こたつにみかん、という様式美があるが、俺はあれにはイマイチぴんとこない。
我が家にはこたつがないし、みかんよりもグレープフルーツが好まれている。
それでも親の本棚にある昔の漫画などからこの様式美を学習した、気がする。
「海里、いらっしゃい!」
正月早々、彼女の家に招かれて、手土産のマドレーヌを渡す段になって、急激な緊張に見舞われた。
愛莉は終業式の帰り道、年明けは「みんないるから」遊びにおいでよ、と誘ってきた。
セオリーと違う。誰もいないから、というのが俺の知っている、つまり漫画の世界の、定石だ。
とはいえ愛莉と付き合い始めて三ヶ月、家の前まで送っていくことはあっても、家族に会ったことはない。
「あ、ここのお菓子おいしいよね!ありがとう!」
愛莉の声が俺を現実に引き戻す。
玄関には靴がざっと五人分並んでいて、俺を怯ませた。
「お母さん、海里来たよ〜」
愛莉の声に押されるようにして靴を脱ぎ、足を踏み入れる。
「おじゃまします、高梨海里です……」
玄関からまっすぐ進んだ先のドアがリビングに続いていて、愛莉は有無を言わさず俺をドアの中に迎え入れた。
明るい部屋だった。
二面に窓があり、窓の間にテレビがあり、その前にはこたつが鎮座していて、しかし誰も入っていなかった。
愛莉の家族は四人。お父さんとお母さんと、お兄さんとお姉さんが一人ずつ。
四人はリビングの奥のダイニングテーブルのあたりから俺の方を伺っていた。
「いらっしゃい」
お兄さんはそう言ってくれたが、警戒されている気がする。
どう出ればよいのか分からず視線で愛莉に助けを求めると、愛莉は苦笑した。
「ごめんね、うちみんな人見知りで……」
「俺もだよ……」
「とりあえず、こたつ入れば?」
愛莉はこたつの掛け布団を捲り上げ、そこに座るように示した。
「ほら、お父さんも!」
「あ、ああ……」
「あ、じゃあ失礼します」
俺が座ると向かいにお父さんが入ってきて、今日一番の緊張をマークした。
「狭くてすまないね」
お父さんは本当にすまなそうな声を出したので、緊張はいくらか和らいだ。
「いえ、こたつってひさしぶりです、うちにはないので」
「そうか、じゃあみかんも食べない?」
お父さんの話しぶりから俺は、この家ではこたつとみかんが密接に結びついているようだなと思った。
「みかんは食べますけど、たくさんは食べないです」
「うちはみんなみかん好きで、一人一箱買うんだよ」
愛莉がみかんを山盛りにしたかごを持ってこたつに入ってきた。
つま先が触れて、慌てて脚を引いた。
「これ私のみかん。分けてあげるね」
「ありがと」
「お父さんも食べていいよ」
「ありがとう」
各々みかんの皮を剥いて食べ始めると、危険はないと判断されたのか、お兄さんとお姉さんも近寄ってきた。
「俺ももらい」
「私も」
「一個だけだよ!最後のはお母さんのだからね」
「あら私にもくれるの?」
「海里がいるから、特別」
いつの間にか取り囲まれた俺は、それでも居心地の悪さは感じなかった。
愛莉は学校でもこうだし、天真爛漫というか、そういうところが好きだなと思う。物静かな家族のムードメーカーなのだろう。
「愛莉ってみかんみたい」
「ええ?どういう意味!?」
「秘密」
俺が小さく笑うと、お父さんが呆れたように微笑んだ。
親御さんの前でいちゃつくのは我ながらどうかと思うが、愛莉が意味を分かっていないのでセーフだろう。
「好きってことでしょ」
お姉さんが淡々と呟いた。
お父さんはやれやれという顔をして、お母さんも含みのある笑顔を深くして、愛莉は顔を赤くしていた。
みかん箱みたいな家族だな。
暖かくて、甘くて。
「うん、俺、みかん好きだから」
大人になったら何になる?
いつからだろう、その問いを避けるようになったのは。
美由紀はぬるいコーヒーをすすった。
道路に面したカフェのカウンター席で、外を人が通るたびに反応してしまう。
待ち人現れず、である。
メッセージには既読がつくのに、返事も来ない。
もう行っちゃおうかな、と思っても性根が優柔不断で決断出来ず、惰性でまだ待っている。
「ごめん、遅れた!」
突然すぎる登場に驚いて水の入ったコップを揺らしてしまい、カウンターが少し濡れた。
息も絶え絶えである。
美由紀がコップを差し出すと、沙織はそれを受け取って三口で空にした。
「電車が遅れてた上に隣駅で降りちゃって、走ってきた」
隣駅までは確かに歩けない距離ではないが、ちょっとした運動にはなっただろう。
「一言返事くれたら良かったのに」
「パニクっちゃって……」
沙織は混乱しやすいタイプで、考えてみればいつもこうだ。
「まあ、いいよ。合流出来たんだし」
「ほんとごめん、ありがと」
沙織は水で濡れた口元を手の甲で拭った。
「時間まであと二十分あるし、もう少しここにいようか」
「そうだね。私もコーヒー頼んでくる」
沙織は中学時代からの友達だ。
あの頃から比べれば背も伸びたし、髪も伸びた。顔立ちも大人になったのに、本質は変わっていないように見える。
それとも美由紀が相手だからだろうか?現に店員さん相手の沙織はテキパキしている。
「お待たせ」
ものの数分で戻ってきた沙織は小さい鞄を膝に置いて隣に座った。
アイスコーヒーには氷が入っていない。沙織のいつも通りのオーダーだ。
「昔さぁ、よく話したよね。大人になったら何になる?って」
「そうだっけ?」
いきなり何?と言われるかと思ったのに。
予想外の反応に美由紀は会話が沙織のペースに巻き取られるのを感じた。
「昔って、どのくらい昔?」
「中学生の時」
「あー、覚えてない」
頷いたかと思うと首を振る。慌ただしい奴だ。
「沙織、聞くたびに違うこと言うから適当だなーと思ってたよ」
「だろうねぇ」
ストローから口を離した沙織は美由紀の方を見た。
「美由紀はずっとフルートやってたいって言ってたもんね」
「何で覚えてんの?」
「いつも同じこと言うから熱心だなーと思ってたんだよ」
沙織は美由紀がカウンターに置いているフルートのケースに目をやった。
「昔より今の方が考えてるかも、未来のこと」
「え、何それ。気になるんだけど」
沙織は身を乗り出す美由紀を受け流して時計を見た。
「映画終わったら話そ」
美由紀はアイスコーヒーを一気に吸い込む沙織に釣られてコーヒーを流し込んだ。
映画館まで走るのは、何だかやけに楽しかった。
はっきりしてほしい。
降るのか、降らないのか。
明は玄関を開けて空を仰ぐとスマホを取り出して天気アプリを開いた。
いかにも雨が降りますよ、というどんよりした雲がかかっていたからだ。
しかし降水確率は40パーセント、曇りのち雨、というのが予報の全部だった。
のちって、何時からだ。
学校に着くまで降らないなら傘は持って行きたくない。
午後の予報は晴れで、28度にもなるという。
だいたい、ここで迷っている時間もない。部活に遅れる。
練習着の入ったナップサックは水を弾かないから、濡れたら重くなる。
明は観念して傘立てから傘を引き抜いた。
「明、おはよー」
「はよ」
徒歩十五分の距離を早足で歩き、校門の前でエリカに出くわした。
「傘持ってきたんだ?降らなかったね」
「こういう時、悔しいよな……」
空はまだどんよりしている。先ほどより空気が冷えてきたような、と思うや否や、頭にぽつりと濡れる感触があった。
「え、やだ、雨!」
エリカは咄嗟に鞄で頭を覆っていたが、雨粒は大きくて、雨脚はあっという間に激しくなった。
夏の雨だ。
明は傘を開いてエリカに差し掛けた。
重さで何となく気付いていたが、間違えて父親の傘を持ってきたようだ。
「大きいから、二人入れるだろ」
「あ、ありがとう」
多感な中学生だ。相合傘で登校、ともなれば冷やかされるのは目に見えている。
しかしこんな大雨、逃れるに越したことはない。
それに、エリカが相手なら噂になっても構わない、というくらいの気持ちはあった。
「んー、なんか、あたし」
鞄を抱きしめて大人しく隣を歩いているエリカは、チラチラとこちらを気にしている。
「明のこと好きかも!」
登校口に到着するタイミングで告げられて、呆然としているうちにエリカは上履きに履き替えて走り去ってしまった。
「かもって何だよ……?」
空は白黒ついたのに、あいまいさだけ残されて、明は天を仰いだ。
雨の日は気が滅入る。
いや、そんなのは定型句だ。
曇りの日も、晴れの日だって俺の気は滅入っているのだ。
教室の窓から外を眺めている。
屋上から運ばれてきた雨水がざばざばとベランダの床に弾ける音がする。
「まだ帰らないのか?」
がら、と音を立ててドアが開いて、隣の席の青木が顔を覗かせた。
「先生、待ってるから」
驚いてぶっきらぼうな返事になってしまったが、青木は気に留めた様子もなかった。
「進路の紙? 職員室に持ってけば?」
手元にある進路希望票は白紙で、青木はそれに気付かない。
「音楽室が雨漏りしたから修理してくるって」
そこまで言うと、俺が用があるのは先生自身だということが分かったらしい。
青木は自分の机の横に掛かっている折り畳み傘を手に取って踵を返した。
「部室棟行こうとしたら傘忘れてんのに気付いてさ」
俺の視線をどう受け止めたのか、青木は恥ずかしそうに言った。
「止まない雨はないって言うだろ」
青木の言葉は突然で、俺はリアクションをしそこねた。
「あれ、ウザいよな」
意外だった。説教でもされるのかと思って身構えたのに。
「な。今降ってることが問題なんだよな」
俺は思わず笑ってしまった。
「先生、そういうこと言いそうだけど、気にすんなよ」
「あー、さんきゅ」
担任は気のいい男だが、一般論にまとめようとする傾向がある。
「じゃあ、部活行くから」
青木は来た時と同じくドアを鳴らして去っていった。
この雨が止むと、信じられるならば幸福だ。
人生にかかる雲、勝ち目のないように思える自分の境遇。
結局、雨と共に生きる決心が出来ないのだ。
いつまでも降り止まない、雨。
理想のあなたは、と問われると返答に詰まる。
私の理想は常に他者であり、理想と言うならば他者に成り替わることになってしまうからだ。
そんなことを望んではいない。
「ねえ、お皿洗っといて」
「自分でやってよ」
かつて私の理想の人間であった四つ年上の姉は、仕事に忙殺されて自堕落を地で行く性格に変貌を遂げてしまった。
キッチンでフォークにスポンジを滑らしていると、姉はおもむろに話しかけてきた。
「これあげる」
薄々、予感というか期待をしていた。今日は私の誕生日なのだ。
「ありがと。でも今は手が濡れてるから」
後にしてくれ、と言うつもりだったのに。
「代わりに開けてあげるね。まあ私が包んだんだけど」
姉は断りもなく包装紙をバリバリと破き始めた。
「何だと思う〜?」
「本?」
「当たり!」
皿を洗う手は止まってしまっているが、蛇口からは水がざあざあと出続けている。
それを、きゅ、と締めて手を拭き向き直る。
これはただの本ではない、という感じがしていた。
「今日古書店街に行ったんだけど、ショーウィンドウに飾られててさ。めっちゃ高かったけど喜ぶかなぁと思って。いらなかったらまた売っていいよ」
そう言って差し出されたのは未開封のフランス装の古書だった。
「え? 私がそれ探してるって言ったことあったっけ?」
感謝よりも先に驚きが出る。
「卒論に書いてたじゃん、この文献があればもう少し深掘りできたかもって」
「読んだの?」
「読んだよ〜」
姉は何でもないことのように言うが、私は嬉しいような恥ずかしいような気持ちで顔が上げられなかった。
「あ、ありがと」
「うん。お誕生日おめでとね」
姉はひらひらと手を振って自室に引っ込んだ。
残された私は小学生の時に書いた作文を思い出していた。
「いつも明るくて優しい、お姉ちゃんみたいな人になりたいです」