぢめんにちゃくちし、コロコロところがっていきます。
「わぁ! まって!」
おとこのこのすんでいるいえは、すこしこだかいばしょにたっていました。しゅういをなだらかなさかみちにかこまれていることがわざわいし、おとこのこのてをはなれたボールは、まるでじゆうをえられたことをよろこぶかのように、コロコロコロコロと、とまることなくさかみちをかけおりていきました。
おとこのこは、おおあわてでボールのあとをおいます。いくら「まって!」とこえをかけても、ボールがとまってくれるようすはありません。ころがりつづけるボールをひっしのおもいでおいかけていたおとこのこは、じぶんがいえからだいぶはなれたばしょまできてしまっていたことにきがつきました。
キョロキョロとみまわすと、ながいさかみちのたびをおえたボールは、おとこのこがたつすこしさきのばしょでとまっていました。おとこのこはボールのもとへかけより、しっかりとりょうてでボールをだきかかえました。
ホッといきをはいたおとこのこでしたが、ふとよこをみると、くらく、ふかいもりが、そのさきにひろがっていました。おとこのこは、おとうさんやおかあさんがいっていたはなしをおもいだします。
『ふもとのもりにはぜったいにはいるなよ』
『あのもりにはこわいひとたちがすんでいるから、ちかよったらだめよ』
きっとこのもりが、ふたりがはなしていたもりなのでしょう。いままでこれっぽっちもきにしていなかったのに、じっさいにもりをめのまえにしたおとこのこは、なかにはいってみたくてたまらなくなりました。さいわい、そらはきれいにはれわたり、たいようがあたまのうえでまぶしいひかりをはなっています。
──ちょっとだけはいって、ちょっとだけたんけんするぐらいなら、だいじょうぶ。
ゆうわくにまけたおとこのこは、ボールをかかえたままもりのなかへとあゆみをすすめていきました。
すこしあるいたじてんで、おとこのこはすでにこうかいしはじめていました。もりのなかは、おとこのこがそうぞうしていたいじょうにくらかったのです。せのたかいきがたくさんおいしげり、まうえにあるはずのたいようのすがたがまったくみえないのです。そのせいか、もりのなかはすこしはだざむく、よけいにうすきみわるいふんいきをかもしだしていました。
──どうしよう······もうかえろうかな。
おとこのこがそうかんがえはじめたころのことです。おくのほうに、なにかあかるいものがみえてきました。もしかしたら、でぐちかもしれません。そうかんがえたおとこのこは、そのひかりをめざしてはしりだしました。
そうしておとこのこはうすぐらいもりをとおりぬけ、ひかりのもとへとたどりつきました。······おとこのこは、めのまえにひろがるこうけいにめをまるくしました。
そこには、むらがありました。もくせいの、じょうぶそうないえがいくつもたっていて、すこしむこうのほうにはおおきなはたけなんかもみえました。
おとこのこがたいようのひかりだとおもっていたものは、むらのちゅうしんでもえさかるきょだいなひばしらで、ゴオォ、ボオォ、とほのおがおおきなおとをたてながらメラメラとちからづよくもえています。ちいさくほそいこえだもパチパチとおとをならし、じぶんもがんばっているぞ! ということをひっしにつたえているみたいでした。
なにげなくうえをみあげたおとこのこは、ビックリしました。あかるいばしょにでられたことで、もりのなかからだっしゅつできたとおもっていたおとこのこでしたが、ここはまだ、もりのなかだったのです。ここまでのみちのりとおなじように、きぎのはっぱがそらをおおいかくし、たいようのひかりはとどいていません。つまりこのむらのひとたちにとってのたいようは、このほのおなんだということにきがつくのに、じかんはかかりませんでした。
ぼんやりとほのおをながめていると、はたけのほうからひとりのむらびとがかえってきました。おとなのおとこのひとでした。そのひとはおとこのこのそんざいにきがつくと、むごんでしばらくめをまるくしていましたが、すぐにおとこのこのほうにちかづいてきて、きさくにはなしかけてきました。
「こんにちは。まいごかな?」
おとこのこはひっしにくびをたてにふり、コクコクとうなずきました。おとこのひとはこたえをきくと、ウーン、とかんがえこむようなひょうじょうをしました。
「たぶん、もりのそとのこだよね? おくりかえしてあげたいのはやまやまなんだけど······」
おとこのひとがそこまではなしたとき、ほかのいえよりもおおきなつくりのおやしきから、ひとりのおばあさんがでてきました。
「はなしはきかせてもらったよ」
「ちょうろう!」
おとこのひとは、おばあさんのことを「ちょうろう」とよび、ふかくふかくおじぎをしていました。このむらのえらいひとなんだな、とおもったおとこのこは、おなじようにおばあさんにむかっておじぎをしました。
「ぼうやにはわるいが、このむらにはこのむらどくじのおきてがあってね。なぁに、そんなにこわがるようなもんじゃない」
おばあさんはおとこのこのほうへあるいてきながら、せつめいをしてくれます。
「そとからきたものは、なにかわるいものをつれてきているかもしれない。そとのびょうき、そとのよごれたくうき、そとのいまわしいにんげんのよく······そういったわるいものが、このむらでわるさをするかもしれなくてね」
おばあさんはためいきをひとつはき、めをとじて、むかしのはなしをしてくれました。
「······まえにも、そとのにんげんがこのむらにまよいこんできたことがあった。わしのひいばあちゃんだか、ひいひいばあちゃんだか、それぐらいむかしのはなしじゃ。くわしいことはふせるが、ぼうやにもわかりやすくはなすなら、そのにんげんのせいでこのむらにわざわいがおきた。むらのものがなんにんも、なんにんも、しんでいった。だから、こんごにどとそんなことがおきないようにと、ごせんぞさまたちはおきてをつくってくださった」
「······ぼくは、なにをすればいいの?」
おばあさんがはなしたないようは、おとこのこにとってはひじょうにショッキングなもので、むかしこのむらにきたにんげんのようにはなりたくない、とこころのそこからおもいました。ここにすむたくさんのひとをしなせてしまうなんて、そんなかなしいこと、かんがえたくもありませんでした。
なくのをがまんしながらおばあさんをみつめれば、おばあさんはニッコリとわらっておとこのこのあたまをなでてくれました。
「しんぱいせんでもええ。こわがるようなもんじゃないって、さっきはなしたじゃろう?」
「でも······」
まだふあんそうなかおをしたおとこのこに、こんどはおとこのひとがよりそい、ポンとやさしくおとこのこのかたをたたきました。
「だいじょうぶ。ほんとうに、こわいことなんてなにもない。きみはただ、みっかかん、ここでむらびとたちとおなじようにすごせばそれでいいんだから」
「おなじように、すごす······?」
「そう。おなじようにしごとをして、おなじようにしょくじをして、おなじようにねて、おなじようにいのりをささげる」
「そうすることでな、かみさまのめをあざむくんじゃよ。このものはそとからきたものじゃありません、もともとこのむらのものです、ってのう」
おばあさんは、おおきくたちのぼるほのおをみあげ、いいました。
「そうすれば、おまえにも、むらにも、なにもわるいことはおきん」
おとこのこははなしをききおえ、すこしだけなやんでしまいました。ここでみっかかんすごすということは、みっかかん、いえにかえれないということです。おとうさんとおかあさんが、かえってこないじぶんをしんぱいするかもしれません。かえったとき、たくさんおこられてしまうかもしれません。
それでも、おとこのこはきめました。このむらでみっかかんすごすことを。やっぱり、こんなにやさしくしてくれるこのむらのひとたちをふこうになんてしたくありませんでした。
「ぼく、みっかかんここでくらします。······じゃなくて、みっかかん、ここにすませてください」
よろしくおねがいします、とあたまをさげると、おばあさんはやさしいわらいごえをあげました。
「ホッホ、ぼうやはほんとうにええこじゃのう。だいじょうぶじゃ、きっとかみさまはおゆるしくださるからの」
おとこのひともかいかつにわらって、いいました。
「そうときまれば、こんやはうたげだな! みんなにしらせてきます!」
そうしておとこのひとは、はたけのほうへはしりさっていきました。「おぉーい! こんやはうたげだぞー!」とこえをはりあげながら。
そうしてそのよる、おとこのこをかんげいするうたげがかいさいされました。ふだんはみんな、それぞれのいえでごはんをたべるそうですが、うたげのときにはむらのちゅうおうのほのおのまわりへあつまり、むらびとぜんいんでいっしょにごはんをたべるそうです。
そしてだいじなのは、ごはんをたべるちょくぜん。じめんにすわり、ほのおにむかってせなかをおりまげ、つちにおでこをこすりつけながらふかくおじぎをするのだと。これは、かみさまへのいのりのぎしきだといいます。おとこのこも、みようみまねで、ほのおにむかっていのりをささげました。
うたげはきょうからはじまり、みっかかんつづくそうです。こうやってむらびとがたのしそうにしているようすをかみさまにみてもらい、そとのものなんていませんよ、とあぴーるをするのだそうです。
うたげででてきたりょうりは、いえでたべていたものとはくらべものにならないほど、ごうかでした。
「わぁ! すごい!」
おもわずそんなかんそうがとびだしてしまうぐらい、おとこのこはかずかずのりょうりにかんどうしてしまいました。
きけばこのむらでは、みんなでいっしょにきょうどうのはたけでやさいやこくもつ、くだものなどをそだて、しゅうかくしたものはいっかいむらにほうのうする、というかたちであつめられ、そのご、あらためてそれぞれのいえにきんとうにわけあたえられるのだとか。
むらびとたちは、まるでぜんいんがおなじちをひくかぞくのように、いったいとなってくらしているのだと。だからこそみんなびょうどうで、ゆうれつもうまれず、へいわをたもっていけているのだと。むらのおとなたちは、しあわせそうにわらいながらおとこのこにせつめいしてくれました。
「わぁ! すごい!」
それは、おとこのこがすんでいるむらではけっしてじつげんされそうにもない、りそうてきなむらのすがたでした。こどもも、いろいろなとしごろのこがたくさんいましたが、だれひとりふしあわせそうなかおをしているこをみかけませんでした。じぶんのようにガリガリにやせているこもいませんでした。こんなにごうかでえいようたっぷりのごはんをまいにちたべていれば、とうぜんのことです。おとこのこは、このむらにすむこどもたちのことを、じゅんすいにうらやましいとおもいました。
このみっかかんは、ちょうろうのいえにとまらせてもらえることになりました。そしてあさごはんをたべたあと、きょう、さいしょにあったあのおとこのひとがむかえにきてくれて、はたけしごとのやりかたをおしえてくれるよていだといわれました。
いつぶりかわからないぐらいひさしぶりにおなかがいっぱいになるまでごはんをたべ、まんぷくかんをえることができたおとこのこは、いつもよりはやいじかんにぐっすりとねいってしまいました。
······ふいに、おとこのこはめがさめました。とじたままのまぶたのむこうが、みょうにまぶしいきがしたからです。もうあさか、とおとこのこはおもいました。あさごはんをいただいたら、きょうはがんばってはたけしごとのおてつだいをしなくちゃ。そうおもいながら、ゆっくりとまぶたをあけました。
「わぁ!」
めをあけたおとこのこはあまりのことに、おどろきのこえをあげました。なんとおとこのこは、あしくびをまとめてしばられ、てくびもせなかのうしろでひとつにしばられ、あたまをじめんに、あしをそらにむけたさかさまのじょうたいで、あのおおきなほのおのうえにつるされていたのです。
パニックになり、おとこのこはまわりをみわたしました。ねるまえまでいっしょにごはんをたべていたむらのひとたちは、あのしあわせそうなえがおとはまぎゃくの、きょうきにあふれたようなかおでおとこのこをみあげ、わらっていました。
おとこのこがぼうぜんとそのこうけいをみつめていると、なんと、じょじょにおとこのこのからだがしたへ、したへ······つまりは、ほのおのほうへと、ジリジリとさがっていきます。
「わぁ! どうして!?」
わけがわからず、おとこのこはわめきます。むらびとたちはあいかわらず、きもちのわるいえみをうかべています。なかには、したなめずりをするひとまでいました。そこでおとこのこは、ようやくきがついたのです。······ぼく、たべられちゃうんだ!
なわからのがれようとからだをバタバタうごかしますが、そうとうきつくしばられているらしく、おとこのこのかよわいちからでは、なわをどうすることもできません。
おとこのこは、どんどんせまってくるほのおをまえに、おとうさんとおかあさんのかおをおもいだしていました。
あのとき、もりになんてはいらなければよかった。おとうさんとおかあさんのいうことを、きちんとまもっていればよかった。おとうさん、おかあさん、ごめんなさい。
そんなこうかいがぐげんかしたかのごとく、おとこのこのからだをほのおがブワリと、いっしゅんでまたたくまにつつみこみました。
「わぁ! わぁ゙あ゙あぁぁ゙ああぁ゙ああ!」
みのけもよだつような、おとこのこのだんまつまがむらじゅうにひびきわたりました。
そうしてしばらくほのおであぶられたおとこのこは、さっきとはぎゃくにうえへとからだをもどされます。したでなわをにぎりしめていたおとこがおもいっきりそれをひっぱりはじめました。ギィギィとみみざわりなおとをかなでながら、おとこのこのからだはよこのほうへいどうさせられ、すこしたかいいちのあしばにたいきしていたおとこが、おとこのこをつるしていたなわをナイフでブチリと切りました。おとこのこのからだは、じゅうりょくにしたがいそこからおちていき、グチャリ、とじめんにたたきつけられました。しぜんとそのまわりにはひとだかりができていき、よろこびなのか、それともくるっているのかはんだんのつかないかんせいをあげながら、ひさしぶりにありつける“にく”のあじをそうぞうしては、おどりくるいつづけました。
「ここはね、ほんとうにいいむらなんだよ、ぼうや。むらびとたちはほんとうのかぞくのようになかがいいし、さくもつにもめぐまれている。ただねぇ······ひとつだけ、けってんがあったのさ」
むらびとたちがむらがるちゅうしんちからすこしはなれたばしょで、ひとりたたずむろうばは、もうものいわぬからだとなったおとこのこにむけ、かたりかけます。
「それはねぇ、“にく”がとれないってところだ。このもりでどうぶつをみかけることなんてめったにあるもんじゃない。じぶんからフラフラとまよいこんでくるやつなんて、なおさらだぁ。だから······」
ろうばはめと、それからくちもとを、きれいなみかづきのようにしならせ、まんぞくそうにわらいました。
「ありがとうねぇ、ぼうや。このむらにきてくれて」
そう。このむらは、ひとくいたちがあつまるむらだったのです。このおとこのこのように、ふこうにもこのむらにたどりついてしまったにんげんは、もっともらしいせつめいをされ、むらにとどまったのち、こうしてだまされてむらびとたちのしょくりょうにされてしまうのです。わぁ! こわい! これにはよんでるみんなもビックリだよね!
よいこのみんなは、おとうさんやおかあさんのいいつけを、きちんとまもっているかな? まもっていないと······ぼくみたいに、なっちゃうかもしれないよ?
······なんてね!
私は寝る前、毎日していることがある。物心ついた頃からの習慣。
ベッドに入った私は枕元の間接照明だけを照らした寝室の中、慣れた手付きで目の前の何も無い空間に電子パネルを浮かび上がらせる。電子パネルの背景は無色透明で、一見すると突然文字だけが空間に現れたかのよう。一昔前の人類にはなかった技術だそうだが、今を生きる私にとってこれはあって当然のもので、これが無ければ少なからず生活に支障をきたすのでは? と思えるほどにライフワークと直結している。それは私だけに限らず、今を生きる人類ほぼ全てに対して言えることだろう。なんせ、これ一つで何でも出来る時代だ。買い物も、勉強も、仕事も、食事の手配も。娯楽だって、このパネルがあれば十分過ぎるほどに事足りる。
私はパネルに指を滑らせ、「書籍」の項目を選択し、続けてお気に入り登録の一覧を開く。ズラリと、私が今まで生きてきた中で一度でも「読む」という行為に着手し、その中でも特に気に入った作品のタイトルが並んでいる。新しく話が追加された作品は「NEW」というマークと共に一覧の上部に自動的に移動するシステムとなっており、今日は三件の新着作品が最上部から順に並んでいる。その中の一つを選び、私は電子の仮想空間の中に置かれた本を開いた。これまた自動的に前回読んだ最後のページが開き、その先に新たな文字列が整然と並んでいた。続きの段落から、私は静かに目を通していく。
······昔は職業として「作家」「小説家」「児童作家」「漫画家」など、物語を執筆、描画などをし、他者へ提供をする者達が存在していたらしい。それは当時の人類にとっても娯楽の一つであったらしく、人気作と呼べるようなものを生み出し発表することが出来ればある程度の地位を確立出来ていたと聞く。
しかし、そんな彼らに対し、世の人々は次第に何とも傲慢な感想を抱くようになる。それは、「終わってしまうのが寂しい」というものだったそうだ。
かつて、それらの職業に就き物語を提供していた者達の間には、「いつか終わること」を前提として話を考え、構成し、当初の予定通りいったかどうかはさておいて、きっちりと物語を「完結」させることが良しとされる風潮にあったそうだ。作者が亡くなったり、色々な理由で続きを書けなくなった際には「未完」として処理され、書き手の居なくなった物語はそれ以上続きが綴られることはなかったそうだが、そういった特例を除けばどの作品も様々な展開を経て終わりを迎え、「完結」となっていたそうだ。
それがいつからか、世論が徐々に変化していった。人々は彼らに、「終わらない物語」を求め始めたのである。しかし、書き手達は反対した。人間に寿命というものがある限り、書き手達は皆いつか死ぬ運命に置かれている。書き手が死ねば、必然的に物語はそこで終わってしまい、しかも「未完」の扱いを受けてしまうのだ。「未完」の作品を世に残すことを、彼らのプライドは許さなかったそうだ。
そうして起きた様々な論争の果て······時の政府はある決断を下した。当時急激な勢いで上昇傾向にあったAI技術を駆使し、国民が求める「終わらない物語」を書かせることにしたのだ。メンテナンスさえ怠らなければAIには寿命などないし、人間と同程度の語学力や知識、想像力などをオプションとして備えることが可能であった。こうして、世界の「書き手」は消滅し、その座はAI群が取って代わることとなった。
そのような経緯で現在、小説、エッセイ、児童書、漫画に至るまで、かつて「本」だったあらゆるものがAIにより不死性を与えられた。好きな作品が、読めども読めども新たな展開を迎え、それを乗り越え、そしてまた新たな展開へ発展し······といった具合に、いつまでも終わりを迎えることなく続いていく。それはとても嬉しいことだし、幸せなことだ。今私が読み耽っている作品も、現在のページ数などもはやわからないし、そもそも「何ページ」という概念そのものが消えつつあった。永遠に終わらず続いていくのだから、そんなものにページ数を記録する意味などないのでは? という論調が最近では主流となってきているのだ。ちなみに私としては、それに関しては完全なる中立の立場だ。あってもいいし、なくてもいい。言ってしまえば「どうでもいい」。生憎、そんなどうでもいいことに関心など微塵もない。
そんなことよりも、最近私が密かに恐れていることの方がよほど問題だと思うのだ。私はこれに気が付いた時、えも言われぬ焦燥感に駆られた。
物語が永遠に続いていくのはよいことだ。好きなものが自分の手から離れてしまうのは誰だって寂しいし嫌だと思うだろう。私だってそう考え、生きてきた。しかし齢も四十を超えた今、物語の永続性だけでは人類の本当の幸せには一歩届いていないという事実に気付いてしまった。それは、完璧とも思えたこのシステムの唯一の欠陥とも言えた。
人類には寿命がある。然るべき時が来たら、然るべき方法で命が失われる。それが果たしていつになるのか、それは誰にも、AIにすらわからない。
例えば。例えば私が今日、この話の続きを全て読み終わってから眠りに就き、明日の朝にはとっくに体が冷たくなってしまっていたとしよう。そう、この場合私は寿命を迎えたわけだ。だが、私が愛読していた物語は、私の死があろうがなかろうが関係なく、またいつも通りに続きを綴っていく。それを、死んでしまった私はもう読むことが出来ない。次の展開に心を踊らせながら眠り、続きはちゃんと更新されるのに、死を迎えた私はもう、その物語を読む資格を取り上げられてしまうのだ。いつか来るその時が、既に怖くて怖くて堪らない。
「終わらない物語」は作れても、「終わらない生命」を作るための技術力には未だ全然到達には至っていない、というのが、残念なことではあるが今この時代におけるリアルな現状だ。
昔の人類が愛した「終わりのある物語」は、現在では影も形もなくなってしまった“失われた文化”だと思っていたけれど。まだ一つ、残っていた。とんでもなく身近な場所に、常に潜んでいた。いつだって私達を、見つめていた。
人類の“人生”と言う名の“物語”が永遠に紡がれ続ける世界は、一体いつになれば訪れるというのだろうか。
◇◇◇◇◇◇
実は十代の頃、星新一先生の作品を数冊ほど読み、心惹かれていた時期がありました。(父親の本棚にあったのを拝借した)
そんなことを思い出したので、ほんの少し星先生リスペクトな雰囲気で書かせて頂きました。全然リスペクト出来てなかったらすみません······。