♯ささやき
ひそひそと話し声がして、私はびくりと肩を震わせた。
おそるおそる振り返ると、そこにはだれもいない。
「大丈夫……?」
先生の不安そうな声が聞こえた。
私は、はっと顔を前に戻す。先生が気遣うように私を覗き込んでいた。
「はい……」私は自信なさげに目を伏せる。まだ胸がどきどきしていた。
机の上のノート。そこに書かれている数式は、本当なら去年のうちに学んでいたもの。たくさんのクラスメートと一緒に。
ここ――フリースクール――には、私と先生しかいない。いない、はずなのに。
ひそひそと話している。私を嗤っている。蔑んでいる。あの子たちの囁きが、いまでも耳の奥底に固くこびりついている。
私の中から聞こえてくるものなら、逃げ場なんてどこにもない。
♯星明かり
ひとは死んだら星になって、地上を明るく照らしてくれるの。――私たちが迷わないように。
いまはいない母の言葉を反芻しながら、俺はベランダで煙草をくゆらせていた。ゆらゆらと立ちのぼる灰白色の煙が静かに夜空へ溶けていく。
星は見えなかった。街灯、車のライト、ビルの照明……地上から射す人工的な明かりは、星の淡い光などたやすく呑み込んでしまう。空に昇っていった何千、何万、何億という導きなど、もうこの国には必要ないとばかりに。
星はただのガスの塊で、輝くのは核融合をしているからだ――母の言葉にそう返しそうになったけど、俺はぐっとこらえた。父のことを思い出して涙ぐんでいた母。それでも、俺の胸に小さな灯をともしてくれた言葉。その小さな灯は、いまも心のすみっこで、俺の胸を暖めている。
ちらりと後ろを振り返る。生まれたばかりの幼い命は、妻の腕に抱かれてすやすやと眠っていた。
――あの子が大きくなったそのとき、はたして星は見えているだろうか。
どうか見えていてほしい――と、俺は心から祈った。
♯影絵
幽霊の正体見たり枯れ尾花。怖い怖いと思っていると、なんでもないものまで恐ろしいものに見えてしまう。
だから、これも――。
1DKのアパートの一室。つむじ辺りに焼きつくような視線を感じ、私はこわごわと頭上を見上げた。
人の形をした黒い影が、白い天井にうっすらと染みついている。火に巻かれ、もがき苦しんでいるようにも見えるその影画は、床に座り込んでいる私を無言で見下ろしていた。
♯物語の始まり
三年間机を並べた同級生たちと別れ、僕は幼なじみと一緒に駅へ向かう。麗らかな陽射しの下、春の柔らかい風が無人のホームに吹き渡っていた。
「……なんかさあ」
線路に目を落としながら、幼なじみがぽつりと呟く。
「高校に入ったときは、ここから始まるんだって予感があったんだけどなあ」
「なにが?」
「僕だけの壮大な物語だよ」
僕は思わず失笑してしまった。
「なんだい、それ」
幼なじみはニコリともせず、
「わかんねえ。だって始まらなかったし」
そうぶっきらぼうに言った。
僕はこれまでの三年間を振り返る。事件にも事故にも巻き込まれなかった。勉強にも部活にもつまずかなかった。ちなみに彼女もできなかった。『ないない』づくしだ。それが、この幼なじみにはつまらなかったらしい。
――でも、それこそが、平和ってコトなんじゃないかな。
変わらない日常は、本当ならそう簡単には得られないものだ。
けどそう口にしたところで、頷いてもらえないのはわかっている。だから僕は鳥の啼き声に乗せて謳うように言う。
「これから始まるのかもしれない」
次の瞬間、幼なじみは聞いているこっちが憂鬱になるほどの長い長いため息を吐いた。じろりと恨みがましい目を向けてくる。
「君さあ、小学校を卒業したときもそう言ったし、中学校を卒業したときもそう言ったよなあ?」
「逆に言うとそっちも同じことを言ってるってことだよ」
幼なじみは図星をつかれたような顔をすると、ふいっと視線を逸らして、小さく舌打ちをする。
「……きっと、君がいるから僕の物語がいつまでも始まらないんだ」
「……なら、ここから向こう四年間は始まらないね」
と、僕は安堵の笑みを返した。
♯静かな情熱
何事もほどほどに無理せずやるのがいい。
次から次へと薪をくべたら、それはもう火は激しく燃え上がるけど、そのぶん燃え尽きちゃうスピードも速いし、予想もしない方向にまで燃え広がっちゃうこともあるから。
来る日も来る日もSNSで熱狂的に推しを語っていた君。「あの子のこと好きじゃないんだろ」なんて文句を垂れていたけど、ある日突然ほかの子を推すようになった君には言われたくないなあ。
ぼくはぼくのペースで薪をくべて、ひとりで静かに燃えているだけさ。熱しやすく冷めやすいファンよりも、長く穏やかに推してくれるファンのほうがいちばんだろ?