アシロ

Open App

 私は寝る前、毎日していることがある。物心ついた頃からの習慣。
 ベッドに入った私は枕元の間接照明だけを照らした寝室の中、慣れた手付きで目の前の何も無い空間に電子パネルを浮かび上がらせる。電子パネルの背景は無色透明で、一見すると突然文字だけが空間に現れたかのよう。一昔前の人類にはなかった技術だそうだが、今を生きる私にとってこれはあって当然のもので、これが無ければ少なからず生活に支障をきたすのでは? と思えるほどにライフワークと直結している。それは私だけに限らず、今を生きる人類ほぼ全てに対して言えることだろう。なんせ、これ一つで何でも出来る時代だ。買い物も、勉強も、仕事も、食事の手配も。娯楽だって、このパネルがあれば十分過ぎるほどに事足りる。
 私はパネルに指を滑らせ、「書籍」の項目を選択し、続けてお気に入り登録の一覧を開く。ズラリと、私が今まで生きてきた中で一度でも「読む」という行為に着手し、その中でも特に気に入った作品のタイトルが並んでいる。新しく話が追加された作品は「NEW」というマークと共に一覧の上部に自動的に移動するシステムとなっており、今日は三件の新着作品が最上部から順に並んでいる。その中の一つを選び、私は電子の仮想空間の中に置かれた本を開いた。これまた自動的に前回読んだ最後のページが開き、その先に新たな文字列が整然と並んでいた。続きの段落から、私は静かに目を通していく。
 ······昔は職業として「作家」「小説家」「児童作家」「漫画家」など、物語を執筆、描画などをし、他者へ提供をする者達が存在していたらしい。それは当時の人類にとっても娯楽の一つであったらしく、人気作と呼べるようなものを生み出し発表することが出来ればある程度の地位を確立出来ていたと聞く。
 しかし、そんな彼らに対し、世の人々は次第に何とも傲慢な感想を抱くようになる。それは、「終わってしまうのが寂しい」というものだったそうだ。
 かつて、それらの職業に就き物語を提供していた者達の間には、「いつか終わること」を前提として話を考え、構成し、当初の予定通りいったかどうかはさておいて、きっちりと物語を「完結」させることが良しとされる風潮にあったそうだ。作者が亡くなったり、色々な理由で続きを書けなくなった際には「未完」として処理され、書き手の居なくなった物語はそれ以上続きが綴られることはなかったそうだが、そういった特例を除けばどの作品も様々な展開を経て終わりを迎え、「完結」となっていたそうだ。
 それがいつからか、世論が徐々に変化していった。人々は彼らに、「終わらない物語」を求め始めたのである。しかし、書き手達は反対した。人間に寿命というものがある限り、書き手達は皆いつか死ぬ運命に置かれている。書き手が死ねば、必然的に物語はそこで終わってしまい、しかも「未完」の扱いを受けてしまうのだ。「未完」の作品を世に残すことを、彼らのプライドは許さなかったそうだ。
 そうして起きた様々な論争の果て······時の政府はある決断を下した。当時急激な勢いで上昇傾向にあったAI技術を駆使し、国民が求める「終わらない物語」を書かせることにしたのだ。メンテナンスさえ怠らなければAIには寿命などないし、人間と同程度の語学力や知識、想像力などをオプションとして備えることが可能であった。こうして、世界の「書き手」は消滅し、その座はAI群が取って代わることとなった。
 そのような経緯で現在、小説、エッセイ、児童書、漫画に至るまで、かつて「本」だったあらゆるものがAIにより不死性を与えられた。好きな作品が、読めども読めども新たな展開を迎え、それを乗り越え、そしてまた新たな展開へ発展し······といった具合に、いつまでも終わりを迎えることなく続いていく。それはとても嬉しいことだし、幸せなことだ。今私が読み耽っている作品も、現在のページ数などもはやわからないし、そもそも「何ページ」という概念そのものが消えつつあった。永遠に終わらず続いていくのだから、そんなものにページ数を記録する意味などないのでは? という論調が最近では主流となってきているのだ。ちなみに私としては、それに関しては完全なる中立の立場だ。あってもいいし、なくてもいい。言ってしまえば「どうでもいい」。生憎、そんなどうでもいいことに関心など微塵もない。
 そんなことよりも、最近私が密かに恐れていることの方がよほど問題だと思うのだ。私はこれに気が付いた時、えも言われぬ焦燥感に駆られた。
 物語が永遠に続いていくのはよいことだ。好きなものが自分の手から離れてしまうのは誰だって寂しいし嫌だと思うだろう。私だってそう考え、生きてきた。しかし齢も四十を超えた今、物語の永続性だけでは人類の本当の幸せには一歩届いていないという事実に気付いてしまった。それは、完璧とも思えたこのシステムの唯一の欠陥とも言えた。
 人類には寿命がある。然るべき時が来たら、然るべき方法で命が失われる。それが果たしていつになるのか、それは誰にも、AIにすらわからない。
 例えば。例えば私が今日、この話の続きを全て読み終わってから眠りに就き、明日の朝にはとっくに体が冷たくなってしまっていたとしよう。そう、この場合私は寿命を迎えたわけだ。だが、私が愛読していた物語は、私の死があろうがなかろうが関係なく、またいつも通りに続きを綴っていく。それを、死んでしまった私はもう読むことが出来ない。次の展開に心を踊らせながら眠り、続きはちゃんと更新されるのに、死を迎えた私はもう、その物語を読む資格を取り上げられてしまうのだ。いつか来るその時が、既に怖くて怖くて堪らない。
 「終わらない物語」は作れても、「終わらない生命」を作るための技術力には未だ全然到達には至っていない、というのが、残念なことではあるが今この時代におけるリアルな現状だ。
 昔の人類が愛した「終わりのある物語」は、現在では影も形もなくなってしまった“失われた文化”だと思っていたけれど。まだ一つ、残っていた。とんでもなく身近な場所に、常に潜んでいた。いつだって私達を、見つめていた。
 人類の“人生”と言う名の“物語”が永遠に紡がれ続ける世界は、一体いつになれば訪れるというのだろうか。



◇◇◇◇◇◇
実は十代の頃、星新一先生の作品を数冊ほど読み、心惹かれていた時期がありました。(父親の本棚にあったのを拝借した)
そんなことを思い出したので、ほんの少し星先生リスペクトな雰囲気で書かせて頂きました。全然リスペクト出来てなかったらすみません······。

1/25/2025, 1:59:38 PM