-ねぇねぇ、何の本読んでるの?
コンビニの弁当を食べ終えて机で本を読んでいると、艶のある長い黒髪を揺らしながら先輩が隣から覗き込んでくる。
-勝手に見ないでください。
そう言って僕は、どこにでもあるような茶色のハードカバーのついた手のひらサイズの本を閉じて机の上に置く。
-いいじゃん、タイトルぐらい教えてくれても。
口を尖らせて拗ねた表情をしながら、先輩が隣の同期の席に座る。
可愛い…少し年上なはずなのに、僕よりも若く見える横顔に心臓が少し跳ねるのが分かった。
-そこ、奥村の席ですよ。
先輩に言ってもどかないのは分かっているが、皮肉を言いたい気分になっていた。
僕が新卒で会社に入って、僕の教育係の先輩で、たくさんお世話になった人
いろんな相談を先輩にして、先輩に褒められたくてたくさん頑張った。
僕の恩人で僕が好きになった人…そして、座っている同期の奥さんだ。
隣の席に座り、長い髪を左手でクルクルと弄びながらイタズラっぽく先輩が笑う。
気づいてますか先輩?
この本、貴女から貰ったんですよ。
本のタイトルは
「幸せは掴みとれ」
待っててくださいね先輩、もうすぐです
貴女がくれたこの本が僕に幸せの掴みかたを教えてくれました。
昨日まで隣にいたはずの仲間の体温を感じられないまま僕は肩を落として河川敷を歩いていた
昨日まで日常だったはずの温もりが消え、今日からの冷たく重たい空気が僕を包み込んでいる
これからの日常に僕の存在が冷たく押し潰されそうになる
僕が空を見あげると、僕の目の前にある夕焼けが真っ黒な星空にゆっくりと食べられていくのが見える。
あぁ、僕の心と一緒だ、なんで僕はここにいるんだろう
夜か夕方かも分からない空を見上げながら、昨日までいたはずの仲間の顔が浮かび上がっては消えていく
居場所を捨てたのは僕なのに、どっちつかずの気持ちが真っ暗な空に落ちていく。
空にどんよりとした重い色の雲があり、シトシトと雨が降り続く中、少女の目に色鮮やかに咲いている花が写る。
-ねぇねぇお母さん、なんで、ここの花とあそこの花は色が違うの?
鼻先に咲いている花とすぐそこに咲いている花を見比べながら少女が不思議そうに隣を歩いている母親に訪ねる。
-それはね、土の成分で花の色が変わるのよ。
母親は自分の肩が濡れているのにも関わらず、傘を少女の頭に被せながら答える。
-そうなんだ、近くにあるのに不思議だね。
まるで、家みたいだね。
少女の言葉を聞いた母親がハッとした顔をする。
母親は、少女が家庭内別居中の私達を例えたのだと考えたら胸が苦しくなった。
生活してきた環境が違えば近くにいても性格は違う。
花や葉、それに根にも毒がある紫陽花を見ながら母親が薄気味悪く静かに笑っている。
-パパが待っているから早く帰ろうね。
母親は、小さい雨合羽を来た少女の手を握り、家のある方へ歩き始めた。
嫌いな人や物、事柄を扱う時はエネルギー使う。
表情が穏やかでも、心がボロボロと音を立てて崩れていくことが、胸が締め付けられて上手く息ができずにコポコポと溺れていくのが嫌だ
だから、バレないように、自分が壊れないように仮面を幾重にもつけて、鍵を何重にもして、感情を押し殺す。
そんな自分が嫌いだった。
自分自身が憎くて、情けなくて、恥ずかしい存在で、存在したらいけないんだと思っていた。
毎日、毎日、誰かに殺されることを夢見てた。
でも、それを貴女が許さなかった
貴女の泣きそうな顔を見ることが、涙を見ることが死ぬことよりも辛かった。
だから
私、強くなりましたよ
自分のことが好きになれるように凄く頑張りましたよ。
貴女がいたから、先輩がいたから今の私があります。
初恋は実らなかったけど、それでも貴女のことが今でも好きです。
お礼もちゃんと言えてないけど、先輩、本当にありがとうございました。
たくさんの人が何かに急かされるように右から左へ足早に歩いていく。
誰も僕のことは気にしていない、まるで見えていないかのように、存在していなかのように目も合わせることなく通りすぎていく。
たくさんの人がいるのに一人ぼっちで孤独を感じている。
真上に太陽があるのに僕だけ暗い世界にいるみたいだ。
でも、貴方が、貴女が、僕を見つけてくれた。
手を差し出して、声をかけて暗い場所から連れ出してくれた。
あんなにもこの街が大嫌いで憎かったのに、今では大切な場所に変わっている。
こんなにもこの街が明るいことに気づいた。
貴方に、貴女に、ありがとうって言いたい