遠い街の、夜景を見る。
星々の輝きに対抗するように、高層ビルや住宅の窓の明かりが灯っている。
「ねえ、先輩」
ベランダでそんな景色を見ながら、先輩と横に並ぶ僕は声をかける。先輩はタバコをぷかぷかと吸いながら、黙って顔をこちらに向けた。
「綺麗ですね」
そう呟くと、先輩はくしゃっと笑った。
「それ、夜景の話?」
先輩の笑顔に、僕の胸が大きく高鳴る。それを悟られないよう、淡白な物言いで言葉を返す。
「どっちだと思います?」
「ずるいなぁ、その言い方」
先輩の、どうしようもない、みたいに崩れた笑顔。そよ風でなびく艶のある黒髪。夜景の何倍も綺麗で、僕は見惚れる。
また、静寂が訪れた。先輩も僕も何も言わない。口をとんがらせて、名残惜しそうに煙を吐く先輩は、夜景を見ているようで、だけどどこかもっと遠くを見ているような、そんな感じがした。
僕が隣にいるのに、先輩はひとりみたいだった。
「ねえ、後輩」
不意に呼ばれて、肩を小さく跳ね上がらせる。僕のほうを見ないまま、先輩は続けた。
「私は君よりも先に卒業してしまうけど、君はその後も私のことを、先輩、と呼ぶのかな」
先輩の言っていることに疑問を覚えながらも、反射的に「はい」と返事をする。
先に卒業してしまうことと、呼び方になんの関連性があるのか。そして、何故急にそんなことを言ってきたのか。
でもそうとは聞けず、僕は黙り込んでしまった。
そんな僕の様子に、先輩が目だけを向けてきた。
「なんだ、名前で呼んでくれないのか」
子どものような拗ねている声色。慌てる僕を横目に、すぐにそっぽを向いてしまった。
先輩から、そんなことを言われるなんて、思ったことすらなかった。いつもクールで、どこか他人事で、だけど時々見せる破顔が卑怯な先輩。
だから、先輩の名前は夢でさえ呼んだことがない。
「よ、呼んでもいいんですか……」
聞いても、答えてくれない。先輩はそっぽ向いたまま。
先輩の名前を口に出そうとするだけで、心臓がどんどん煩くなるのが感じられた。頭がぼーっとしていく。指先が凍ったみたいに動かなくなって、目の前がぐるぐる渦を巻く。
緊張が、すごい。すごい、緊張。
あぁ、どうしよう。どうしよう。
呼ばなきゃ。先輩のこと。先輩じゃなくて。
先輩、じゃ、なくって。
先輩。
先輩。
先輩。
先輩、
「しおり、せん、ぱい」
先輩がこちらを向いた。
「先輩って呼んでるじゃん」
「今はこれで、勘弁、してください……」
顔が熱く、燃えそうだった。先輩と目を合わせられなくて、自分の足に目線を落とす。
すると影が近付いてきて、先輩が僕の頭を、髪の毛をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
そんな先輩のことを、名前だけで呼ぶのは、またいつかの話。
#夜景
遠い昔に見た朧げな記憶の中に、それはそれは広大な花畑があった。
見渡す限りの向日葵畑。右を見ても、左を見ても、前も後ろも、果てしなく続く花畑。
何故……そんなところに行ったんだっけ。確か、誰かと一緒に行った気がするが。場所も相手も思い出せない。
壮観な景色にうっとりして、1日中そこに居たような、居なかったような。
「あぁ……だめだね……この歳になると……」
まったく、思い出せないことばかりだ。
「ばあさん、なに落ち込んでいるんじゃ」
湯呑みを持って、爺さんが後ろから声をかけてくる。それで思い出した、あぁそうだ、爺さんと一緒に見に行ったんだっけか。
「昔に見た、向日葵畑のことを考えていたんだよぉ……。あれは、どこだったかね……」
「忘れちゃったのかい。あの向日葵畑は、ワシの土地じゃ。ワシがばあさんに贈ったものじゃよ」
「そうだったか、私に贈ってくれたんだったかい」
「そうじゃ。どうか死ぬまで忘れないでおくれよ」
爺さんにそう言われて、少しずつ記憶が鮮明になる。あの日、サプライズで連れて行かれた先に向日葵畑があって。そこで爺さんに手紙を貰ったんだ。
『999本の向日葵を贈る』と書かれていた。不器用なくせにロマンチックな爺さんらしくて、その気持ちが嬉しくて、この人と一生歩いていこうって決めたんだ。
「爺さんや」
「なんだい、ばあさん」
「いつまでも愛しているよ」
「な、なんだい急に! ……ワシも、ずっと想いは変わらんよ」
「いつまでも、私の運命の人は貴方だよ」
「それはそうさ。何度生まれ変わろうとも、愛しているからね」
999本の向日葵
――何度生まれ変わっても君を愛している
#花畑
ぽつ、と地面に黒い滲みができた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。そして、数えられないほど多く増えていった。
私は傘もささず、そこに佇んでいた。
髪は濡れ、鞄は濡れ、シャツは体に張り付いた。
それでも私は動かずに、そこにいた。
私の頬や首筋を雨が伝っていく。
地面を見つめ、ぐるぐるとした感情を咀嚼する。
好きな人がいた。
ほんの5分か、10分前まで。
告白した。
結果は惨敗。
全く知らなかったけれど、どうやら彼女が居たらしい。
彼女に悪いから、もう近付かないでほしい。と
突き放されてしまった。
こんなことになるのなら。
話せなくなってしまうのなら。
告白なんかしないで、好きな気持ちに蓋をして。
ただの友達として、すれ違ったら挨拶を交わすような、せめてそれくらいの関係で居たかった。
「――っくしゅん」
くしゃみが出た。ぶる、と身震いをした。
雨が冷たくて、寒い。
顔がぐしゃぐしゃに濡れてしまった。
だから、もう少しだけ雨に打たれよう。
空が代わりに泣いている、今のうちに。
#空が泣く
「どうして争わなければならないのですか!」
宙に留まる我の見下す先に、喚くひとりの人間がおった。左手には人間と同じサイズの盾、右手には人間よりも長い槍を力強く握りしめ、果敢にも我と対峙しておる。
「つい先日まで、私たちはお友達だったじゃないですか! 私が、私だけが友達だと思っていたのですか!?」
「あぁ、そうであったな。我も貴様を友人だと思っておった。だがそれも、先日までの話。貴様は人間で、我は妖怪である。互いに敵になってしまったのだ。こんな世界で、我々ももう、仲良くはできまい」
我は人間を威嚇する意味で、9本の尾で強風を巻き起こした。人間はたったそれだけで吹き飛びそうに足を崩し、よろめき、それからようやっと体勢を立て直す。
なんと、愚かな。
それほどまでに弱いのにも関わらず、我に立ち向かおうとする心意気。
我の攻撃が一撃でも当たれば、息の根が止まることなど分かってるであろうに、話し合いから試みる心意気。
それから、何よりも
「人間と妖怪が分かり合える筈はないんだ。妖怪を殲滅せよ!」と、勝手なことを言ってこんな小娘にまで強要する、立派な立派な人間共。
全てがあまりにも愚かで、あまりにもちっぽけすぎる。我がここで小娘を見逃そうとも、小娘は人間に潰されるだろうな。
であれば、我がやらなければいけないことはひとつ。
小娘と真剣に対峙し、口には出せぬ思いを伝えてやるだけだ。
どちらかの命が、燃え尽きるまで。
#命が燃え尽きるまで
ビルの屋上で、前を向く。星の声が聴こえてしまいそうな、夜明け前だった。
きっと、間近で見れば首が痛くなりそうなくらいに高い高いビル達が、今は小さな影となって景色の一部に溶け込んでいた。
薄らと色づき始めていく空には、白い星が未だに瞬いていて。全てを包み込むような淡い光の月と、そんな星々と。黒、青、白、橙、赤……と続く、人類にはあまりにも広大すぎる空の中で。
私は、今日死のうと決めた。
世界の誰かは、こんな私を「馬鹿だ」と罵るだろう。分かっている。私だってそう思う。
だけど、仕方なかったんだ。
どうしても、上手く生きられない。
どうしたって、上手く息ができない。
誰に何を言われても、何をして過ごしていても、「苦しい」という思いから逃れられなかった。もう我慢したくない、とも思った。
友達ができた。
上司ができた。
先輩ができた。
後輩ができた。
親友もできた。
恋人もできた。
大切だと思えること。大切だと思える人は、たくさんできた。その中で、ずっと自分だけが大切にできなかった。
だから最期くらいは、自分を大切にしたくて。
私が何もかもを忘れて、頭も心も空っぽにして、眼前に広がる「綺麗」で私の全てが埋め尽くされる。
そんな時間で、さよならを。
#夜明け前