死んだ人間は星になる、だなんて言い出したのは、一体いつの時代の何処の誰だったのだろうか。天国という概念を空に与えて、死んだら人はお空へ上って、だから夜になれば星となって空から見守ってくれている? ······馬鹿げた話だ。
「死んだら、星になってずっとあなたのこと見守ってあげたいな」
いつか彼女が言っていた言葉が何度も何度も頭の中で繰り返され、止まらない。
星になりたいと言った彼女の願望を否定するつもりはない。死んでも自分のことを常に見守っていたいというその気持ちは、涙が出るほど嬉しかった。けれどそれと同時に、そんなこと聞きたくない、とも思ってしまった。死んだら、なんて悲しい仮定の話ではなくて、もっと自分と共に生きる明るい未来について考えてほしかった。
そう思ってしまうのは残された人間のエゴだろうし、彼女が望んだ願望もまた彼女自身のエゴだった。彼女にはそんな未来など到底見えなかったからこそ、あのような結論に至ったのだろうと思うし。自分は自分で、彼女を失う未来など考えたくもなかったからこそ、彼女の心境や置かれた現状、それらに気を配るような余裕すらなくし、現実から目を背けていたかった。
人っこ一人居ない深夜の海岸沿い。暗闇が色濃い砂浜にぽつんと腰を下ろす自分は酷く孤独で、酷く惨めだ。結局こうして、まるで彼女の影を追うようにして地平線まで続く海と星空を、時が止まったかのようにただ見つめ続けている。電池の切れた玩具か、ネジが壊れたゼンマイ仕掛けの人形か。この命は確かに未だここに在るはずなのに、彼女を失い、色を失い、それと共に自分は魂を失ってしまったのかもしれない。こんな自分は、果たして生きていると言えるのだろうか?
仮に。仮に、彼女が本当にその天命を全うした今、夜空に輝く無数の星々のうちの一つになっていたとしよう。彼女が自身で言っていたように、今この時も自分のことを見てくれているとしよう。
······だから、何だって言うんだ。
だって仮に本当に彼女の願いが叶ったとして、見上げた満天の星空の何処かに彼女が居たとして。自分には彼女が何処に居るのかなんてわからないじゃないか。見つけてあげられないじゃないか。探して見つかるようなものでもないじゃないか。彼女が今現在遥か上空から自分を見つめてくれていたとしても、自分にはそんな彼女と視線を合わせることはおろか、姿さえも認識出来ないなんて。そんなの、あまりにも······不公平が過ぎるじゃないか。
水面に映し出されていた星空の幻影を、遠くからやってきた波が悪戯に押し潰し、その全てを歪ませた。お前の居場所はここではなく“現実”なのだと、残酷な真実を突きつけてきているようだった。
大学四年の春休み。無事に大学を卒業し、これまた無事に就職先も決まっている俺にとっては、人生で最後の春休みになるのだろうなぁ······なんて少しの感慨に耽りながら、あとちょっとしたら慌ただしくなるのであろう未来を想起しつつ、一日一日を噛み締めるように過ごしていた。そんな、ある一日の出来事。
俺は幾つかの県を跨ぎ、生まれ故郷である町へと出向いていた。小学校を卒業し、中学入学のタイミングで現在住んでいる県へと家族共々引っ越しをしたため、故郷に戻ってくるのは実に十年ぶりのことだ。変わらない街並み。変わってしまった住民の空気感。懐かしさを覚えつつも、何となく知らない土地に来てしまったかのように感じる不思議な感覚。離れて十年も経てば、町にとって俺は「住民」ではなく「余所者」と化してしまうのは仕方のないことだろう。それに俺は、ただ懐かしむためにこの町に帰ってきたわけではない。くだらなくも大切な、ある約束。それを果たすために、俺はわざわざ、今日という日を選んでこの町に足を運んだんだ。
記憶を辿って目的地に到着した俺は「あー······」と、落胆とも納得とも取れるような曖昧な声を零した。目前には、整備され真っさらな空き地となった何も無い空間が広がっていた。十年という月日の重みが今更染みて、何となくセンチメンタルな気持ちになる。
ここはかつて、俺が住んでいた頃には公園として子供たちから愛されていた場所だった。それが今では遊具は全て撤去され、植えられていた木や花々なんかすらも何一つ残らず、まるで最初からそんなものなかったかのような顔をして平然と俺の目の前に存在している。あの頃の思い出が全て消えてなくなってしまったかのように思えて、ほんの少し胸中に寂しさが湧いた。それでも俺は、ここに来なければならなかった。今日という日に、絶対に来なければならなかったのだ。
小学校を卒業した後の春休み。十年前の今日。俺は友人と二人でここにあった公園で遊んでいた。その時に俺たちは、公園の敷地内にタイムカプセルを埋めたのだ。学校の方でも別の場所でタイムカプセルを埋めるイベントはあったのだが、二人だけのタイムカプセルも作ろうという話になり、それを決行したのが十年前の今日だった。その時、友人と約束をしたのだ。「十年後の今日、またここに集合な!」と。
······俺は、自分がこのすぐ後に引っ越しをすること、中学からは別の学校になりもう会えないかもしれないことを、その友人に話すことがどうしても出来なかった。この町を離れなければならないことを自分でも受け入れられていなかったし、嫌だとも感じていたし、そして何より、友人を悲しませたくなかったのだ。お別れの言葉なんて言いたくなかったし、言われたくなかった。でも、こうして成人もして社会人を目前とした今なら、自分が如何に身勝手なことをしたか、その事実の罪深さをひしひしと痛感する。突然俺が居なくなり、友人はさぞ驚いたことだろう。何故言ってくれなかったのか、自分達は友達じゃなかったのか、と俺を恨んですらいたかもしれない。何の挨拶も出来ないまま、何も伝えられないまま、逃げるように姿を消した俺に、愛想を尽かした可能性だってある。それほど、過去の俺はアイツに酷いことをした。
だから本当は、今日ここに来ることも直前まで悩んでいた。アイツが絶対に来てくれる保証なんてないと思ったからだ。アイツにとって俺という存在が価値のないものへと成り下がっていたとしたら、必然的に約束のことだって忘れてしまっているかもしれない。覚えていたところで、俺同様、俺が来る確信なんて持てずにいて、約束を反故にすることだって考えられる。しかし、仮にアイツがその選択をしたとしても、俺にアイツを責める筋合いなどないし、甘んじて受け入れようと思ってはいる。だって、先に裏切るようなことをしたのは俺なんだから。その報いはきちんと受けるべきだ。
そんなことをぐるぐると考えながら、俺は近くのブロック塀へと背中を預け煙草を燻らせていた。もやもやとした胸の内を煙と共に吐き出すこと、一体何十回ほどのことだっただろう。
「······亮(りょう)?」
名を、呼ばれた。男の声だ。俺は瞬時に、声がした方向へと視線を向けた。随分と身長が伸び、髪型も髪の色も変わったが、色白い肌と、穏やかそうな目元には見覚えがあって。ああ、コイツは間違いなく······。
「慧(けい)······」
その名前を口にしただけで、ぶわりと溢れ出す懐かしさと、約束を覚えててくれたこと、そしてここに来てくれたことに対する喜びに塗れて窒息しそうになる。
慧は応えるように片手を上げ、少しだけ照れ臭そうに眉を下げ、笑った。
「······来て、くれたんだ。亮」
「それはこっちのセリフだ、ばーか」
「何でだよ」
「······もう、忘れられてるかなって」
「んなわけねぇじゃん、ばーか」
「だってわかんねぇじゃん、んなこと」
「そーーれは、そう。······あー、亮? その······久しぶり。あと······おかえり」
慧が、笑いながらも泣きそうな顔でそんなこと言ってくるもんだから。何か、俺まで泣きそうになってくる。
「······うん、久しぶり。それと······ただいま」
一瞬お互いに黙りこくって······そして、二人同時に笑い出す。多分慧も俺と同じで、真面目な空気と、妙な照れ臭さに耐え切れなかったんだと思う。
「あー······それにしてもさ」
俺は煙草と携帯灰皿をポケットに突っ込み、すっかり空き地と化した思い出の公園、その跡地へと体ごと向き直る。
「タイムカプセルどころか、何もかもなくなっちまったな、ここ。まぁしょうがないんだろうけどさ······思い出丸ごと奪われた気分」
呆れたように肩を竦めてみせれば、慧は俺の隣へと並び、何でもないことのように言う。
「なくなってなんてないよ」
「え?」
「確かにここはもう公園じゃないし、俺らが埋めたタイムカプセルも何処行ったかわかんないし? でも、思い出までなくなったとかさ、んなこたぁないよ」
「······そうなんかなぁ」
「いや、そうだろ。じゃあ聞くけどさ、お前、何で今日ここ来たん?」
「ハ? そりゃ、約束したから······」
俺が少し戸惑いつつも答えると、慧は満足そうに笑う。
「ん、俺もそう。俺達、ずっと離れて暮らしてたけどさ、ここの思い出とあの約束があったから、またここで会えたわけじゃん? ここに来るまで確かにあった思い出がさ、この光景見ただけですぐなくなるとか、んなわけないじゃん」
「たし、かに······?」
「“なくなった”と思うから“なくなる”んだよ。“ずっとここにある”って思ってれば“ある”んだ。俺にはまだ見えるよ? ここにあった公園も、そこで遊んでる昔の俺達も、タイムカプセルの中に埋めた中身も」
慧は懐かしむように、少しの間、両目を閉じた。そうして再び瞼を持ち上げた時、その眼は俺を写し、微笑と共に首を傾げ、俺に向け問い掛ける。
「お前は? お前にもまだ、見える?」
俺は改めて、更地となった元公園を見遣る。あの頃の様々な思い出が、次々にフラッシュバックする。ただの更地に、見知った公園の姿が重なっていく。
「······ああ、見える。見えるし、ちゃんと覚えてる」
慧は俺の答えに、満更でもなさそうな顔をする。
「だったら、ここは俺達二人の公園だよ。他の奴らは知らない、俺達しか知らない、俺達だけの秘密の公園」
「ハッ。この歳になって秘密基地ってか? しかも頭の中だけの秘密基地とか······イカレてんな」
「イカレてんねぇ。でも、バカおもろいじゃん」
悪戯好きなクソガキみたいににんまりと笑う慧。釣られたように、俺も口端を吊り上げ笑う。
「うん。バカおもろい」
十年前の俺達へ。十年前、二人だけで交わした約束のその果て。俺達は十年後、二人だけの秘密を手に入れた。
私は健忘症を患っている。何がきっかけだったのか、それすらも忘れてしまったのだけれど、昔の記憶だったり過去のクラスメイトだったり、色々なことが頭からすっぽり消えて自分の中では無かったことになっている。自分ではそんなに深く考えていないし、深刻に捉えているわけでもないのだけれど。
だって、忘れて無くしてしまったものってきっと、私にとって必要なかったものだと思うんだ。本当に大事なことは、何をされたってどんな体験をしたって身体に刻み込まれて消えないものだと思っているから。
でも、少しだけ複雑な気持ちになる時もある。私にとっては初めましての相手から突然話し掛けられる時。お相手は凄く驚いた顔をしながら「久しぶり」だとか「自分のこと覚えてる?」だとか言ってくるのだけれど、残念ながら私はその人達のことを知らないわけで、気を利かせた返事をしてあげることが出来ない。彼ら、彼女らは私の病気についてなんて知らないはずだから、私が困ったような笑みで回答すると目に見えて残念そうな顔をして、「そっか······」と肩を落としてしまうので、そんな様子を目の前で見ていると流石に心苦しいというか、申し訳ないなぁって気持ちになってしまう。でも結局は今の私にとってはただの他人なわけだし、上手く嘘をついて相手の話に合わせ続けるなんて芸当は私には難しいと思うし、だから私は正直に「知らない」「わからない」ということを伝えることしか出来ないんだ。
大体の人は私のその反応を受けて去っていくんだけど、一人、そんな私に何度も声を掛けてくる物好きな人が居る。本当に何度も、何度も、何度も。流石に顔はうっすら覚えてきたんだけれど、名前はすぐに忘れてしまう。快活に話し掛けてくる、笑顔と髪色が眩しい同世代ぐらいの男の子。
初対面の時には他の人達と同じように「俺のこと覚えてる~?」と気さくに話し掛けてきた。けれどもやっぱり私にはただの知らない人にしか思えなかったので、いつもと同じように対応した。もう、慣れたものだった。他の人達と彼が違ったのは、その後の反応だった。
「ん-、やっぱそうだよね~」
そう言い、私が告げた事実をサラリと流したのだ。今までの人達みたいに意気消沈するでもなく、残念そうな素振りを見せるでもなく。そうして矢継ぎ早に、彼は続けたのだ。
「じゃあ、今日からまた改めて俺のこと覚えてよ! 俺ね、●●●●ね!」
彼はあろうことかそんなことを笑顔で私に告げ、名前を名乗ったんだ。残念なことに、私はどうしてもその名前を覚え続けることが出来ないのだけれど、確かにあの時彼は彼の名を私に向け教えてくれた。また私が忘れてしまう、とは考えなかったのだろうか? 実際、私は未だに彼の名前を覚えられないというのに。
何度目かに話し掛けられた時、私の心苦しさは限界を突破して、つい彼に病気のことを話してしまった。あなたが何度話し掛けてくれても、名前を教えてくれても、一度すっぽり忘れてしまっていたということはまたいつか同じように忘れてしまう日が来てしまうかもしれない。だったら今あなたがしていることは、この時間は、無駄なものだと思う。······確か、そのようなことを切々と私は彼に訴えた。
それを聞いた彼は一瞬、深刻そうに表情を曇らせたのだが、しかし次の瞬間には雲間はスッキリと晴れ、いつもの太陽みたいな笑顔でこう言ったんだ。
「俺にとっては無駄なことじゃないし、もしもいつかまたお前が俺のこと忘れても、またこうやって自己紹介から始めるから気にすんなって!」
何で。何であなたはそんなに眩しく笑うことが出来るんだろう? 何でそこまで私に時間を使ってくれるんだろう? 私、あなたにとってどんな存在だったの? とっても仲の良いお友達だったの? でも私には何もわからない。何も記憶にない。一体いつ何処で彼と出会って、当時どんな間柄で、どんな会話をして、どんなふうに共に過ごしたのか。
私の中からすっぽりと抜け落ちたもの。私はそれを“必要のないもの”だと解釈していたし、今でもその思想に変わりはないんだけれど······でも、それでも、以前の彼と自分のことについて知りたいと思ってしまった。もしかしたら明日にでも忘れてしまうかもしれないけれど。それでもいいから“今”、知りたいと思ったんだ。
「ねぇ」
私は彼の着ている制服の学ラン、その袖を軽く掴み、引っ張る。
「昔の話、教えてよ」
目を丸くする彼の顔を下からジッと見つめ、無言の圧力をかけ続けたら、彼は簡単に折れてくれた。
「わぁーかったって。でもこんな人通り多いとこで突っ立ってとかじゃなくて、場所移動しよう?」
「ん、わかった」
そうして私は彼の後ろをついていく形でその場から移動をする。した、のだが。
「ね、ねぇ······」
「んー?」
「話······昔の、私達の······」
連れて来られた場所はファミレスでもなく、カフェでもなく、寂れた路地が続いた先にある空き地? みたいなところだった。放棄された工事現場、みたいな印象も受けた。置きっぱなしの重機があったり、大きな土管みたいなものが積まれていたりして、子供だったなら秘密基地にでもしていそうな。
彼は入口に緩やかに垂れていた立入禁止を意味しているのであろうボロボロになった紐のようなものを何の躊躇いもなく跨ぎ、私の片手を引いたままズンズンと奥の方へと歩いていった。そうして、放置された重機の裏手へ回るなり、突然私の体を両腕で抱き締めてきた。ギュッと力強いそれに、息が詰まりそうな感覚を覚えた。
そのままの体勢で何も話を切り出さない彼に痺れを切らし、私の方から話を振ったわけなんだけど。
「あー、ね? 昔の話ね。うんうん。いいよ、何でも話してやるし答えてやるよ、作り話で良ければだけど」
「つ、くり······ばなし······?」
唖然とする私の耳元で彼はクツクツと愉快そうに笑う。
「お前、やっと見つけたと思ったらすーぐ学校転校しちゃうからさ、そのたんびに探すのめっちゃ苦労したわ~」
「転校······? 探す······?」
「懐かしいなぁ······帰宅するお前の後つけてさ、肩掴んで話し掛けると、お前すんごい怯えた顔してさ。その場から動けなくなっちゃうの。そのまま地面に座り込んじゃう時もあってさ、目に涙いっぱい溜めて、俺のこと見上げてくんの。あ~、本当に楽しかったなぁ~あの頃は」
「な、に······それ······うそ······」
「残念だけど今話したのは全部本当~。で? あれだっけ、俺たちがクラスでどんな会話してたかとか知りたいんだっけ? そういうのはたくさん妄想してきたからどれだけでも話せるし、このままお喋り続けよっか?」
「ゃ······い、や······」
「あ、そうだ。その前に」
彼は密着させていた体を少しだけ離して、上から私を見下ろし、明るく溌溂とした声で告げた。
「俺、●●。●●●●。いつも俺に向かって、誰? って聞いてきてたでしょ? だからさ。俺の名前、呼んでよ。ほら。ねぇ、ほら。早く!!」
それは、本当に私が知らない名前だった。
その人は、本当に私の知らない人だった。
その人との間に、思い出なんて綺麗なものは本当に存在していなかった。
私は、この人を、知らない。
ねぇ、あなたは、一体だぁれ?
四月一日
初めに記しておくが、世間はエイプリルフールで盛り上がっていることだろうがこの記録に嘘や虚実、虚言は一切含まれていない。事実だけを書き記すと明言しておく。
とはいえ、これはただの趣味の延長線。なので極めて個人的なものに過ぎないということも、先んじて明記する。
今日手に入れた新しいペットは初めて飼う種なので、今後あれと共に生活していくために色々と模索を重ねる日々となるであろう。後の自分のためにも、観察日記のようなものを書かねばとこうして筆を執っている。
ペットというからには名前をつけてやるべきなのだろうか。しかし、あれはペットであると同時に観察対象でもある。変に情が湧いても厄介だ。どうするべきか。
何が好物なのか見当もつかなかったが、とりあえず今日は自分が食べていた食パンを半分目の前に置いてやった。あれは最初は怯えた様子を見せながらも、空腹には耐えられなかったのか両手を使い器用に食パンを口に運んでいた。どうやら食パンは食べることが出来るらしい。暫くはジャムやらマーガリンやら、食パンの味を変えるものを添えて好みを探るのもいいかもしれない。
四月五日
食パンに様々な味のジャムやらマーガリンやらを塗りたくって数日検証してみた。結論としてはどの味の食パンも胃に収めたが、特に苺のジャムに対しての反応が顕著だったように思う。他の味と比べて食パンへ手を伸ばすまでの時間がおよそ0.5秒ほど早かった点と、それに反比例するように食事にかかった時間は他のものよりも約2分程度長かった。食事をしている様子をまじまじと観察してみたところ、咀嚼の回数も他と比べて多いことがわかった。好物を味わって食べていたのであろう、という推測へと至る。次からは食べさせるものを果物へと変えてみようと思う。
四月十一日
苺、オレンジ、バナナ、葡萄、林檎などの果物を日毎に変えて食べさせてみた。やはり苺は好物なのか、一番量を消費した。しかしそれ以外の果物は、一日三食のうち良ければ二食、酷いと一食しか食べない時もあった。ジャムの時点で見当はついていたものの、果物だったら何でもいいというわけではなく、ある程度好き嫌いという概念が存在しているのだとわかる。しかしそれも誤差の範囲で収まっていると言えよう。今度は逆に、好物ではなく食べることが出来ないものを明らかにしていこうと思う。
四月十二日
生きた虫を食事の皿に乗せ差し出してやったら、キィキィ叫びながら皿から距離を取ろうと必死になっていた。明らかな拒絶の意思であった。一応念のため丸一日かけて様子を見たが、一口も食べないどころか皿に近付く気配すらなかった。どうやら虫はお気に召さなかったらしい。人間でも好んで虫を食べる奴らが居るというのに、あれは舌が肥えているのだろうか?身体の方は肥えているというよりも逆に痩せぎすなわけだが。
四月十三日
今日は好物の苺をやろうと皿を持ってあれの元へ向かったのだが、皿を持った自分の姿を見つけるとまだ距離が開いているというのにあれは恐れ怯えるように鳴き叫び、両手をブンブンと振り回して威嚇を始めてしまい、残念ながら近寄ることすら許してもらえなかった。せめて水だけでも、と水入れにミネラルウォーターを入れ傍へ置いておいたが、飲んだような痕跡は見当たらなかった。昨日のことがトラウマにでもなってしまったのだろうか?だとしたら悪いことをした。明日からは一旦生野菜で様子を見ていこうと思う。
四月十六日
生野菜での実験は、虫よりは上、果物よりは下、といった成果であろうか。とても好んで食べているという感じではなかったが、虫よりはマシだと踏んだのか単に空腹に耐えられなかったのか。無表情でただ義務的に口にしている、といった印象を受けた。ちなみに、この実験に移行した初日はまだ虫事件のことで警戒を顕わにしており、近付くのに苦労をした。やはり余程のトラウマになってしまったと見える。しかし心の傷なんてものは自分には治す術などないので、そこはあれ自身で傷を癒し克服してもらうよりほかない。心の傷というものは、どんな生物にとっても厄介極まりないものなのだという知見を得た。
四月二十日
警察が来た。何でも、近所で若い女性が行方不明になったのだとか。この辺りも物騒になったものだ。
玄関のチャイムにあれが激しく反応したため、玄関へ向かう前にあれを捕らえてしばらく地下室に閉じ込めておいた。真っ暗で何も聞こえない場所に居れば少しは興奮も収まるだろう、と。
途中で一度地下室の扉を開け聞き耳を立ててみたら、啜り泣くようなか細く弱々しい鳴き声が聞こえてきた。居眠りでもして怖い夢でも見たのだろうか?そもそもあれは夢を見るのだろうか?
四月二十一日
あれを地下室から出してやり、好物の苺を皿に乗せ渡してやったのだが、一つだけ食んでそれでおしまいだった。食欲がない?体調が悪いのだろうか?
そういえば、あれをこの家に連れてきてから風呂に入れてやったことがなかった。最近少し饐えた匂いを感じるようになってきたし、もしかしたらあれもそれが気になって食欲がないのかもしれない。明日は風呂に入れてやろう。
四月二十二日
あれは驚くほど抵抗した。虫を出した時と同等かそれ以上に。喚き声も今までの比ではないほどの喧しさだった。ただ風呂に入るだけだというのに。猫でももう少し大人しく風呂に入れられることだろう。風呂場へ引きずっていく途中で片手に思いっきり噛み付かれたので、思わず腹を加減無しに蹴ってしまった。そしたら丁度よくぐったりしたので、その間に手際よく風呂を済ませてやった。
風呂から上がった後も相変わらずぐったりしたままだが、清潔になったことだし少しでも食欲が戻ったことを期待し、苺を大量に乗せた皿を横たわったあれの隣に置いておいた。
四月二十四日
また警察が来た。何度も何度も鬱陶しい。近所で何件も通報があっただの、行方不明の女について本当に何も知らないのかと詰問されたりだの。一体何故自分が通報など受けねばならないというのか。行方不明の女に関しても自分は全く情報など持っていないというのに。
自分はただ、その辺に転がっていた生物を持って帰ってきただけだ。そして、それをペットとし世話をし躾をしてきただけだ。それの何がいけないと言うのか。
そもそも、だ。人間を“人間”というカテゴリーで一纏めにすることに何の意味があるのか。自分以外の人間は生物学上確かに“人間”に属する種であるのだろうが、“人間”であるよりも前の前提として“生物”である。自分以外の人間は総じて、“己とは何もかもが異なる未知の生物”だ。未知への探求は人類の生活をより豊かにしていく。自分はそのための手助けをしているに過ぎない。悪いことなど何一つしていない。警察にだって神にだって仏にだって胸を張って宣言出来る。自分は人間の役に立っているのだ、と。
ああ、結局あれに名前をつけるかどうするか、悩んだままであった。でも、もう今更どうでもいいだろう。あれに名を付けたら、“人間”として認識したら、そのまま自分は怒りに任せてあれを殺してしまうかもしれないからだ。そんな悪いことをしては、自分は罪人になってしまうではないか。せっかくいい研究対象を捕獲出来たのだ。これからもこの未知なる生物についてより深く解明していかなければ。
──行方不明女性拉致監禁事件の容疑者が残した日記より抜粋。
まばたき一つで
ほら、不思議
運命の糸がするりと絡まる幻が視えた