私の家の近くには、もうずっと前に廃業となりそのまま放置されたままの、規模の小さな遊園地跡地がある。まだ営業をしていた頃は、小規模でアトラクションも少ないとはいえそれなりに地域住民達からの評判は良かったらしく、お客さんの入りもまぁまぁだったそうだ。だが、時代が進んでいくにつれてもっと大きな遊園地、もっと刺激的なアトラクション、もっと心躍るテーマパークなどが日本各地に登場し、客足がそちらの方へ流れていってしまった結果、呆気なく経営不振となり閉園することとなってしまったらしい。それが、もう今から何十年と前のこと。未だに解体もされず当時の姿のまま時代に取り残され続けている哀れな遊園地は、アトラクションなど随分と年季が入り錆も酷く、「遊園地」というよりは「廃墟」と表現した方がしっくりくるほどに寂れ、何処か異質な空気をどんよりと纏わせていた。
あれは、確か小学校の高学年ぐらいのことだっただろうか。私は休みの日に一人、廃墟と化した遊園地の中を徘徊していた。入口には当然のように「立ち入り禁止」と張り紙のされた赤い三角形のポールが幾つも並んでいたが、逆に言えば、それだけしかなかった。入口の両開きの扉も既に錆び付き朽ち果て綺麗に閉まってなどいなかったし、風に揺られてキィキィとブランコを漕ぐ時のような音を微かに鳴らしているだけ。あの頃の私にはそんな自覚はなかったけれど、きっと廃墟という非現実的な場所に心惹かれたのだと思う。とにかく私は入口を難なく突破し、園内へと足を踏み入れたのだった。
初めて入る場所におっかなびっくり歩みを進めていたが、ある場所まで来た時私は思わず「わぁ······!」と感嘆の声を上げた。それは、何頭もの馬を内に囲ったメリーゴーランドだった。他のアトラクション同様、色褪せ錆び付いてはいたが、ファンシーでメルヘンな造りのそれは子供の胸をときめかせるには十分で、私はゆっくりとメリーゴーランドへと近づいていき、かつては綺麗な装飾が施されていたのであろう白馬達をじっくりと観察して回った。
······その時にそこで、私は出会ってしまったのだ。後に自分の人生を大きく左右させるほどの存在となる、その人物と。
その男は、まるでずっと昔からそこに居たかのように、この風景と一体化しているかの如く自然に、メリーゴーランド内の一頭の馬に腰掛け、足を組み、左側の瞳だけで私をジッと見下ろしていた。顔の右半分は少し煤けたような金色の仮面で覆われており素顔は見えず、左半分は仮面こそつけていないものの白塗りされた肌、黒く濃く縁取られた目、紅く塗られ不自然なほどに口角を上げている唇といった、ピエロを彷彿とさせるような化粧が施されていた。更に黒のハットを被り、まるで一昔前に西洋の貴族が着ていたかのような黒の衣装を身に纏い、両手には白手袋を着用していて。非現実的な場所に、更なる非現実的要素が加わったその奇妙としか言えない光景は、しかし私の心を弾ませる一方で、不思議なことに恐怖だとか怯えといった感情は微塵も湧いてこなかった。
「ねえ! そこで何してるの?」
私は臆することなく、そのあまりにも異端すぎる風貌の男に声を掛けた。男はピエロメイクで保たれた笑みのまま、私の問いに答える。
「お客さんを待っているんだ」
「お客さん?」
「そう、お客さん」
男の言う「お客さん」が何なのか、私にはピンとこなかった。だってここはとっくの昔に潰れた遊園地で、そんな遊園地にお客さんなんて来るわけがない。そもそも、彼の言う「お客さん」が来たとして、彼は一体どうするのか。何をするのか。「お客さん」を欲しているということは、何か商売とか見世物とか、そういうことをしている人なんだろうか。色々と頭の中で憶測は飛び交うものの、答えには辿り着けない。だから、私はこう言ったのだ。
「私、お客さんだよ!」
「君がお客さん? 本当に?」
「本当だよ! 私、今日はここに遊びに来たんだもん!」
すると男はただでさえ吊り上がって見える口角を更に上へと押し上げ、愉快そうに笑いながら両の手で優雅に拍手をする。
「そうかそうか、君が私のお客さんだったのか! これはこれは、大変失礼をば」
男は片手でハットを取り、そのまま胸の前まで持っていったあと流暢に頭を垂れる。そうして姿勢とハットを元に戻し、「では」と。
「それでは、お客様に特別にお見せ致しましょう。私の秘密、宇宙の秘密。さあさ、とくとご覧あれ!」
そう言うと男は、右手の甲をこちら側へと向けた状態で手袋をゆっくりと外していく。どんどん面積を増していく男の素肌は、まるで海外の人のように······いや、それ以上に白かった。青白い、と言った方が正しいのかもしれない。その時の私は、「腕にまでお化粧してるのかなぁ」ぐらいにしか思っていなかったけれど。
「心の準備はいいですか? いきますよ? では、参、弐、壱······零!」
カウントが終わったと同時に、男は手袋が外された右手をバッと裏返し、手のひらを私の目の前へ翳した。そこに広がる光景に、私は口を開けて唖然とするしかなかった。
男の手のひらには······宇宙があった。手のひらの真ん中辺りから皮膚が上下に裂け、その裂けた中央部分には何とも不思議なことに······宇宙の光景が、広がっていたのだ。ぱち、ぱち、と意識して瞬きを繰り返してみても、目に映るものは何も変わらず、数々の星々と時々大きな何らかの惑星が流れていく、リアルの宇宙空間が存在していた。
私は呆気にとられながらも、目の前に広がる小さく狭い“宇宙”が大層魅力的に思えて······無意識のうちに、そこへ己の指を──。
「はぁい! 今日はこれでおしまいです!」
目の前から“宇宙”が突然消え、ハッとして男を見上げると、男は既に右手に手袋を装着し終え、ニッコリとこちらに向かって微笑んだ。
「気に入って頂けましたか? お客様?」
「〜ッ、うん! 凄かった! ねえ、あれ本物!? 本当に手の中に宇宙が入ってるの!?」
「お気に召して頂けたならこれ幸い! そしてお客様には大変申し訳ないのですが、“これ”は私の商売道具ゆえ······非常に心苦しいですが、詳細を語ること能わず、なので御座います······要するに、企業秘密というヤツで御座います。その点に関しましてはご理解頂きたく······」
「あ、その、全然! 全然大丈夫です!」
そう言い、またもや恭しく頭を下げるものだから、私は慌てて彼の頭を上げさせた。
「あの! また見に来てもいいですか······? あっ、お金! いくら払えばいいですか!?」
小さな小銭入れを出しながら男に聞けば、男は気さくそうな笑い声を上げた。
「いえいえ! お代など結構で御座います! 初めてのお客様ですし、初回サービスということで!」
「えっ······でも······あんなに凄いもの見せてもらったのに······」
私が躊躇っていると、男はわざとらしく片手を顎に当て、ウーンと唸り。
「では、こう致しましょう。こちらとしては本当にお代など結構なので御座いますが、それでお客様が納得いかないということであるならば、仕方ありません。いつか、いつの日か。何日先か、何年先か、何十年先か······この私にも正確に“いつ”とはお答え出来かねますが、いつか何処かのタイミングで一度だけ、お代を頂戴させて頂きましょう。なぁに、お代と言っても大したものでは御座いませぬ。それでご納得頂けますか?」
果たしてそれが公平なことなのかどうなのか、私にはよくわからなかったのだが······これ以上困らせてしまうのも申し訳なかったので、私はコクリと首を縦に振った。
「あの! 絶対また見に来ますから! 今日はどうもありがとうございました、宇宙さん!」
そう言いペコリと頭を下げ、私はメリーゴーランドを後にする。
「またのお越しをお待ちしております、お客様」
途中何回か名残惜しくて振り返ってしまったのだが、「宇宙さん」はずっとニコニコしながら手を振り続けてくれていた。それが、私にはとっても嬉しくて。
······それから私は、頻繁に「宇宙さん」の所へ通い詰めた。中学生になり、高校生になっても、それは続いた。その間、「お代」の請求は一度もないまま。
「······来たよ、宇宙さん。こんにちは」
白馬の足元に背を預けるようにして、辛うじて床に座ることが出来ている「宇宙さん」に、声を掛けた。
「──、──······」
「······もう、喋る元気もない?」
宇宙さんはパクパクと口を開閉させるが、声を発声させることはもう難しいみたいだった。
「······何で宇宙さんはさぁ、こんなんになるまで“お代”、請求しなかったの?」
「──······ぁ゙」
「私ね、とっくに気付いてた。宇宙さんが人間じゃないことも、アレを見せてくれる度にどんどん弱っていくのも。きっと、すっごくエネルギー使うんだよね、アレ? なのに宇宙さんたら、エネルギー補給しないから。······ああ、“お代”だったっけ」
「············」
宇宙さんは私の片手を取り、手のひらを上に向けさせると、そこに自分の指で文字を書き始めた。
「······は、じ、め、て、の、き、や、く······初めての客? アッハハ! 優しいね、宇宙さんは。でも、もういいよ。私、これまでたくさん宇宙さんに楽しませてもらったもん。だからそろそろ“お代”、ちゃんと払わせてね?」
「······、············」
私は宇宙さんの左手の手袋に手を掛け、そっと抜き取る。そうして、手のひらを上に向けさせた。そこは右手同様、皮膚が上下に割れていて······ただ、右手と違うのは、そこの中央にあるのは歯が生え揃った大きな口、だということだ。
私の左手の手首を、宇宙さんの右手で握られた。多分、引き止めたいんだと思う。でも、宇宙さんの力はもう本当に弱々しくて。私が大した力を入れずとも、左手を少し上に上げれば宇宙さんの手は呆気なく外れ、床へと落ちる。
「宇宙さんは優しすぎるからさぁ。もしも次のお客さんが見つかったら、情なんか捨ててもっと早くにお代請求しなね? じゃないとまたこんなふうになっちゃうんだから」
宇宙さんの左手から、ガチガチと音がする。上下の歯が喧しく音を立て、早く食事をさせろと急いてくる。
私はゆっくりとそこに人差し指を近付けていって。
「じゃあね、宇宙さん!」
私の体は瞬く間に口の中へと吸い込まれ、何度も何度も咀嚼され続けた。
ガチガチと煩い歯の音の向こうで、誰かの啜り泣くような声が最期に聞こえたような気がした。
······私には、好きな人が居る。相手はとても仲良くしているクラスの友人で、学校へ行けば必ず話はするし、昼休憩も毎日一緒にお弁当を食べているし、帰りもお互いよほどの用事でもない限りは途中まで一緒に帰宅するし、たまに寄り道したりもする。だから、万が一にも、億が一にも、「嫌われている」ということはない。むしろ、ここまで仲が良いのならもはや付き合っているも同然なのでは? と思う人も居るかもしれない。しかし、私達は事実付き合ってなどいないし、れっきとした私の“片想い”であり、友人以上でもそれ以下でもない。なんせ、私達の間にはそう簡単に恋が報われることなどないような見えない大きな壁が聳え立っている。······それは、「性別の壁」だ。
あろうことか、私は同性に恋をしてしまった。それも、常日頃から一緒につるんでいる友人に、だ。その気持ちを自覚してしまった時、私は大いに悩みはしたものの、この気持ちは一生誰にも話さず、勿論本人にも告げず、墓まで持っていくと決意した。
だってこんなこと、言えるわけがない。伝えられるわけがない。ずっとただの友人だと思っていた女から恋愛感情を含んだ「好き」を伝えられて、素直に諸手を挙げて喜ぶ女が果たしてこの世界にどれだけの数居るというのか。絶対に困惑させてしまう。絶対に困らせてしまう。私がたった一言その言葉を伝えただけで、これまで二人で過ごしてきた思い出は全てあっけなく跡形もなく破壊され、それまでと同様に何も無かったように過ごしていくことなど出来やしないのだ。こんな気持ちを抱いてしまったがために、二人ともがお互いに気の合う友人を一人失うことになる。悪いことだらけじゃないか。だったら私はこんな気持ちなどクッキー生地みたいに潰して潰して心の中に押し殺し、今まで通り友人として共に過ごすことを選択する。好き好んで、私達の関係を悪戯に悪い方向へ向かわせたくなどない。
······そう思い、決断したはずだったのに。心に蓋をし、クッキー生地がそれ以上膨らまないように全体重をかけて押し潰していたはずなのに。それでも厄介なことに、健闘むなしく、それは彼女と共に過ごす時間に比例するようにしてジワジワ、ジワジワと膨らんでいった。膨らんでしまったそれをどう処理すればいいのか、私には全くわからなかった。「伝えたい」気持ちと「伝えたくない」気持ちが毎日毎日飽きもせず押し問答を繰り返し、あっちに傾き、こっちに傾き。私の心はいつの間に天秤の形へと変貌を遂げたのだろう?
そうして私は······一つ、苦肉の策を思いついた。ある日の夜、私は珍しく真剣な顔で勉強机に腰掛け、ペンを握っていた。目の前には教科書とノート······が置いてあるはずもなく、代わりに一枚の可愛らしい便箋が鎮座している。薄いピンク色をした紙面の右下に、ハートのマークが一つ描かれているだけのシンプルな便箋。ふぅー······と一つ深呼吸をし、私は手にしていたペンで文字をしたためていく。一つ一つ、ありったけの気持ちを込めながら。相手の顔を思い浮かべ、どんどんと溢れ出てくる「好き」という気持ちを、心の赴くままに書き連ねていった。
最後に自分の名前を添え、ペンを机の上に置く。完成したそれは、世間一般的に「ラブレター」と呼ばれるものに相違なかった。重ねて言うが、本人に伝えるつもりは毛頭ない。だから、この手紙を本人に渡すつもりだってない。でも、心に蓄積されすぎた「好き」があまりにも膨大すぎて、今すぐにでも何かしらの手段で外に吐き出さないと気が狂いそうだった。とにかく、自分の心を一旦落ち着かせたかったのだ。そのために書かれたのが、この渡される予定などないラブレターもどきだ。渡す予定など微塵もないが、本当に塵クズほどもそんな予定などないが、一応便箋を二つ折りにし、レターセットに一緒に入っていた封筒へと丁寧に入れ、特に封をしたりなどはせず何となく通学カバンへとしまいこむ。ヨシ。······いや、何がヨシなんだ?
多分、この時の私は頭のネジが何本か外れてしまっていたのだと思う。抱えきれない気持ちを吐き出すためにラブレターもどきを書いたところまではまぁ良いとして、それを通学カバンに入れる意味が何処にあったというのか? 残念ながら私がその疑問に辿り着いたのは、次の日の朝、登校するために自宅を出て暫く歩いているその道すがらであった。
そう、私は歩きながら気付いてしまった。自分の今の想いの丈を全て赤裸々に綴ったと言っても過言ではないあのラブレターもどきを、私は昨日何処にしまった? 間違っても机の引き出しなんかに入れた覚えなどない。非常に残念なことに、ない。私はその場で立ち止まり、急いで通学カバンの中をガサゴソと漁る。そうして見つけてしまった。教科書やノート類の間に挟まっていた、例の特級呪物を。体から血の気が引いていくのを感じつつ、私はその封筒を引き抜き、両手に持って見つめる。いや、昨日の私は一体何を考えてこんなものを通学カバンに忍ばせたんだ。本人に伝える気なんてないってもう何十回も何百回も心に誓っただろうが。······多分、何も考えてなかったんだろうな。きっと脊髄がやらかしてしまったことに違いない。そうでなきゃ、こんな血迷った真似、正気の沙汰で出来るはずがない。······ああ、気が狂いかけてたんだから正気じゃなかったのか。
遠い目をしながらそんなことを考えていると······突然、ブワアッ! と物凄い突風に晒された。咄嗟に制服のスカートを押さえようと動いた手から、封筒が、離れ······。
「ちょっ······!?」
さっきまで私の手にあったはずの封筒が、風に攫われ宙を舞う。風の流れに逆らうことなく、私から遠ざかっていく。待て待て待て、あれが私の目の届かない所へ飛ばされてしまったら困る。大いに困る。相手の名前こそ記載しなかったものの、私の名前はしっかり便箋に書いてしまっているのだ。あんなものを何か間違って他人にでも見られようものなら、あまりの恥ずかしさと情けなさに自分で自分の墓穴を掘るしかなくなる。そんなの、恋する乙女の死活問題すぎる。
「待て、このっ······!」
幸いにも突風はすぐに止み、手紙もそこまで遠くへ飛ばされたわけではなかった。少し距離はあるが、視界に入る範囲ではあるし、走って取りに行けばどうにか事なきを得るだろう。
安堵し、胸を撫で下ろした私だったが、いざ取りに行こうと駆け出そうとしたところで、手紙が落ちている方向から人が歩いてくるのが見えた。あれ、そういえばここって······いつも帰り道にあの子と別れる地点では? そして、歩いてくる人影······私の見間違いじゃなければ、あれ、私がめちゃくちゃ見知ってる人物では?
最悪の事態が頭の中を五倍速ぐらいの速さで再生されていくその途中で私の体は一直線に手紙に向かって駆け出していた。
神様お願いしますもうこんな馬鹿な真似は二度としないのでお願いですから無事にあの手紙を私に回収させて下さいお願いしますお願いしますお願いします!!!!
スポーツテストでも出したことがないようなスピードで私は手紙の元へとひたすらに駆ける。そうすると必然的に、前から歩いてくる人影も鮮明になってくるわけで······その人物がまさに私が想いを寄せる友人──美柑(みかん)だと確信し絶望すると共に、向こうも私を認識したらしく、手を上げ声を張り上げ、美柑は口を開いた。
「あれ!? 杏朱(あんず)じゃーん、おっはよー! てか何そんな走って······ん?」
私へ向けられていたはずの視線がふと、下方へ下がるのを私は見た。まずい、と直感が告げる。私よりはのんびりとしたスピードで、美柑は小走りにこちらの方向へ駆けてきて······そして、コンクリートに落ちている手紙の前で、しゃがんだ。
「何これ? 手紙? 誰か落とし······」
「待ったぁぁぁあ!!!!」
あと少し、というところで手紙を拾われてしまった私は、とにかく見られたくない!! というその一心で渾身の叫び声を上げる。封筒を手にした美柑は一瞬ポカンとした顔をしたが、私のあまりの必死さに瞬時に事の経緯をほぼ全て察したのだろう。ニヤリ、と悪魔みたいな表情でこちらを見、そして何の躊躇いもなく中身を出した。出しやがったのだ、この女は。
「嘘だろオイ!!!!」
思わず悪態だってつきたくなる。ここまでの私の頑張りが全部パァだ。ついでに私のこの先の人生も全てパァだ。
最後まで走りきる気力が一気に削り取られ、私はゼェハァと荒い呼吸を繰り返し酸素を肺に送りこみながら、美柑と手紙の元へ歩いていく。
美柑はさっきの邪悪な顔とは打って変わって、真剣な面持ちで便箋に目を走らせていた。そうして私が漸く辿り着いた瞬間、「ねえ」と。
「な、何······? ていうか、何で勝手に人の手紙読むかなぁ!? ノンデリにもほどが」
「相手、誰?」
「はぁ?」
「だから、この相手、誰?」
書いてないじゃん、宛名。そう問い質してくる美柑の顔は冗談を言っているようには思えず、声に揶揄いの色も含まれていなかった。
──相手? そんなの、一人に決まってんじゃん。
どう頑張っても伝えることなど出来ない本音を心の中に吐き捨て、私は美柑から顔を逸らし、不貞腐れたような声で答える。
「······そんなの、誰だっていいじゃん。どうせ本人に渡すつもりもなかったやつだし」
「ふぅん」
美柑はそう一言だけ告げ、便箋を折り目通りに二つ折りへと戻し、封筒の中へと入れ······そのまま、ごくごく自然にその封筒を自分の通学カバンへとしまった。
······ハ? あまりにも当然のように目の前で手紙奪われたんだけど? 何してんのコイツ??
「美柑さん?」
「ん?」
「何で、その······手紙、しまっちゃったのかな? 持ち主に返すって発想何処に置いてきた?」
「え? だって、相手の名前書いてなくて、んで受け取って読んだのあたしだよ? じゃあ、あたしが貰ってよくない?」
何だそのトンデモ理論は。そんな「当たり前じゃん」みたいな顔でこっちを見るんじゃない。もう何処からツッコんだらいいのかわからない。これ以上私の心を掻き乱すな、もっと好きになっちゃうだろ。
「······別に美柑に渡したわけじゃないし。風に飛ばされてここに落ちたってだけだし」
唇を尖らせ、形だけの文句を口にすれば。
「へぇ〜。じゃ、風のイタズラに感謝しよ〜っと」
そんなことを宣いながらニヤニヤ笑ってやがるので。
何も言えなくなった私はガシッと美柑の腕を掴み、真っ赤になっているであろう顔面を隠すようにして体を反転させて。
「ほら、バカ言ってないで早く学校行こ」
可愛げのないぶっきらぼうな声音で話を逸らすことしか出来なかった。そして美柑の返答なんて聞かないまま、掴んだ腕をグイグイ引っ張り先導するようにして学校までの道を歩き出す。背後で小さく「ククッ」と笑いを噛み殺すような声が聞こえた気がしたけど聞かなかったこととする。
「あ〜〜〜、ウケる」
「よかったね」
「いやぁ〜、杏朱からラブレター貰っちゃったなぁ〜」
「あげてない」
「学校着いたらみんなに自慢しよっかな」
「マジでやめて」
いつの間にか拘束から抜け出し私の隣で楽しそうに話す美柑と並び、そんな他愛ないいつもみたいな遣り取りを交わしながら登校する、そんな幸せすぎる朝だった。
◇◇◇◇◇◇
年末に「みかん」のお題で書かせて頂いた百合に再登場してもらいました。
「風のいたずら」で真っ先にミニスカートが捲れるラッキースケベ展開を想像したのは私だけじゃないはず。もうちょい捻りたかったのでこんなお話になりましたとさ。
「“透明な涙”ってさぁ、矛盾してると思うんだよねぇ〜」
珍しく僕の家に遊びに来た幼馴染みのなっちゃん──本名、中秋名月(なかあきなつき)──は相変わらず自由奔放な宇宙人みたいな子で、僕よりも先に僕の自室にズカズカと進んでいき許可なく勝手に中に入り、そして本棚に並べられた文庫本を暫くキョロキョロと見渡したあと、その中から適当な一冊を取り出したかと思えば僕のベッドの上で当然のように胡座をかき、一人読書を始めてしまった。あれ? おかしいな······ここ、僕の部屋のはずなのに······。
とは言っても、なっちゃんはいつも大体こんな感じの子だ。自由に生き動き回る彼を、誰もかれも止めることなんて出来ない。それは、どんな奇縁かなっちゃんの幼馴染みというポジションに長年収まったままでいる僕にだって言えること。なっちゃんの奇行の中ではこんなのまだまだ序の口で可愛い方だと思う。つまりは慣れっこだ。
普段だったら、僕も僕で他のことに没頭して過ごすんだけど······今日は何となく、なっちゃんに倣ってベッドの上に乗っかって、なっちゃんの隣に両膝を立てて座り込み、背後の壁に背中と後頭部を預けた状態でただひたすら、彼が本を読み終えるか途中で飽きるか、とにかく次のアクションを起こすのを待ち続けていた。
大体一時間ちょっとぐらいだったと思う。なっちゃんは文庫本をパタリと閉じて、横にいる僕に向かって冒頭の言葉を投げつけてきた。
「む、矛盾······? してる、かなぁ······?」
なっちゃんの言う「矛盾」が、僕にはまるでわからなかった。なっちゃんほどじゃないにしても、僕も国語はそんなに得意な方じゃなかったし······でも、涙には色なんてついていないんだから、“透明”という表現で何も間違ってはいないんじゃないのかな、って思った。怖いから、そんな意見をなっちゃんの前で言うことなんて出来ないけど。
「仁臣(ひとおみ)さぁ〜? それちゃんと考えて発言してる〜? 僕国語苦手だけど、透明な涙なんて表現絶対おかしいってば〜。仁臣、僕より国語の成績良かったはずだよねぇ〜? ピアノばっか弾いてるうちに日本語忘れちゃった〜?」
「ぅぐぅ······」
僕はぐうの音も出せずに黙り込む。いや、それに近しい言語は発したかもしれないけど。流石なっちゃん······今日も言葉の切れ味が鋭いなぁ······。
「だってさぁ〜よく考えてみてよ? 透明って、透明人間の透明と一緒ってことだよ? じゃあ透明なものって目に映らないはずだよね? でも涙ってさ、目から垂れ流したら普通に視認出来るじゃん? おかしくない?」
「た、確かに······? あ、でも······水とか、無色のものを透明って言ったりもするから······」
「水が無色で透明〜〜〜???? バッカじゃないの????」
「ひぅぅ······」
ダメだ、なっちゃんどんどんヒートアップしてきちゃった······。幼馴染みの僕ですら、昔からこの調子で付き合いが続いてて未だに耐性らしい耐性もつかないまま、なっちゃんにビクビクしながら過ごしてるのに、なっちゃんの恐ろしいところは「長年の付き合いの幼馴染みの仁臣」だからこんな態度を取っているわけじゃなく、特別仲良くない人だとか何なら初対面の人を相手にしても全く態度が変わらないらしい、というところだ。臆病な僕には絶対に、死んでもそんな真似出来っこない。やっぱりなっちゃんって凄いなぁ······と感心してしまう。態度はちょっと······アレだけど。喋り方もちょっと······アレだけど。
「はい、ここでおバカな仁臣くんにとっっってもピッタリな問題で〜す。絵の具やクレヨンで水や涙に色を塗る時、何色を使うでしょ〜〜〜か!」
「え? え、っと······水色······とか、青とか······?」
「はい、正解〜〜! よかったねぇちゃんと答えられて。これ外してたら僕、暫く君のこと幼稚園児扱いする気満々だったからさぁ〜!」
「ピェ······」
思わず変な鳴き声を上げてしまった。この容赦のなさ、なっちゃん! って感じ······。
「まぁそれは置いておいて〜。つまり、水とか涙ってものは実際に見たら色なんてついていないように見えるけど、“水色”って色があるぐらいなんだよ? それはもう、概念として根付いちゃってると思うんだよねぇ〜。さっき仁臣がすんなり答えたみたいに、世の中の人達は“水色”のことを“水分の色”だと認識して生きてるってこと。ね? 透明なのにちゃんと見える。何ならしっかり色まである。だから僕は、“透明な涙”はおかしい! って言ってんの」
「な、なるほどー······?」
なっちゃんは確かに国語は得意じゃなかったけど、理数系にはとことん強くて、それだからなのか、物事を突き詰めて答えを出すという力に優れていると思う。曖昧さを嫌う、とでも言えばいいのかな。普通に勉強してればとっても賢く見えるはずなのに、勉強して得たもの全てを宇宙人の捜索という方向にリソース割いちゃってるのが、何かこう······なっちゃんって感じ。うん。
「じゃ、じゃあ、なっちゃんは水色の涙だったら許せるというか、そんな感じ······?」
「ハァ? 別に、特に水色の涙に拘りとかあるわけじゃないけど? 幽霊とか悪魔とかだったら赤い涙とか黒い涙とか流すかもしれないじゃん。あ! 宇宙人って何色の涙流すんだろ〜〜!? 黄色とか? うわあ〜〜〜気持ち悪くて最高じゃん黄色!!」
「え、えぇえ······」
いつものこと。そう、いつものこととはいえ······やっぱり僕の幼馴染みは──なっちゃんは、何もかも予測不可能な自由人で宇宙人だ。人当たりも口調もキツいけど、しかも本人には全く自覚がなくてこれでも友好的に接しているつもりらしいってところが怖すぎるけど、昔から変わらず、変わらない距離を保ち続けたまま一緒に居てくれる。何だかそうやって考えたら、なっちゃんって地球にとっての月みたいなものなのかな? なんて、そんなことをぼんやり考えていた。
「ああ、でも」
そんな僕に向け、なっちゃんは言った。
「透明な涙も、もしかしたらあるのかもね? 例えばだけど、顔じゃなくて心の中で泣いてる、今の仁臣とか」
僕は。僕は······僕は、何も言葉を紡げなくて。
「なに、その顔? 僕が知らないとでも思ってた〜? コンクールでポカやらかすの、これで何回目だっけ〜? ちなみに僕数えてないから知らないよ」
ベッドから立ち上がったなっちゃんは、手にしていた文庫本を元あった場所へときちんと返してくれて、未だに動けないままでいる僕に向かって「じゃ、お邪魔しました〜」と笑顔で告げ、帰っていった。
······そう、本当だったら。今日みたいに、なっちゃんが自分の好きなように一人で時間を使っている時は、普段の僕だったらピアノの練習に勤しんでいるんだ。一つの譜面を何回も、何回も、何回も······指に動きを染み込ませるために。人が無意識に呼吸をし、足で歩くのと同じぐらいのレベルで、指が譜面の上を歩けるようにと。今日の僕がピアノを弾かなかった理由、どうやら最初からなっちゃんには筒抜けだったみたいだ。
「何か······ほんと、なっちゃんだなぁ〜」
ポスリと体を横に倒し、ベッドに埋もれながら、僕は今日何回目になるかわからないいつも通りの感想を音にして口から溢れさせたのだった。
◇◇◇◇◇◇
TRPG(CoC)で使用している自PCの幼馴染み組で書かせて頂きました。
中秋名月(なかあきなつき)
・宇宙人愛好家の大学生
・いつか宇宙人を探し出して捕獲して友達になるのが夢
・口も悪けりゃ性格も悪い倫理観ナイナイクソガキ
一十三仁臣(ひとみひとおみ)
・音大生。ピアノの腕はちゃんとあるのに極度のあがり症でコンクールに出ても結果を残せない
・心を強くするためにまずは体を鍛えようとキックボクシングを軽く習いに行ってる(でも心折れそう)
・身長は低いが地味に顔が整っている(本人は気にしていて顔を俯かせがち)
双子の妹が行方不明になったのは、私達が高校二年生の時だった。たった一通の手紙だけを残し、ある日突然妹は、私達がお世話になっている親戚の家から忽然と姿を眩ませた。あの時の手紙を、私は未だに大切に大切に保管している。妹──咲李(さり)が残した言葉は、たったの一言だけだった。
『ごめんね、柚季(ゆき)。』
······咲李が、現在の私達の保護者である親戚夫婦と折が合わないことは知っていた。いつのことだったか、随分と前のこと。多分、まだ中学生にもなっていない頃だっただろうか。その頃から咲李はもう既に、親戚夫婦と上手く付き合っていく自信がないのだと不安そうな顔で私に漏らしていた。そんな咲李をギュッと抱き締めて、頭を撫でて、「私が居るから大丈夫だよ」「何かあったら絶対に私が助けてあげるから」と何度も何度も言って聞かせた。「どんな些細なことでもいいから私には話してほしい」とも伝えた。咲李は声にならない声で微かに「うん······うん······」と頷きながら、私の背に腕を回し抱き締め返してくれた。だって私達は、双子なのだ。元々は一つの体だったはずのもの。それが奇跡的に、二つに分かたれたもの。咲李は私だし、私は咲李だ。だから咲李が抱えるものも、咲李が抱く感情も、等しく私のものだ。
咲李は元々、私よりも気が弱い性分の子だった。私は人見知りなんてすることもなく、学校でもすぐに友達を作れるタイプだったし、親戚夫婦にも比較的すんなりと懐くことが出来た。でも咲李は違った。人見知りが激しくて、知らない人に自分から話し掛けるなんてことは出来ないし、相手に心を開くことにも大幅な時間が必要だった。それだから、親戚夫婦との間にも見えない壁みたいなものが出来てしまった。私達、同じ体だったはずなのに。こうも性格が違ってしまうだなんて人って不思議だ、とずっと思いながら生きてきた。
······これは、咲李が行方不明になった後に人伝に聞き、知ったことだったのだが。咲李は高校のクラスにも馴染めず、軽いイジメのような被害を受けていたそうだ。双子は必ず別のクラスにされてしまう。咲李から直接話を聞かない限り私には、咲李がクラスで一体どのように過ごしているのか、どのような立ち位置に居るのか、どのような扱いをされているかなど、知る手段はなかった。それに私は、咲李のことを絶対的に信頼してしまっていたのだ。もしも万が一何か大変なことや悩ましいことがあった際には、子供の頃に親戚夫婦の件について話してくれたあの時のようにきっと私に話をしてくれるだろう、と。私を頼ってきてくれるはずだ、と。そう、信じきってしまっていたのだ。どうして? どうして咲李は私に何も話してくれなかった? 相談してくれなかった? 頼ってくれなかった? 泣いて縋ってくれなかった?
······二つに分かたれて産まれてきてしまった最大の弊害だ、と思った。だって、一人と一人じゃなく、一人で二人だったなら。私は咲李のことを、頭の中から心の隅の方まで余すことなく知ることが出来たはずだ。不安も、苦悩も、苦痛も、何もかも。全部全部、共有出来たはずなのに。
咲李が居なくなって、五年の月日が経とうとしていた。あれから私の人生は、決定的な何かを欠いてしまったかのように味気ないものとなった。まるで体の半分を失ったみたいな生き辛さを抱えて日々を過ごしてきた。
大学に進学すると同時に、親戚夫婦の家を離れた。ずっと捨てられないまま放置されていた咲李の私物達も一緒に荷物に紛れ込ませて。一人暮らしの部屋の中に咲李の私物があるだけで、自分は一人じゃないんだと思えた。私は咲李と二人で暮らしているんだ、と錯覚することが出来た。今でも咲李と一緒に生きているんだと、そんな虚しい幸福感にズブズブと溺れた。何処の誰に後ろ指を指されても、滑稽だと笑われてもいい。それでも、私は幸せだった。
両親を早くに事故で亡くした私達姉妹は、小学校の途中から親戚夫婦に引き取られる形で生まれ故郷を去ることとなったわけだが、あそこは都会からは離れており自然が豊かな地で、とてものどかな田舎町だった。あの頃は咲李も私に負けず劣らず元気いっぱいな子供で、見た目も含め私達二人に差異などほぼなかった。あの頃、あんなに元気で溌剌としていた咲李は何処に消えてしまったのだろう。ずーっと、隣に居たのに。いつの間に居なくなってしまったんだろう。
それは恐らくきっと、両親の死がトリガーだったのではないかと今の私は推測する。両親の死にショックを受け、故郷から離され、ウマの合わない親戚夫婦の家で生きていくことを義務付けられたあの時。生き写しだったもう一人の“私”は死んだのだ。そうして咲李は、私とは真逆の性格へと変貌してしまった。そして遂には、何もかもに耐えきれなくなって自ら姿を消してしまったのだ。
もしかしたら咲李は、私が気付いていなかっただけで私に対しても壁を感じていたのかもしれない。自分の置かれている状況、立場、周りを取り巻く様々な悩み。それを私に伝えたところで、理解されないと思ったのではないだろうか。私達は、あまりにも違いすぎたから。あまりにも、掛け離れすぎてしまったから。元々は、同じだったはずなのに。
でも、わかる。わかるよ、咲李。あの頃の咲李にどんどん近付いてきた今の私だったら、咲李のそういった思考にも理解を示してあげられる。いくら双子だからって、ずっと一緒だったからって、何でも話し合える仲だったからって、相手に隠しておきたいことって必ず出てくるもんなんだろうね。
私はね、咲李。ずっと、ずっと、ずーーーーっと、咲李に執着していたんだ。私は、もう一人の“私”を愛しすぎた。愛しすぎた結果、それは形を失いドロドロに濁りきり、心の一番底の位置に「執着」と「依存」と呼ばれるものの形で固まり、癌細胞のように私の体を蝕み続けた。
会いたい。会いたい、会いたい、会いたいよ。咲李に会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい。
······だから私は、少し早めの卒業旅行として生まれ故郷の地に一人で向かった。何となく、わかったんだ。あの日突然消えた咲李が一体何処に行ったのか。だって、今の私も同じ気持ちだから。
「いつかまた、お家の裏山で遊びたいね」
親戚夫婦に預けられてまだ間もない頃。就寝のために布団に入った私達は、暫くの間、小声でお喋りに興じていた。そんな時に、咲李は徐にそう言ったのだ。元実家の裏手には広大な山が広がっていた。大人達からは「あまり奥に進むと迷子になるぞ」だとか「鬼婆に追い掛けられて食べられるぞ」とか、そういう注意を口酸っぱく言われ続けていたのだが、私達はその裏山で遊ぶことを大層気に入っていた。勿論、私達姉妹は大人の言うことはきちんと聞いていたので、あくまでも入口に近い辺りをウロチョロと駆け回っていただけではあったのだが。
「奥の方にはまだ行ったことなかったから、大人になったら一緒にまた裏山で遊ぼうよ」
「楽しそう、賛成! 鬼婆対策、しっかりしてから行かなきゃね!」
布団の中で丸まり、コショコショ声でそんな会話を交わして、くふくふと幼い私達は未来を思い描き、笑い合った。
ねえ、咲李? 咲李はあの山に向かったんだよね? 私達の産まれた場所。私達の思い出の場所。未来の約束をした場所。ねえ、私は大人になったよ。大人に、なっちゃったよ。一人だけ。まだ十七歳だったけど、咲李はあの山に帰りたかったんだよね? 遅くなってごめんね。私も今から行くから。
そうして私は、何かに導かれるようにして深夜の山へと足を踏み入れた。
願わくば、あの子と同じ所に辿り着けますように──そんなささやかな祈りと共に。
※天体観測部の部長と副部長の話、第三話。ひとまずこれにて完結としておきます。
書いてる本人はBLだと思っていな以下略ですので、ほんのり程度でも苦手な方はご注意ください。
「ん〜、この辺りとかどうかなぁ〜?」
「あー、いいんじゃないすか? 見晴らしいいし、よく見えそう」
コテージに到着して荷解きし、二人で近くにある売店まで向かって適当に食料を調達し、コテージに帰ってそれらを腹に収めていたら程よい時間になっていた。夕暮れと夜の丁度中間みたいな。なんて名前で呼べばいいのかわからない、この短くも美しい、夕方と夜の間に存在している神秘的な時間。
俺たちは必要なものだけ入れた随分と軽くなったリュックを背負い、望遠鏡を各々担いでコテージを出た。
そうしてなるべく小高い方、小高い方へと歩みを進め、空が遠くの方まで綺麗に見えそうな観測スポットを探した。幸いにも丁度いい感じの場所を部ちょ······望(のぞむ)先輩が見つけてくれたので、地面にリュックを下ろし望遠鏡のセッティングを始める。
「ねえねえ、ゆーやくんはさぁ」
お互い望遠鏡の微調整をしている中、望先輩が唐突に話し掛けてくる。
「どうして天体観測のこと、好きになったの?」
俺は呆れたように嘆息してから返答する。入部したその日、部室で話したことと全く同じ内容を。
「初めて行ったキャンプで見た星空が綺麗だったからですよ。入部した時、部員全員の前で発表させられましたけど······望先輩、そんなことも忘れたんですか?」
すると先輩は「それは知ってる」と端的に返してきた。そして続けて「でも」と。
「それ以外にもさぁ、理由、あるんじゃないの? だって、星空に感動しただけならさ、わざわざ望遠鏡を使ってまで遠〜い遠〜い星を観察する必要、なくない?」
「そ、れは······」
「ね、本当の理由は?」
いつからそうしていたのか、先輩の視線は既に望遠鏡の方には向いておらず、俺の横顔を注視していたようで、思わず先輩の方へ首を向けた結果、パチリと先輩と目が合った。その瞳は今まで見たことがないほど真っ直ぐで、その表情は何処までも真剣な色を纏っていた。初めて見る、望先輩の顔だった。瞬時に俺は悟る。これは、茶化したり誤魔化したりしてはいけない場なのだと。
俺は先輩から視線を外し、望遠鏡の前にドカリと座り込んで目を閉じて······あの日の記憶を、あの時感じたことを、今一度体に、心に、呼び覚ます。そうして数瞬黙りこみ······目を、開けた。
「······可哀想だなって、思ったんです」
「可哀想?」
「はい。普段からいつもそこにちゃんと居るのに、肉眼で捕らえることが出来ない星たちのこと。こんな暗い山奥にまできてやっと見つけてもらえるような、小さくて淡くて弱々しいもの。例えここでならしっかり見えていると思っても、見えている星の数以上に、小さくて光すら見えないような星がまだまだたくさん宇宙には存在している。そこに居るのに見てもらえない、認識してもらえないのって、悲しいなって。そう、思ったんです」
初めて満天の星空を見た、まだ幼かった頃の自分は、そんなに難しいことなんて考えていなかったと思うけど。星を「綺麗だ」と思えるということは、視界に星を捕らえる必要があって。目に見えるものだけを見て満足して、見えているものに対してだけ俺は「綺麗だ」と賛辞を述べていた。しかし、人から見られることを知らない遙か遠くにある小さなかけらみたいな星々は、そんなありふれた「綺麗だ」という言葉すら掛けてもらえることはない。それは、物凄く失礼なことなんじゃないかと思うのだ。
数えたらキリなどないほど、無限かと思わせられるほど大量に存在している彼らを俺達は「星」という名称で一括りにし、まるでその全てを見知っているかのように「綺麗だ」と語るけれど。誰にも見つけられずに一人孤独に光を放つ星が、必ずこの宇宙の何処かに居るはずなのだ。そんな星達のことを、俺は見捨てたくないと思った。俺が見つけてやるんだ、って。俺がこの目で見て、ちゃんと心から「綺麗だ」って言ってやるんだ、って。俺の手で、目で······救ってやりたかったのだ、そういった星々を。
驚くことに何の抵抗もなく先輩相手にスルリと本音をぶつけてしまったわけだが、先輩は笑うでも揶揄うでもなく、ただ穏やかな表情で俺の話を聞き······そして「なぁんだ」と。俺の真隣まで移動してきたかと思うと、膝を抱えるようにしてそこに座り、俺を見つめたまま首をコテリと傾けた。
「俺と全くおんなじ理由じゃん。そりゃ、ゆーやくんに運命感じて当然だぁ」
「おん、なじ······?」
「そうだよ〜? だって俺、言ったじゃん。誰にも見られずに落ちていくはずだった星のかけらのこと、俺がちゃんと見届けてあげたいんだ。つまり、俺もゆーやくんも、孤独な星たちを救ってあげたいって気持ちは一緒なわけでしょ? だったらさ、おんなじだよ」
この人が天体観測部に入った理由。合宿の時にただぼうっと望遠鏡を覗き込んでいるだけだった理由。それらの疑問に、一人で勝手に納得した。流れ星なんて、流星群でも到来しない限りなかなか見ることなど出来ない。それを探すために、一つでも多く救うために、この人は······。
やる気がなさそうだとか、熱意が感じられないとか、先輩のそんな上辺だけ──見えている部分だけ──で“そういう人なんだ”と決めつけてしまっていた己の視野の狭さを恥ずかしく思う。人間だって宇宙と同じで、見えない部分の方が見えている部分よりも圧倒的に多いものなのだ。
「······俺、望先輩のこと誤解してました」
「え? なんて〜?」
「なんでもないでーす」
小さな声でそっと口にした俺なりの謝罪の言葉は、同時にふわりと通っていった風に攫われたのか先輩には届いていなかったみたいだが、聞かれていたら絶対この人はウザったい絡みをしてくる気しかしないので、これで良かったのだと思う。
「望先輩」
先輩の目を真っ直ぐ見つめて、俺は少しだけ微笑んだ。
「星のかけら······見つけましょうね」
見えている星も、見えていない星も、今日も変わらずそれぞれの定位置からそっと俺達を見つめている。そんな彼らに見守られながら、俺達もまた、望遠鏡越しに彼らの姿を見守るのだった。