#楽園
日に三度の食事、洗濯された清潔な着替え、雨漏りのしない、乾いたシーツの敷かれた寝床。
まるで楽園ですよ、とその青年は屈託のない、どこかあどけなさすら残した笑顔で男に語った。
「……だから、控訴する気はないと?」
厚いアクリル板越し、耳に当てた受話器を通じて、男は確認する。同じように受話器を耳に当てた青年は、あっさりと肯いた。
「まあ、君がそう言うなら……」
男は呟く。
弁護士としては、もう少し粘れると思っていた。青年の生まれ育った劣悪な環境――名前も分からぬ父親、ドラッグ中毒だった母親、学校にも通えず、幼い頃から万引きを繰り返して生き延びてきた。やがて母親が野垂れ死ぬと、彼女の遺したツケを払えと売人たちは青年に迫った。そんな売人たちのうちのひとりを、青年は拾った銃で射殺したのだった。あともう少し、陪審員たちの同情を引くことができたなら、多少の減刑はのぞめたのではないか。しかし、青年は悪びれることなく、堂々としていた。表向きの反省の色を示すことすらなかった。だから、陪審員の心象も良くなかったのだ。
「ひとりで十年」
青年は独り言のように言う。
「ふたりだと、何年くらいになりますかね?」
「…………」
青年にとって、売人の命など楽園へのチケットに過ぎないのだろう。
青年はにこにこしている。男が初めて出会ったときよりも、むしろ今のほうが血色は良い。彼の言うとおり、彼にとってこの刑務所は楽園なのだ――。
男は何か言いかけて、そして辞めた。
迂闊なことを言えば、男の命も楽園行きのチケットに替えられてしまうだろうから。
#星に願いを
「あの流れ星、なんかおかしくない?」
誰かの悲鳴にも似た声を耳にして、ぼくは固く閉じていた瞼を開けた。
声は隣のベランダから聞こえてきたようだ。隣の人も、ぼくと同じように、夜空を見上げていたらしい。
空を見上げると、夜なのに変に明るかった。
「星が、落ちてくる……!」
ぼくは息を呑む。
流れ星――いや、あれはもはや隕石だ。恐竜を滅ぼしたのも、きっとあんな隕石だったのだろう。ぼくは笑う。お星さま、きっと、ぼくの願いを聞き届けてくれたんだ。
「やだ、ちょっと――」
アパート全体が、いや、街中が騒然とする気配を感じる。隣の人は、ばたばたと部屋の中に入っていったようだ。でも、ぼくは入れない。窓には鍵がかかっていて、ぼくを入れてはくれない。
ぼくの居場所は、どこにもない。
だから、ぼくは。
星に願いをかけた。
みんな、みんな、消えちゃえ。
#ルール
とある国で、王と大臣が問答をしていた。
「法(ルール)を守るのは、一体どんな者でしょう」
「善人であろう」
「では法を破るのは」
「悪人だ」
「法を作るのは」
「王だ」
「無闇に法を増やすのは」
「?」
「愚か者にございます」
王は少しむっとしたようだったが、幼少の頃より彼の師である目の前の大臣には頭が上がらぬ。仕方なく皮肉めいた問いを投げた。
「では、賢者は法を何とする」
大臣はその質問をも予想していたようであった。
「悪法を廃するものこそ賢者でありましょうな」
「…………」
王は手元の法案の束を一瞥し、それらをことごとく暖炉に投げ込む。
ぱっと跳ねた火の粉が、大臣の済まし顔を明るく照らし出した。
#今日の心模様
「――次は予報です」
カーラジオをそのFM局にチューニングしたのは、全くの偶然だった。
「今日の心模様をお知らせします――」
このラジオ局はへんなことを言うなあ、と思いながら、私はハンドルを切った。
「概ね晴れ、夜遅くは場合により雷雨となるでしょう。夜分のお出掛けには十分ご注意下さい」
落ち着いた声のその女性アナウンサーが続けたのは、ごく普通の天気予報のようだった。「空模様」の聞き間違いだったのかな。それにしてはやけにはっきりと「心模様」と聞こえたような気がしたけれども。それに、天気予報アプリでは雷雨の可能性なんて全く触れられていなかったはずだ。
トンネルに差し掛かったせいか、ノイズにかき消されるようにしてアナウンサーの声は消えた。そして、トンネルを出てからも、カーステレオから流れ出す音は変わらなかった。
私はチューニングを変えた。軽快に流れ出すポップス。そのまま、私は風変わりな天気予報のことなどすっかり忘れてしまったのだった。
次にそれを思い出したのは――
「信じられない! あんたってひとは――」
その夜、妻に仕事が長引いたと偽って愛人と繁華街に繰り出し、友人らと出掛けていた妻とばったり出くわして、罵詈雑言を体中に浴びている時だった。妻の友人らの呆れたような、どこか面白がってもいるような、しかし全員に共通する強い侮蔑の眼差しに囲まれて。
「あ、あたし奥様がいるなんて知らなくて……」
隣で愛人は嘘八百の涙を流す。私はどこか冷静に状況を俯瞰していた。そうするしかなかった。
なるほど、これはまさに雷雨だ。
あの不思議な予報を思い出す。夜のお出かけには要注意、か。
しかし、これは私の心模様というよりは、妻のそれではないのか。怒りの雷、悲しみの雨。
そのとき、俯いていた妻が顔を上げた。
「――絶対に許さないから」
妻の眼差しに涙の色はない。そこにあるのは純度100%の怒りと憎しみ。
終わった。私は悟る。妻は決して私を許さないだろう。私の結婚生活は終わる。私が終わらせてしまった。子供は妻につくだろう。妻を好いて、孫を溺愛している両親には詰られるだろう。妻とは共通の友人も多いことだし、職場にも事の顛末はすぐに広まるだろう。
おしまいだ。何もかも。
頭の先から足元まで痺れが駆け抜け、体が冷たい汗でぐっしょりと濡れる。まるで、雷雨にでも降られたように。芯まで冷えた体は、カタカタと小さく震えて……。
――夜から朝にかけて、霜がおりるでしょう。
あの落ち着き払った女性アナウンサーの声が、耳元で聞こえたような気がした。
#たとえ間違っていたとしても
後悔はしていない、と私は自分に言い聞かせた。
私は誰にも頼らず、己の直感に従ってここまで来た。直感、第六感、或いは内なる声。ひとはそんな私を指して嘲笑うのかもしれないが、それはそれで致し方のないことだ。私にはその誹りを甘んじて受ける覚悟がある。
だからこそこうして、私は真っ直ぐに前を向いて立っていられるのだ。両手を上着に差し込み、行き交う人々の流れに流されるともなく、かといって逆らうこともなく、黙念と佇みながら。
しかし、これからどうすべきかはまた別の問題だ。このままもう少し己の勘に頼ってみるか、それがたとえ間違いであったとしても。気の向くまま、足の向くまま、それも悪くはない。悪くはない、が……。
その時、不意に私の背筋に冷たいものが伝った。
本当にそれでいいのか?
このまま私は出られなくなりはしないか?
永久に――半永久的に、あてどなく彷徨い続けることになりはしないか?
この、梅田地下街という迷宮を。
私は暫し逡巡した後しぶしぶ己の敗北を認め、スマートフォンを取り出して地図アプリを開いたのであった。