今どき珍しくも何ともないだろうけど、私の両親は離婚している。私が小学生になってすぐの頃だったと思う。理由は単純なもので、父親が愛人を作り浮気していた。これにしたって、別に珍しくなんかないありふれたものだろう。親権は、当たり前のように母が獲得。それ以降、あのダメ親父とは母子ともども一度も会っていない。
父親に対しては、高校生になった今でも良い感情なんて到底持てるはずもないのだけれど、あんなクソ野郎でも父親は父親。離婚する前は、それなりに可愛がってもくれた。そんな父親と、まだ幼い頃に引き離された弊害だろうか。薄々自覚していたことではあったのだが、私は恐らく、父性愛に飢えている。だからといってあのダメ親父に会いたいかと言われたら絶対に会いたくない。嫌すぎる。二度と目の前に現れるな、ドタマかち割るぞ。
つまり何が言いたいかというと、私の恋愛対象は父親ほど歳の離れた······世間的に考えれば歳が離れすぎた男性に惹かれてしまうパターンが多い。同級生にも年下にも一ミリも興味が湧かない。同世代に分類されてしまうような年齢の年上でもダメ。ケツが青すぎる、却下。
そうなると、普通に学生生活を送っている中で、恋愛対象になってしまう相手というか属性というかが自ずと定まってしまうわけで。何とも難儀なことに、私の歴代の片想い相手は全員が全員、二十〜三十歳ほど年齢の離れた学校の先生である。勿論、ストライクゾーンの年齢であれば誰でもいいというわけではない。私は別にただのオジ専なわけではないのだ。当然だが、一般的な清潔感、感性、常識、人間として尊敬出来るか······などなど、相手に求める条件はきちんと設定している。言葉を選ばずに簡潔に言うなら、デブとハゲは論外かつ、いい意味で年齢を感じさせないような大人の男性がいい。ぶっちゃけ、顔が好みならもう言うことなし。
さて、そんな難解な性的嗜好の持ち主となってしまった私ではあるが、実は現在、片想い真っ最中なのである。私が通う高校に勤めている、丁原(ていばら)先生という人だ。
丁原先生は数学の授業を受け持っており、私のクラスにも授業をしに来てくれている。年齢は四十六歳。私と丁度三十歳の差だ。はい、ストライクゾーンにフリーキック入りました〜。いえ〜い。
少し長めの黒髪ショートヘアは、先生のクールな印象にとてもよく似合っていて、目付きは鋭く表情の変化にも乏しい、言ってしまえば近寄りがたく話しかけ辛い先生の姿に爽やかさを付け足し、演出してくれている。淡々と授業をこなす先生の声はとても落ち着いていて、高すぎず低すぎないとても良い声をお持ちだ。黒板に書く文字は筆圧が濃く少し角張っていて、「あ〜、先生の文字だなぁ」なんて、文字一つにすら先生の面影を感じ、恋心を抑えられない。その恋心に数学の成績が追い付いてくれないのだけが大きな課題である。
更に、丁原先生は風紀委員会の担当教諭でもあって、毎朝校門の横で風紀委員の生徒達と共に「おはようございます」と登校してくる生徒達の集団に朝の挨拶をしてくださっている。毎朝登校一番に先生の姿を見ることができ、声を聞くこともできる。あまりにも最高の一日の始まりすぎる。こんなの、目の前にニンジンをぶら下げられた馬にもなろうというもの。私はそのお陰で、遅刻・欠席することがなくなった。恋の力は偉大である。
しかし、だ。こんなにも丁原先生のことを心から慕ってはいるものの、私はこれまで丁原先生と面と向かって直接話をしたことがない。だって、あまりにも好みどストライクすぎるのだ。落ち着き払っていて、クールで、顔もタイプで、パッと見では実年齢より若く見えるにも関わらず年齢を感じさせる薄い皺が目元に数本存在しているのもこれまたたまらんポイントで、常に纏っている「厳しい先生」独特の尖ったオーラには怯えや恐れといった感情を抱くよりも先に脳みそが痺れる。漫画とかイラストなんかで、落雷で感電して骸骨として描写されるよく見るアレ、まさしくあんな状態。実はアレ私でした。知らんかったけど。
丁原先生を目の前にした私は絶対に理性を失う。断言出来る。想像するまでもなく目に見えている。多分人間の形を保てなくなる、先生のことが好きすぎて。
それでも······恋する乙女としては、やはり一度くらい、先生とちゃんと「会話」をしたい······と、思ッテ、ハ、イル。でも絶対無理。絶対絶対、無理。廊下の遥か先から丁原先生が歩いてくる姿を見つけただけで心拍数が爆上がりの鰻登りで命の危機を感じるというのに、そんな······そんな······会話だなんて、畏れ多すぎるッ······!!
とか何とか言いつつ。結局これは、私に勇気がないってだけの話。ただ、それだけ。丁原先生の前に立った時、先生の目に私がどう写りどんな感情を抱くのかを想像して怖くなる。丁原先生と会話をし、先生が私にどんな印象を持ちどんな評価を下すのかを想像して恐くなる。······私の、この不純すぎる気持ちが伝わってしまうかもしれないことを想像して、その時先生にどんな視線を向けられるのかを想像して、死にたくなる。
それなのに、私の心はもう先生への「好き!」でいっぱいで今にも張り裂けそうで、あんなウジウジと湿った六月の湿気みたいなことを考えながら、その一方で「先生とコミュニケーションを取ってみたい」という気持ちも沸々と煮立ってきて、もう自分でもどうすればいいのかわからない。完全にお手上げだ。そう思っていた。
そんな私の元に、天啓が舞い降りた。──世はもうすぐ、バレンタインデーを迎える。
二月十四日。朝。
校門の少し手前で立ち止まり、私は必死に何度も何度も深呼吸を繰り返す。それでも落ち着かないので、ついでにラマーズ法もやっておいた。やっぱり全然落ち着かなかった。
スクールバッグの中に忍ばせた、青い包装紙でラッピングされただけの小さめの正方形の箱へと視線を向け、ゴクリと喉を鳴らす。用意してしまった。そう、私は用意してしまったのだ······丁原先生に贈る、バレンタインのプレゼントを。
ここまでしてしまったのならもう後には退けない。それが恋する乙女というもの。恋という名の戦場で日々戦い続ける者。退かぬ、媚びぬ、省みぬの精神を持たなければ。帝王に逃走がないのなら恋する乙女にだって逃走なんぞない。乙女ナメんな。
頭の中でどこかの聖帝が華麗に空中を舞うと同時に、私の足は遂に一歩を踏み出した。心の中で素数を数えようとしたが、生憎素数が何なのかよくわからないのでただ一から順番に数字を数えるだけになった。あまりにも無益すぎる時間だった。
そんな馬鹿なことを考えている間に、校門はどんどん迫ってくる。もう風紀委員の生徒達のクソデカ大声の輪唱は余裕で聞こえてきている。私はスクールバッグに手を突っ込み、そっとプレゼントを掴む。ああ、神様、聖帝様、お願いします。私に、ほんのちょっとの勇気を!!
「おはようございます。······はい、おはようございます」
今日も丁原先生は校門前で、通り過ぎていく生徒達に向け挨拶をしている。風紀委員達とは対照的に、一定のトーンで淡々と放たれる落ち着いた声。ともすれば事務的とも捉えられかねない、静かと言われればそうでもなく、かと言ってとてもじゃないが元気ハツラツとも言えない、ある意味で先生らしさが滲み出ているマイペースな挨拶。
いつもは。いつもだったら、その声を聞き、幸せな気分に浸りながら、挨拶を返すことも出来ずにそそくさと足早に校門ゾーンを抜けていた。でも、今日は違う。今日の私は、違うんだ。
「······ッ丁原先生!」
先生の傍へ行き、初めて自分から先生の名前を声に出し、呼んだ。ああ、既に顔が真っ赤になっていそうだからこっち見ないでほしい······なんていう、自分勝手にもほどがある失礼すぎることを考えていたら、先生の顔がこちらを向いた。
「はい、おはようございます」
先生、それはズルすぎる。ファンサが過ぎる。先生の挨拶、独り占めしちゃったよ私。
「お、おはようございます! あのっ、その······いつも朝の挨拶お疲れ様です! よければこれ、食べてください!」
途中何度か言葉に詰まりかけるも、言いたいことを全て伝えた私はスクールバッグから例のプレゼントを取り出し、頭を下げながら両手で掴んだそれを先生に向けて献上する。
「············」
先生の手がプレゼントに触れることもなく、また何か声を発するでもない、「無」の時間が数瞬、私達を包んだ。周りの喧騒が右から左へ流れていき、何の音もない世界に放り投げられたような感覚。下げた頭を上げられない私は、ひたすら地面を見つめながら待つことしか出来ない。ヤバ、顔に変な汗滲んできた。
そうして幾分か経った後、先生はその静寂を切り裂いた。
「生徒から個人的な贈り物をもらうことは出来ない」
ガツン、と頭を鈍器で思いっきり殴られたような衝撃が走る。はは、あはは。考えてみればそりゃそうだ。だって今日は二月十四日。わざわざこの日を選んでプレゼントを渡してくる意味なんて、一つしかない。その一つに気付かないほど先生は鈍感ではなかったし、それどころか受け取ってしまった後のリスクまで考慮しているに違いない。私は生徒。相手は先生。こんな小娘、先生にとってはハエを追い払うみたいに簡単にあしらうことが出来る。しかも丁原先生は、学校の風紀を守る風紀委員を纏める先生なのだ。そんな人が自分から風紀を乱すわけがないじゃないか。そんな簡単なことにも気付かずに私は一人で浮かれて一人で舞い上がって······あー、なんてバカなんだろう、私。
「そうですか······ッそう、ですよね! ごめんなさい!」
先生の姿を見たら涙が出そうな気がして、顔を上げられないまましかし声だけは明るくあろうと努め、気合いで気力を振り絞った。大丈夫、バレてない。今にも泣きそうになってるだなんて、そのせいで声が震えそうになってるだなんて、そんなのバレてるわけない。大丈夫、大丈夫。
「ただ」
もう話も私の恋も終わったとばかり思っていたのに、先生の声が再び耳に染み渡る。それは、さっきスッパリとプレゼントを受け取ることを拒否した時より、ほんの少し、トゲが取れた声音のように感じられた。
「どうしてもと言うことなら、休み時間か帰りのホームルームが終わった後にもう一度来なさい」
ビックリして勢いよく顔を上げる。先生の顔はいつも通り、人に心を読ませないような仏頂面だったけど、掛けられた声は······やっぱり、いつもの先生よりちょっと優しくて、声に“温度”を感じた。先生も一人の人間で、生徒のことをちゃんと大事に思ってくれているんだなって······そんな当たり前のことを、再認識した。クソぅ、惚れ直しちゃうじゃん先生のバカ!
「はいっ······! 必ず、もう一度会いに行きます! あと、丁原先生」
「はい、何ですか」
ものはついで。このチャンスを最大限、有効活用するべし。戦闘モードに切り替わった乙女のパワー、まだまだ先生に注入してやるんだから。恐れおののけー!
「私、素数が何なのかわかんないのでついでに教えてもらいたいです!」
「············」
片手を上げながらお窺いをたてる私を見ながら先生は暫し絶句し、「素、数······」と何かに恐れ慄いたような声色で、悲愴感溢れる表情をしていた。わ、これ初めて見る表情だ! どんな先生も格好良い! 好き!
背後で先生が現実を受け入れようとするかのように「素数······」と何度も呟いていることなどいざ知らず、私は登校したばかりだというのに既に放課後のことで頭がいっぱいで脳みそお花畑状態になりながら、自分のクラスへと足取り軽く向かうのだった。
1/27/2025, 3:33:04 PM