♯遠くの声
遠かったからこそ、僕は彼の声に耳を貸さなかった。
結果があれば原因があるように、彼が声を上げたのにも必ず理由があったのに。
あの背中の痛み、お腹の張り……たしかな不調のサインを、僕は日々の忙しさにかこつけて、気のせいだと決めつけてしまった。
――あのとき、ちゃんと耳を傾けていたら。
病院のまっさらな天井を見上げながら、思う。
遠かったはずの彼の声は、いまや身体中にがんがんと響きわたるほど近くなっている。
胃の奥の奥で苦しみを訴える彼を労るように、僕はそっとお腹を撫でた。
♯春恋
私はあなたに恋をしました。
あなたの眩しい笑顔。沁みるような優しさ。そのすべてが、私にとって生命そのものでした。
つぼみがふくらんで、大輪の花を咲かせようとした頃――私の恋は花開くことなく、冷たく枯れしぼんでいきました。
だって、あなたはとても汗っかきで。その滲み出した汗がとても臭くて。にちゃにちゃねばねばしていて。まるで体育館の床を拭いた後の雑巾みたいで。あなたの笑顔も優しさも途端に穢らわしいものになってしまいましたから。
これはきっと、春ゆえに許された恋だったのです。
♯未来図
これまでの人生を振り返ると、黒く塗り潰され、破り捨てられた未来図の残骸ばかり散らばっている。
十枚、二十枚、三十枚――そこに今日、新しく一枚加わった。
定年まで勤めあげるはずの会社から、人件費の削減を理由に退職を勧告された。転職も望めないような、こんな年齢になって。
――また一から描かなきゃいけないのか。
どうせ描いたところで、また――。
だらりと天井を見上げる。
両親が亡くなり妻と子も去った、からっぽの家。
死んだような静寂の中で、俺はぶら下がってもビクともしないような太い鴨居をじっと見つめていた。
♯ひとひら
ひとひらの花びらが君の髪にそっと舞い降りた。
けど、すぐ風にさらわれて飛んでいく。
ぼくは行き場のなくなった手を静かに下ろした。
♯風景
私は今、スマホを見つめている。フォルダには彼氏と撮った思い出の写真が何十枚も並んでいた。満面の笑みを浮かべた彼氏と、作り笑いで顔を強ばらせる私。
子どもの頃から写真を撮られるのが嫌だった。写真に写っている私を見るのが、見られるのが、とても嫌だった。写真の中の私はいつもよりなんだかブサイクだ。野暮ったそうで。愚鈍そうで。浮腫んでいる。
それでも三年間、写真を撮り続けてきたのは、彼氏に嫌われたくなかったから。私をもっと好きになってほしかったから。ようするにご機嫌取りだ。
いちばんブサイクになる瞬間を切り取られても、スマホの中に無理やり詰め込まれても、我慢して、我慢して、我慢して――なのに、結局フラれてしまった。
全部の写真にチェックをいれた後、私は削除しようとして――ふと、思いとどまる。
そういえば写真から特定の人物のみを消せるアプリがあるという。いかにもSNSが発展した現代らしいツールだ。
私はさっそくアプリをインストールし、作業に取りかかった。
消しゴムをかけるように、風景の中から彼氏を消していく。
反対に、私の胸に巣食っていた穴が少しずつ埋まっていく。
……別れ話になったとき、私はおとなしく従うしかなかった。子どもの頃からケンカと縁のなかった私には、怒って暴れるなんて発想もなかったし、実行できる意気地もなかった。
――これが、私のささやかな復讐。
風景の中で、私ひとりだけが、ぎこちなく笑っていた。