生憎と、キザったらしい言動は板に着かない。歯が浮くような台詞も何も用意していないし、候補すら浮かばない。ロマンティックな演出に凝ることも出来ない。これで元・演劇部員だなんて、自分でも失笑してしまう。これに関しては、一つだけ言わせて頂きたい。“舞台上”と“リアル”は違うのだ。連続ドラマと現実に差異があるように。小説の内容と己を取り巻く環境が違うように。
演劇部に入った理由は「何となく」だった。強いて言うなら、大道具や小道具の製作が楽しそうだなぁ、ぐらい。それなのに、気付いた時にはあれよあれよと演者側に回されていた。芝居なんてしたこともなければ、舞台に立った経験だって文化祭の合唱コンクールぐらいのものだった。
そんな俺に到底、演者なんて務まるわけがない──そう何度も訴え続けていたのに、当時の部長······光道心(こうどうこころ)先輩は、どんな根拠か、胸を張って断言するのだ。
「君なら出来る! あの舞台の上で、自分とは違う別の人間の人生を、輝かしく描くことが出来る!」
······本当に、俺の何を見て、何処を見てその確信に至ったのか。当時のことを聞いてみても「直感」としか言われないので、もはや聞くことすらも諦めたわけなのだが。
しかし、部長の見る目······訂正。直感は、まさにドンピシャで当たっていたことになる。練習を重ねていくうちに、役になりきる感覚というのが徐々に理解出来てきた。そうすると、台本に書いていない些細な部分──この人物はこういう時どんな表情をするんだろう、きっとこんな心境で、もしかしたらこんな癖があって、などなど──までどんどん表現したくなっていった。その役を、別の人間の人生を、考えて、想像して。その全てを台詞や身振り手振りで伝えることに、やり甲斐を感じてしまうようになった。
そうして俺はいつしか「演劇部のエース」と呼ばれるようになり、最終的には部長という立場にも就くこととなった。
精力的に活動している部活だったので、校内での出し物以外にも、例えば地域の団体から声を掛けてもらったらボランティアとして劇を披露することもあったし、学生コンクールなんかにも参加したり、本当に充実した高校生活だったと思う。そしてそんな場には、いつだってお客さんとして心先輩が居た。OGとして、たまに部活へ顔を出し差し入れをくれる時などもあった。なので、先輩が卒業した後に入ってきた後輩達からも彼女はとても慕われていた。
······今にして思えば、同期含め真実を話していなかったことに少し申し訳なさを覚える。でも、どうにも照れ臭くて報告なんて出来たもんじゃなかったし。彼女も彼女で普段から天真爛漫なタイプだから、隠すのがとても上手くて。結局今に至るまで、俺達のことを知っている部員はついぞ現れなかった······と、思う。まぁ、もう少ししたらグループLINEがその話題で持ちきりになることは目に見えているので、その時になってから皆には盛大に驚いてもらおうと思う。どんな苦情も罵詈雑言も祝いの言葉も受け入れる所存だ。
「なぁに? なんか一人で楽しそうな表情してる」
ある有名な劇団の舞台を観終わった、その帰り道。自販機で買った飲み物を飲みながら、夜の街が電光で夜空の星のように輝いている様を二人並んで見ていた所に、ツッコミの声が飛んでくる。
「いや、別に。ただ、ちょっと高校の頃のこと思い出してた」
「高校ね〜! 日昏(ひぐれ)くんとは一年しか被ってなかったけど、でもその最後の一年がめーーーっちゃ楽しかったなぁー!」
「俺のこと、無理矢理裏方から演者に引きずり出したことまだ許してないから」
「いやいや! それむしろ感謝してほしいぐらいなんだけど! いち早く日昏くんの才能に気付いた優秀な元部長だよ〜? ほらほら、褒めて褒めて!」
「失敗して俺が舞台上で大恥かいたらどうするつもりだったんですかー。どう責任取るつもりだったんですかー」
「日昏くんが失敗なんてするわけない! って、練習風景見てる時から確信してたからね、私は! そんな“もしも”も“たられば”もありませぇーん!」
ケラケラ笑う彼女──心を見遣り、少しだけ、ほんの少しだけ、「俺ではない誰か」に擬態をする。
「······“もしも”も“たられば”もないってことは、俺達がこうなるのも必然だったってこと?」
一瞬だけ途切れる笑い声。心の顔を覗き込めば、耳まで真っ赤に染まりきった顔で硬直していた。
「······ねぇ? 心せーんぱい?」
「あ、アッハハハッアハッ! もう! 日昏くんはそうやってすーぐ年上を揶揄って遊んで〜!」
心は俺の背中をバシバシと叩きながら笑う。明らかにこの場の雰囲気に呑まれないようにするための空元気だとわかったが、とりあえず放っておくことにした。そして、心はひとしきり笑い終えた後。
「······わ、私が赤面症なの、知ってるでしょ······日昏くんの、バカ」
無意味に前髪を弄り、視線を逸らしながら、恥ずかしそうに口を尖らせた。
俺の胸に、愛しさという名の花がブワァッと一気に咲き誇る。知ってる。全部知ってるんだ。ほんの些細なことですぐ顔が真っ赤になってしまうこと。そのせいで部活動では演者になど到底なれなかったこと。それでも確かな観察眼と適切な指摘、客観的なアドバイスなどによって部長にまで上り詰めたこと。何の取り柄もない、ただの平凡な男だと思っていた俺に所謂一目惚れをして、同時にその経験則で俺の中で僅かに光る才能を感じ取り、演者に猛プッシュしたこと。卒業後も、外から演劇部を応援し続けてくれたこと。ずっと、ずっと、俺に温かな感情を分け与え続けてくれたこと。全部、全部、知ってるよ。もう何年一緒に居ると思ってるんだか。
「うん、知ってる。知ってるから、過去最大級に顔面真っ赤にさせてやる」
「へ? はぁ? 過去最大級って何事? ちょっと、こわいんですけどー!?」
こわい! やだ! と喚く心を無視して、鞄の中から綺麗にラッピングされた小さな四角い包みを取り出す。
「はい、これあげる」
そう言い、半ば無理矢理心にそれを持たせ、「開けてみ?」という意を込めて顎でそれを指し示す。
「え? ······え?」
戸惑いながらも、心はゆっくりラッピングを外していき······そうして現れた手のひらサイズのリングケースを見た心は。
「〜〜ッひぐれくぅん······!」
赤面するより先に、涙腺がやられてしまったらしい。手のひらにリングケースをちょこんと置いたまま、俺の顔を見るなりボロボロと泣き出した。
「あーーーーもう、何泣いてんの」
「だってッ······だってぇ〜······!」
「だってもクソもないでしょ」
「クソなんて言ってないぃぃ〜······!」
泣き止まない彼女を見かねて、一瞬リングケースを彼女の手から拝借し、蓋を開けた状態にして、彼女が中身を見やすい角度で再びその手のひらへとケースを戻す。中には、小さな粒みたいな宝石が一つだけ煌めきを放つ、シンプルな造りの指輪。
「これ。今までの······えー······何年だっけ?」
「七年んん〜〜!」
「そうそう。七年分の感謝の気持ちと、この先の時間全部に対してよろしくねって、そういうアレ」
「アレってなんだよぉ〜〜! そこまで言ったんならもう潔く言えよぉ〜〜!!」
泣きながら野次を飛ばしてくる心に苦笑いを一つ向けて······誰でもない“俺”として、言葉を贈った。
「結婚して下さい」
泣きながら、しかし満面の笑みで照れ臭そうに微笑む彼女は、この世の誰よりも愛らしかった。
※天体観測部の二人の話。その後。
なんかだいぶベーコンレタスっぽくなってきてしまった気がするので、苦手な方はご注意ください。
「部長って進路どうするんすか」
夏休みが終わり、残暑が続きつつもほんの少しずつ秋の訪れを感じられるようになった今日この頃。
部員達が帰ったあと、机に座り部誌を書いている俺を特に頼んでもいないのに待ち続け、前の座席を引っ張ってきてそこに後ろ向きで跨り、肘をつき、何が楽しいのやら鼻歌を歌っている部長へ、俺は特に深い理由もなく雑に問い掛けた。
「え、進路〜? まぁ、大体決まってるかなぁ〜?」
「そりゃ安心しました」
「ちょっと、ゆーやくーん? もう二学期だよ〜? 流石の俺でもそんな大事なこと、なぁなぁにするわけないじゃ〜ん!」
「部長だったら有り得るかと思って」
「も〜〜! 相変わらず酷いんだぁ、ゆーやくんは〜!」
癇癪を起こした子供のように長い手足をバタバタと出鱈目に動かす部長が邪魔臭いので、机と椅子ごと若干後ろへ移動した。
「あと〜! “部長”じゃなくて“先輩”!」
「部室なんで」
「なんでぇ〜!? もう誰も居ないよ〜!? 俺のこと部長呼びしなくても誰も聞いてないよ〜!?」
「部活中なんで」
適当に部長の文句をやり過ごしつつ、再び部誌に手を付けながら会話の軌道修正を試みる。
「ま、多分ふつーに大学進学っすよね?」
「ん、そうだね〜」
「希望する学部とか学科とか、その辺までもう決めてます?」
「お? おお〜? なになに、ゆーやくん、珍しく俺に対して興味津々じゃ〜ん? えー、嬉しい〜〜〜」
「来年に向けての参考資料です」
「俺、資料なの〜!?」
泣き真似をする先輩(可愛くない)を一瞥し、俺は視線を窓の外へと向ける。日が傾きだし、空は眩しいオレンジ色に輝いている。
「······だって、同じ部活で、同じ趣味持ってる人がどんな進路選ぶのか、気になるじゃないすか」
······あと半年もすれば。この部室からこの人の姿はなくなる。順当に考えれば、その後この人の持つ“部長”というポジションの跡を継ぐのは副部長の俺だろう。今いる後輩、そして新しく入ってくるであろう新一年生に、格好悪いところなんて見せたくないと思うし。やっぱり、「部長って凄い!」と尊敬されるような存在になりたい。俺が、この人に抱いたものと同じような感情を、俺もいつか誰かから向けられたい。「この人みたいになりたい」と、道に迷った時に取り出したコンパスや羅針盤のように、誰かのための指針となれるなら。それだけで、きっと俺は頑張れる。そのためにも、ちゃんとした未来像を思い描きその姿を目標に日々邁進することってとても大事なことだと思うわけだ。俺は誰かさんと違ってふにゃふにゃじゃないので。
「例えばだけど」
そのふにゃふにゃした当人であるところの部長は······望先輩は、たまに見せるようになった射抜くような真剣な眼差しで、俺の顔を真っ直ぐ直視する。ヒュッ、と何故か息が詰まった。
「俺が、この大学のこの学部にするよ〜。······って、事細かに教えたら······ゆーやくんは、俺を追ってきてくれるの?」
「······え、っと······」
一体何を聞かれているのか理解が追いつかず、言葉に詰まる。追いかける? 俺が? 望先輩を? どうして? 何のために?
「お、れは······」
進路なんて人それぞれで、己の将来のことを考えた上でどうするのか決めるべきものであって、決して他の誰かに決定権を委ねていいようなものではない。だが、俺は······先輩に問われたことで、少し。本当に、ほんの少しだけ、考えてしまった。もし仮に、この人を追いかけるために己の進路を決めるのだとしたら、その理由はきっと──。
「······まだまだ、望先輩と一緒に天体観測、したいっす」
俺の発した言葉は、望先輩からしてみれば的を射ない返答であったことは間違いない。だが先輩は、俺のその言葉を聞いて······へにゃり、と笑った。
「俺はね、星のかけらを観るのが好きなだけで、別に天文学自体には一ミリも興味ないのね? そもそも、俺の学力じゃ受かんないと思うし。だから、無難に経済学部辺りを受験しよっかなって考えてる」
「······」
「けど」
先輩は前方に体重を掛け、椅子の脚を半分浮かせたかと思うと俺の机に両腕を組んで置き、ズイッと顔を近付け言った。
「そこね? ······天体観測サークル、あるんだよね〜」
まるで内緒話でもするかのように、片手を口元に添えて、先輩はふわふわ、ふにゃふにゃ、笑っていた。
自分の人生の大事な分岐点。自分自身で考えて決断しなくちゃいけないことは十分わかっている。······わかっては、いるが。
「······へぇ。いい情報を有難うございます、部長。いい参考資料になりました。それで、」
今度は俺が、片方だけ吊り上げた口元に片手を添えてひそひそ話を仕掛ける。
「そこ、なんて名前の大学ですか?」
誰かの“羅針盤”になりたい俺の“羅針盤”は、こんなにもすぐ近くに居たのだと気付かされた──そんな夏の終わりと秋の始まりの間の出来事。
あまり面白くもない昔話をしようと思います。
私には昔、とても大好きなバンドがいました。蜉蝣という、ヴィジュアル系の界隈で活躍していたバンドです。
私は、明るく楽しい学生生活とはほぼ無縁な人生を送ってきました。中学生の頃には、ただ友達が作れず休み時間に一人で本を読んでいるだけで、クラスの女子の大半から陰口を聞こえるように言われたり筆箱を盗まれたりもしました。心配の声を掛けてくれたくせに盗みに加担していた子が居たりして、人間不信になったりもしました。それでも私は何処までも気が弱くて、その子たちを恨むことも怒りをぶつけることも出来ませんでした。出来なかったというより、もう心が何も感じなくなっていてそんな感情すら湧いても来ないような状態でした。
蜉蝣の音楽は、ボーカルの大佑さんは、私が言葉にしたくても出来ない恨み言だったり、生きることへの絶望だったり、そういったものを私の代わりに歌に込めて叫んで訴えてくれました。心の声を代弁してくれて、蜉蝣が解散しthe studsというバンドで活動するようになっても、私が悩んでいたり、人生に行き詰まった感覚に陥っている時、不思議といつも歌詞で答えを示してくれていました。蜉蝣時代に「カリスマVo.」と名乗っていた彼には、本当にボーカルとして、表現者としてのカリスマ力が溢れていて、この人の言葉があれば私はきっといつだって大丈夫だと、この人の言葉が私を救ってくれるのだと、そう信じて生きていました。生きていくために必要な心の支え。それが彼と、彼の書く歌詞、そして彼が全身で思いを訴えてくれる歌でした。
しかし彼は、2010年7月15日、私達ファンを置いて永眠してしまいました。突然すぎる別れ、早すぎる死でした。訃報を聞いたその夜、涙が止まらず一睡も出来ませんでした。一晩中ずっとiPodで、彼の歌声を聴き続けていました。蜉蝣が解散を発表した時にも深い傷を負い、たくさん涙を流しましたが、その時とは比べ物にならない喪失感と悲しみでした。たくさんのファンに必要とされている彼がどうして死ななければいけないのか。出来ることなら私が代わってあげたい。私の命一つでこの先も彼が世界に歌を届けられるのなら喜んでこの命を差し出すのに。······当時はそんなことばかり考えていました。
彼の歌詞は、死への渇望が多く見られました。そこに共感し、好きになった部分もあります。しかしそれと同時に彼は、生への渇望もたくさん歌詞にして残していました。恐らくは、彼自身が幼い頃より川崎病という心臓の病を抱えていたことが大きかったのではないかと思います。「蜉蝣」というバンド名に込められた思いは、短い期間しか生きることが出来ない蜉蝣という虫のように儚くも強く精一杯生きていく、といったものでした。蜉蝣時代、彼はライブでしきりに叫んでいました。「蜉蝣出来ますか?」「蜉蝣出来ますか!?」と。蜉蝣のように今を精一杯楽しめますか? と。私達ファンに向かってたくさん、たくさん、訴えてくれていました。
彼が亡くなった直後は、彼の居ない世界で生きていくことが嫌でした。そんな自信ありませんでした。彼の言葉が新しく紡がれることはもう二度とないのに、何を支えに生きていけばいいのかわかりませんでした。彼の居ない世界なんかに価値を見い出せませんでした。親とはぐれた迷子のような気分でした。それでも私はやっぱり気弱で、臆病で、軟弱で、そんな状態でもただ生きていくしかありませんでした。生きる以外の選択肢を選べませんでした。
自分にそんな勇気がなかったのは勿論なのですが、残された彼の歌は以前と変わらず私の背中を押してくれました。優しく寄り添ってくれました。欲しい言葉をくれました。後ろは見るな、と叱咤激励してくれました。自分で作りあげた牢屋の錠は自分だけしか持っていないだろう? と諭してくれました。手を伸ばせばすぐそこに出口はあるから、とも教えてくれました。
そして、改めて考えて、思ったのです。決意したのです。彼は32歳になる15日前、31歳という若さでこの世を去りました。まだまだやりたいことも、歌にしたい思いも、たくさんあったはずです。それなのにこの世を去らねばならない事実に、きっと大層胸を痛め、そして何より無念だっただろうと思うのです。残された私達に出来ることは、31歳で時が止まってしまった彼の代わりに精一杯この命を生き抜くことだと。その結論に至るまでそれなりの期間を要しましたが、今現在の私はそういった心持ちで、決して平坦ではない山あり谷ありの人生を必死に足掻きながらどうにかこうにか、生きています。彼の居ない世界で、生き続けています。
······それでも。たまにふと、考えてしまうのです。ボロボロに心が磨り減った時。生きる意味がわからなくなった時。自分の命に価値などないと気付いてしまった時。そんな時に、どうしても思ってしまうのです。「どうして今彼はこの世に居ないのか」と。縋ってしまうのです。「あなたの言葉が欲しい」と。「私のことを助けてほしい」と。そんな無意味なことを考え、彼の存在を思い出し、もうとっくに居ないその影に縋ろうとする。どう足掻いても、もうすぐ15年経つ今になっても、私が救いを求める先は彼一人なのです。私の人生でたった一人、唯一の、「カリスマ」なのです。
本当は自分でもわかっているんです。こうして彼を思い出すこと、彼について語ること。それは、もうとっくに塞がったはずの瘡蓋を自ら引っ掻いて剥がして血を流す、自傷行為に相違ないと。この約15年間、何度そうやって自分で自分を傷付けてきたかわかりません。
だけど、それでも。時々はこうやって、後ろを振り返って、あなたのことを思い出し、傷付いて涙を流したりすることがあっても、許してほしい。そんな身勝手な願いを、もう居ない彼に押し付けて、これからも私は生きていくのでしょう。この心の傷の形を死ぬまで忘れることなく、時に己で抉り、時に大事に抱き締めながら、この先いつまで続くかわからない道を、あなたと共に。
※昨日書いた話の宇宙さん視点です。
気付いた時から、私は人ならざる「怪異」であった。どのようにして誕生したかなどわからない。誰かによって作られたのか、何の前触れもなく自然発生したのか、人間から変異したのか。
己のルーツについては本当に何一つわからない私であったが、己がどう生きていくべきなのかは本能で理解していた。右手で誘き寄せ、左手で食べる。ただそれだけ。あまりにも単純すぎる、何の苦労もしない生き方だ。
怪異という存在は私以外にもこの世界にたくさん溢れている。例えば有名どころで言えば口裂け女、人面犬、海外のスレンダーマンなど。彼らが有名な怪異として存在し続けているのは、誰かに見られ、その誰かが生き残り、別の誰かに話をし、その話が人から人へどんどん拡散されていくからだ。そうして一度広まった噂は、そう簡単に人々の記憶から消し去られることはない。ゆえに、彼らは現在でも有名な怪異としてその名を馳せている。
しかし私はと言えば、怪異の中でも無名も無名。誰一人として私という怪異の存在を知らず、私含め誰一人私の名すらわからない。二つの意味で、私は本当に無名の怪異なのである。私の存在が噂とならないのには、明確な理由がある。答えは単純。私と遭遇した者は、生きて帰ることがままならないからだ。右手に隠された“撒き餌”は、内包されているモノがモノだけに、一度人目に触れさせるだけで結構な量の体力・精神力を消耗させられる。なので、基本的には“撒き餌”を見せたらすぐさま左手で“食事”を完了させ、使用したエネルギーを即補充。それが本来の私のやり方、生き方だった。
だが私は、次第に自分の在り方に疑問を抱くようになる。わざわざ人間を捕食する必要があるのだろうか? という、怪異らしからぬ疑問だった。右手を解放させない限り、私は体力が減ることもなければ腹が減るようなこともない。それならば、右手を使用しなければ人間を食べる必要性などなくなるのでは?
その答えに行き着いてから、私の心と体は随分と軽くなった心地がした。自分では自覚していなかったものの、どうやら私の心には今まで食べてきた人間達への罪悪感が積もっていたらしい。もう人間を食べなくてもいいんだ! と思えば、とても気が楽になった。そうして私は今まで縄張りとしていた地を離れ、自由気ままな放浪の旅を始めることとなる。
······それが地獄の始まりになるだなんて、その時の私は微塵も考えていなかったのだ。
それは、私がとある廃遊園地に暫く滞在していた時のことだった。自分のルーツについて何もわからないとは言ったものの、自分の出で立ちや外観の影響なのか、その廃遊園地はまるで実家のような安心感で溢れていた。とんでもなく居心地がよかったのだ。お前はここで生まれた怪異なんだ、と言われれば「やっぱり!」とすぐさま納得してしまえそうなほどに、この地と私は非常に相性が良かった。
何をするでもなくメリーゴーランドに腰掛け、天井の西洋絵画じみた装飾を見つめ、私はぼんやりと思考に耽っていた。この遊園地には今でこそ人の気配など一切無いものの、元々は客で賑わっていたはずの場所で、地元住人の中にはここに何度も何度も足を運んだ人間だって居たはずだ。そういった「お客さん」の存在を、私は羨ましく感じた。今までの私のやり方では「一見さん」ばかりで、長期的に通ってくれるような「お客さん」の確保には至らない。
どうしたものかと途方に暮れて居た時に出会ったのが、彼女だった。十歳は超えていそうな人間の少女。何をしているのかと問われ、素直に「お客さんを待っている」と答えたら、なんとその少女は「私がお客さんだ」と言うではないか。とても、とても嬉しかった。あまりにも嬉しかったので、私は張り切って彼女に“宇宙”を見せてあげた。食い入るように見つめる少女の瞳はキラキラと輝き、まるで宝石のようだと思った。私の持つ“宇宙”なんかより、よほど綺麗で美しい。もしかしたら今までの「一見さん」達も、こんな瞳でこれを見つめてくれていたのだろうか。そんな細部まで覚えているわけがない。だってあの頃の私はその先の「捕食」にしか意味を見出していなかったから。忘れたと思っていたはずの罪悪感が、チクリと疼いた。
少女は「また来る」と言い、とても満足そうな顔で去っていった。私はそんな少女の背を見つめ、いつまでも手を振り続けていた。“宇宙”を見せた後に“食事”をしないのは初めての試みであったが、意外と何とかなるものだな、と感じた。それは、少女が見せてくれた笑顔で精神的に充足感を得られたことにより空腹を感じる余裕がなかったのかもしれないが、そんなこと私にとってはどうでもよかった。だって、私にも初めて「お客さん」が出来たのだ。これからも彼女の期待に応えるべく、気合を入れてパフォーマンスをしていかねば。そう、固く心に誓ったのだ。
彼女から“お代”を貰う気なんて最初から毛頭なかった。むしろこちらから何かしら“お代”に匹敵する何かをあげたいほどだと言うのに。しかし生憎私は人間の貨幣など一枚たりとも持っていない。それに、彼女は“お代”を払わないことに居たたまれなさを感じてしまっているようだった。それゆえ、仕方なく口約束だけはしたものの······そんな中で更に彼女へ上乗せのサービスなどしてしまえば、気後れした彼女はもう二度とここに来てくれなくなってしまうかもしれない。せっかくのお客さんを失うことだけは何としても避けたかった。
だから私は、彼女が来る度、あれこれと口上を変えてみたり、見せ方がワンパターンにならないようになど色々気を遣いながら、“宇宙”を彼女にプレゼントし続けた。私が彼女に渡せるものなどこれ一つしかなかったから。
その間にどんどんと月日は流れていき、幼かった彼女は今や美しい大人の女性の一歩手前辺りまで成長を遂げていた。彼女の成長をここまで見守ることが出来た私は幸せ者だったのだと思う。成長した彼女が、幼いあの日に私に名付けてくれた「宇宙さん」という名を口にするのを聞く度、度を超えた飢餓感に勝るほどの幸福が身体中を駆け巡るのだ。
私はどうなってもいいから。初めてのお客さんになってくれた、初めて私に名前をくれた彼女には、このまま生きて、生き続けて、いつの日か私のことを忘れてしまってもいいから、生涯幸せに過ごしてほしいと······そう、心から願っていたのに。
「じゃあね、宇宙さん!」
······彼女は自分から。自分の意思で、私に食べられることを望んだ。私のエネルギーとなって消費されることを望んだ。最後まで、あのキラキラとした笑顔のままで。もうまともに体を動かすことも出来ない私の左手へ、自分から進んで飲み込まれていった。
「ぅ、あ゙、······!」
皮肉なことに、今まで出せなかった声が出せるようになって。
「あ、ぁ······ぅう、あぁぁあ゙ぁあぁぁ!」
今まで心のほぼ全てを満たしていた「飢餓感」が減り、代わりに生まれたのは「喪失感」と「悲しみ」。
「君、だけは······君だけ、は······」
未だに下品な音を鳴らしながら食事を続ける左手を無感情に見下ろし、私は呟いた。
「何を犠牲にしてでも、食べたくなんてなかった」
······こうして、束の間存在していた「宇宙さん」という名の怪異は。
ある少女の失踪と時を同じくし、その行方を晦ませた。
◇◇◇◇◇◇
「人外と人間の話書いてみるかー」と初めての試みを昨日してみて、いい感じのお題が立て続けに来てくれたのでここぞとばかりに。
余談ですが、書き終えた時に頭に流れていたのはアイネクライネでした。
私の家の近くには、もうずっと前に廃業となりそのまま放置されたままの、規模の小さな遊園地跡地がある。まだ営業をしていた頃は、小規模でアトラクションも少ないとはいえそれなりに地域住民達からの評判は良かったらしく、お客さんの入りもまぁまぁだったそうだ。だが、時代が進んでいくにつれてもっと大きな遊園地、もっと刺激的なアトラクション、もっと心躍るテーマパークなどが日本各地に登場し、客足がそちらの方へ流れていってしまった結果、呆気なく経営不振となり閉園することとなってしまったらしい。それが、もう今から何十年と前のこと。未だに解体もされず当時の姿のまま時代に取り残され続けている哀れな遊園地は、アトラクションなど随分と年季が入り錆も酷く、「遊園地」というよりは「廃墟」と表現した方がしっくりくるほどに寂れ、何処か異質な空気をどんよりと纏わせていた。
あれは、確か小学校の高学年ぐらいのことだっただろうか。私は休みの日に一人、廃墟と化した遊園地の中を徘徊していた。入口には当然のように「立ち入り禁止」と張り紙のされた赤い三角形のポールが幾つも並んでいたが、逆に言えば、それだけしかなかった。入口の両開きの扉も既に錆び付き朽ち果て綺麗に閉まってなどいなかったし、風に揺られてキィキィとブランコを漕ぐ時のような音を微かに鳴らしているだけ。あの頃の私にはそんな自覚はなかったけれど、きっと廃墟という非現実的な場所に心惹かれたのだと思う。とにかく私は入口を難なく突破し、園内へと足を踏み入れたのだった。
初めて入る場所におっかなびっくり歩みを進めていたが、ある場所まで来た時私は思わず「わぁ······!」と感嘆の声を上げた。それは、何頭もの馬を内に囲ったメリーゴーランドだった。他のアトラクション同様、色褪せ錆び付いてはいたが、ファンシーでメルヘンな造りのそれは子供の胸をときめかせるには十分で、私はゆっくりとメリーゴーランドへと近づいていき、かつては綺麗な装飾が施されていたのであろう白馬達をじっくりと観察して回った。
······その時にそこで、私は出会ってしまったのだ。後に自分の人生を大きく左右させるほどの存在となる、その人物と。
その男は、まるでずっと昔からそこに居たかのように、この風景と一体化しているかの如く自然に、メリーゴーランド内の一頭の馬に腰掛け、足を組み、左側の瞳だけで私をジッと見下ろしていた。顔の右半分は少し煤けたような金色の仮面で覆われており素顔は見えず、左半分は仮面こそつけていないものの白塗りされた肌、黒く濃く縁取られた目、紅く塗られ不自然なほどに口角を上げている唇といった、ピエロを彷彿とさせるような化粧が施されていた。更に黒のハットを被り、まるで一昔前に西洋の貴族が着ていたかのような黒の衣装を身に纏い、両手には白手袋を着用していて。非現実的な場所に、更なる非現実的要素が加わったその奇妙としか言えない光景は、しかし私の心を弾ませる一方で、不思議なことに恐怖だとか怯えといった感情は微塵も湧いてこなかった。
「ねえ! そこで何してるの?」
私は臆することなく、そのあまりにも異端すぎる風貌の男に声を掛けた。男はピエロメイクで保たれた笑みのまま、私の問いに答える。
「お客さんを待っているんだ」
「お客さん?」
「そう、お客さん」
男の言う「お客さん」が何なのか、私にはピンとこなかった。だってここはとっくの昔に潰れた遊園地で、そんな遊園地にお客さんなんて来るわけがない。そもそも、彼の言う「お客さん」が来たとして、彼は一体どうするのか。何をするのか。「お客さん」を欲しているということは、何か商売とか見世物とか、そういうことをしている人なんだろうか。色々と頭の中で憶測は飛び交うものの、答えには辿り着けない。だから、私はこう言ったのだ。
「私、お客さんだよ!」
「君がお客さん? 本当に?」
「本当だよ! 私、今日はここに遊びに来たんだもん!」
すると男はただでさえ吊り上がって見える口角を更に上へと押し上げ、愉快そうに笑いながら両の手で優雅に拍手をする。
「そうかそうか、君が私のお客さんだったのか! これはこれは、大変失礼をば」
男は片手でハットを取り、そのまま胸の前まで持っていったあと流暢に頭を垂れる。そうして姿勢とハットを元に戻し、「では」と。
「それでは、お客様に特別にお見せ致しましょう。私の秘密、宇宙の秘密。さあさ、とくとご覧あれ!」
そう言うと男は、右手の甲をこちら側へと向けた状態で手袋をゆっくりと外していく。どんどん面積を増していく男の素肌は、まるで海外の人のように······いや、それ以上に白かった。青白い、と言った方が正しいのかもしれない。その時の私は、「腕にまでお化粧してるのかなぁ」ぐらいにしか思っていなかったけれど。
「心の準備はいいですか? いきますよ? では、参、弐、壱······零!」
カウントが終わったと同時に、男は手袋が外された右手をバッと裏返し、手のひらを私の目の前へ翳した。そこに広がる光景に、私は口を開けて唖然とするしかなかった。
男の手のひらには······宇宙があった。手のひらの真ん中辺りから皮膚が上下に裂け、その裂けた中央部分には何とも不思議なことに······宇宙の光景が、広がっていたのだ。ぱち、ぱち、と意識して瞬きを繰り返してみても、目に映るものは何も変わらず、数々の星々と時々大きな何らかの惑星が流れていく、リアルの宇宙空間が存在していた。
私は呆気にとられながらも、目の前に広がる小さく狭い“宇宙”が大層魅力的に思えて······無意識のうちに、そこへ己の指を──。
「はぁい! 今日はこれでおしまいです!」
目の前から“宇宙”が突然消え、ハッとして男を見上げると、男は既に右手に手袋を装着し終え、ニッコリとこちらに向かって微笑んだ。
「気に入って頂けましたか? お客様?」
「〜ッ、うん! 凄かった! ねえ、あれ本物!? 本当に手の中に宇宙が入ってるの!?」
「お気に召して頂けたならこれ幸い! そしてお客様には大変申し訳ないのですが、“これ”は私の商売道具ゆえ······非常に心苦しいですが、詳細を語ること能わず、なので御座います······要するに、企業秘密というヤツで御座います。その点に関しましてはご理解頂きたく······」
「あ、その、全然! 全然大丈夫です!」
そう言い、またもや恭しく頭を下げるものだから、私は慌てて彼の頭を上げさせた。
「あの! また見に来てもいいですか······? あっ、お金! いくら払えばいいですか!?」
小さな小銭入れを出しながら男に聞けば、男は気さくそうな笑い声を上げた。
「いえいえ! お代など結構で御座います! 初めてのお客様ですし、初回サービスということで!」
「えっ······でも······あんなに凄いもの見せてもらったのに······」
私が躊躇っていると、男はわざとらしく片手を顎に当て、ウーンと唸り。
「では、こう致しましょう。こちらとしては本当にお代など結構なので御座いますが、それでお客様が納得いかないということであるならば、仕方ありません。いつか、いつの日か。何日先か、何年先か、何十年先か······この私にも正確に“いつ”とはお答え出来かねますが、いつか何処かのタイミングで一度だけ、お代を頂戴させて頂きましょう。なぁに、お代と言っても大したものでは御座いませぬ。それでご納得頂けますか?」
果たしてそれが公平なことなのかどうなのか、私にはよくわからなかったのだが······これ以上困らせてしまうのも申し訳なかったので、私はコクリと首を縦に振った。
「あの! 絶対また見に来ますから! 今日はどうもありがとうございました、宇宙さん!」
そう言いペコリと頭を下げ、私はメリーゴーランドを後にする。
「またのお越しをお待ちしております、お客様」
途中何回か名残惜しくて振り返ってしまったのだが、「宇宙さん」はずっとニコニコしながら手を振り続けてくれていた。それが、私にはとっても嬉しくて。
······それから私は、頻繁に「宇宙さん」の所へ通い詰めた。中学生になり、高校生になっても、それは続いた。その間、「お代」の請求は一度もないまま。
「······来たよ、宇宙さん。こんにちは」
白馬の足元に背を預けるようにして、辛うじて床に座ることが出来ている「宇宙さん」に、声を掛けた。
「──、──······」
「······もう、喋る元気もない?」
宇宙さんはパクパクと口を開閉させるが、声を発声させることはもう難しいみたいだった。
「······何で宇宙さんはさぁ、こんなんになるまで“お代”、請求しなかったの?」
「──······ぁ゙」
「私ね、とっくに気付いてた。宇宙さんが人間じゃないことも、アレを見せてくれる度にどんどん弱っていくのも。きっと、すっごくエネルギー使うんだよね、アレ? なのに宇宙さんたら、エネルギー補給しないから。······ああ、“お代”だったっけ」
「············」
宇宙さんは私の片手を取り、手のひらを上に向けさせると、そこに自分の指で文字を書き始めた。
「······は、じ、め、て、の、き、や、く······初めての客? アッハハ! 優しいね、宇宙さんは。でも、もういいよ。私、これまでたくさん宇宙さんに楽しませてもらったもん。だからそろそろ“お代”、ちゃんと払わせてね?」
「······、············」
私は宇宙さんの左手の手袋に手を掛け、そっと抜き取る。そうして、手のひらを上に向けさせた。そこは右手同様、皮膚が上下に割れていて······ただ、右手と違うのは、そこの中央にあるのは歯が生え揃った大きな口、だということだ。
私の左手の手首を、宇宙さんの右手で握られた。多分、引き止めたいんだと思う。でも、宇宙さんの力はもう本当に弱々しくて。私が大した力を入れずとも、左手を少し上に上げれば宇宙さんの手は呆気なく外れ、床へと落ちる。
「宇宙さんは優しすぎるからさぁ。もしも次のお客さんが見つかったら、情なんか捨ててもっと早くにお代請求しなね? じゃないとまたこんなふうになっちゃうんだから」
宇宙さんの左手から、ガチガチと音がする。上下の歯が喧しく音を立て、早く食事をさせろと急いてくる。
私はゆっくりとそこに人差し指を近付けていって。
「じゃあね、宇宙さん!」
私の体は瞬く間に口の中へと吸い込まれ、何度も何度も咀嚼され続けた。
ガチガチと煩い歯の音の向こうで、誰かの啜り泣くような声が最期に聞こえたような気がした。