近付きたい、もう一歩だけ。
手を伸ばしても届かない距離。
私と貴方の目線が交わらない距離。
誰かの影に隠れてしまう、この距離。
電車の中で、外の景色に目を揺らし。時には本に目を落とし。
憂げな長い睫毛。
透き通った白い肌。
膝丈の慎ましいスカート。
丁寧に形作られた胸元のリボン。
その全てに――貴方の全てに、触れてみたくて。
何度も何度も頭の中でイメージしては、何もできずに電車を降りる。
そんな日々の繰り返しの中で、いつもの場所に、貴方の姿が見えない日がやってきた。
あぁ、結局私は一度も行動することができなかったのか。
後悔の念を抱き、ぐ、と飲み込む。
でも、違った。
見かねた神様が背中を押してくれたようだった。
ドアが閉まる直前に駆け込んできた貴方は、いつもの場所が既に埋まっていることを知り、私のほうへ向き直した。
私の隣だけが、空いていたから。
だから貴方は、当然のように何の躊躇もなく隣へ腰掛けた。
もう一歩だけ、近付ければそれで良かったはずなのに。
どうか、私のこの心音が
貴方に聞こえてませんように。
#もう一歩だけ、
美しいなんて感情は、いつだって上辺だけだ。
水田に映る淡い藍色の朝焼けも。
太陽の輝きを跳ね返す鮮やかな向日葵も。
窓辺で珈琲の湯気を眺めながら聴く雨音も。
美しいなんて思うには、当たり前すぎる。本当はそんなこと思っていなくたって言える。適当に言っても誰かが共感してくれる。
そんなものより、
ペットボトルから口を離した時の濡れた唇。
こめかみから伝った汗が落ちていく首筋。
ズボンを捲って日焼け止めを塗る露出した太腿。
夏にしか見られない、好きなあの子の一部分が。
何よりも美しく
間違いなく美しい。
#美しい
花→花火。
遠い街の、夜景を見る。
星々の輝きに対抗するように、高層ビルや住宅の窓の明かりが灯っている。
「ねえ、先輩」
ベランダでそんな景色を見ながら、先輩と横に並ぶ僕は声をかける。先輩はタバコをぷかぷかと吸いながら、黙って顔をこちらに向けた。
「綺麗ですね」
そう呟くと、先輩はくしゃっと笑った。
「それ、夜景の話?」
先輩の笑顔に、僕の胸が大きく高鳴る。それを悟られないよう、淡白な物言いで言葉を返す。
「どっちだと思います?」
「ずるいなぁ、その言い方」
先輩の、どうしようもない、みたいに崩れた笑顔。そよ風でなびく艶のある黒髪。夜景の何倍も綺麗で、僕は見惚れる。
また、静寂が訪れた。先輩も僕も何も言わない。口をとんがらせて、名残惜しそうに煙を吐く先輩は、夜景を見ているようで、だけどどこかもっと遠くを見ているような、そんな感じがした。
僕が隣にいるのに、先輩はひとりみたいだった。
「ねえ、後輩」
不意に呼ばれて、肩を小さく跳ね上がらせる。僕のほうを見ないまま、先輩は続けた。
「私は君よりも先に卒業してしまうけど、君はその後も私のことを、先輩、と呼ぶのかな」
先輩の言っていることに疑問を覚えながらも、反射的に「はい」と返事をする。
先に卒業してしまうことと、呼び方になんの関連性があるのか。そして、何故急にそんなことを言ってきたのか。
でもそうとは聞けず、僕は黙り込んでしまった。
そんな僕の様子に、先輩が目だけを向けてきた。
「なんだ、名前で呼んでくれないのか」
子どものような拗ねている声色。慌てる僕を横目に、すぐにそっぽを向いてしまった。
先輩から、そんなことを言われるなんて、思ったことすらなかった。いつもクールで、どこか他人事で、だけど時々見せる破顔が卑怯な先輩。
だから、先輩の名前は夢でさえ呼んだことがない。
「よ、呼んでもいいんですか……」
聞いても、答えてくれない。先輩はそっぽ向いたまま。
先輩の名前を口に出そうとするだけで、心臓がどんどん煩くなるのが感じられた。頭がぼーっとしていく。指先が凍ったみたいに動かなくなって、目の前がぐるぐる渦を巻く。
緊張が、すごい。すごい、緊張。
あぁ、どうしよう。どうしよう。
呼ばなきゃ。先輩のこと。先輩じゃなくて。
先輩、じゃ、なくって。
先輩。
先輩。
先輩。
先輩、
「しおり、せん、ぱい」
先輩がこちらを向いた。
「先輩って呼んでるじゃん」
「今はこれで、勘弁、してください……」
顔が熱く、燃えそうだった。先輩と目を合わせられなくて、自分の足に目線を落とす。
すると影が近付いてきて、先輩が僕の頭を、髪の毛をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
そんな先輩のことを、名前だけで呼ぶのは、またいつかの話。
#夜景
遠い昔に見た朧げな記憶の中に、それはそれは広大な花畑があった。
見渡す限りの向日葵畑。右を見ても、左を見ても、前も後ろも、果てしなく続く花畑。
何故……そんなところに行ったんだっけ。確か、誰かと一緒に行った気がするが。場所も相手も思い出せない。
壮観な景色にうっとりして、1日中そこに居たような、居なかったような。
「あぁ……だめだね……この歳になると……」
まったく、思い出せないことばかりだ。
「ばあさん、なに落ち込んでいるんじゃ」
湯呑みを持って、爺さんが後ろから声をかけてくる。それで思い出した、あぁそうだ、爺さんと一緒に見に行ったんだっけか。
「昔に見た、向日葵畑のことを考えていたんだよぉ……。あれは、どこだったかね……」
「忘れちゃったのかい。あの向日葵畑は、ワシの土地じゃ。ワシがばあさんに贈ったものじゃよ」
「そうだったか、私に贈ってくれたんだったかい」
「そうじゃ。どうか死ぬまで忘れないでおくれよ」
爺さんにそう言われて、少しずつ記憶が鮮明になる。あの日、サプライズで連れて行かれた先に向日葵畑があって。そこで爺さんに手紙を貰ったんだ。
『999本の向日葵を贈る』と書かれていた。不器用なくせにロマンチックな爺さんらしくて、その気持ちが嬉しくて、この人と一生歩いていこうって決めたんだ。
「爺さんや」
「なんだい、ばあさん」
「いつまでも愛しているよ」
「な、なんだい急に! ……ワシも、ずっと想いは変わらんよ」
「いつまでも、私の運命の人は貴方だよ」
「それはそうさ。何度生まれ変わろうとも、愛しているからね」
999本の向日葵
――何度生まれ変わっても君を愛している
#花畑