♯好きだよ
「私、しいたけ嫌いなの」
「ふうん、僕は好きだけど」
「このドラマ、嫌いなんだよね」
「へえ、僕は好きだけどな」
「あーあ、雨なんて嫌になっちゃう」
「そう? 僕は好きだけどね」
大粒の雨が激しく窓を叩きつけている。あたふたと逃げまどう人たちを横目に、僕らはカフェでくつろいでいた。
彼女は窓から僕へ視線を移し、ぷうと子どもみたいに頬を膨らませる。
「私たちって、ほんと合わない」
「うん、それは言えてるね」
僕は首肯いて、コーヒーを一口含んだ。ほどよい苦味と明るい酸味がまろやかに舌の上を撫でていく。
「――でも」
カップを置いて、僕は優しく眉尻を下げた。
「そんな君も、僕は好きだよ」
コーヒー嫌いの彼女はいかにも忌まわしそうな顔をしていたけれど、
「……知ってる」
と、悔しげに呟いて、口直しというようにオレンジジュースを飲んだ。
♯桜
「私、桜になりたいんだ」
桜の樹の下で、彼女はそう言った。
今を盛りと咲き乱れる花ではなく、その根元――申し訳程度に生えた雑草を見下ろして。
私は疑問を覚えるも、それを呑みこんで、「なれるよ」と力強く応えた。傷だらけの彼女の手を取って、ぎゅっと握り締める。それが、今の私にできるせいいっぱい。
「だって、あなたの名前は『桜』なんだから」
――氷が溶けたら春になる。
今がどれほど辛くても、耐えて耐えて耐え抜いたその先で、彼女はだれもが目を奪われるような美しい花を咲かせるだろう。
彼女の白い頰にみるみる赤みが差していく。ありがとう――と、目にうっすらと涙を溜めて、彼女は微笑んだ。
「私、かならず咲いてみせるから……だから、その日まで待ってて」
……桜の樹の根は土中で浅く広がり、地表近くの水分や養分を吸収するという。だから桜の樹の下では植物が育ちにくい。そう、つまり彼女は奪われる側ではなく、奪う側を選んだのだ。
「なれないよ」
あのとき私が否定していたら、彼女は毒婦と人々から罵られることも裁かれることもなかったかもしれない。
……後悔しても、もう遅い。
花びらをむしられ枝を折られた『桜』は、もう二度と実を結ぶことはないのだ。
♯君と
気づいたときには公園を出ていた。
あれ? いつのまに?
困惑して立ち尽くす僕をよそに、「どうしたの?」と君はこてんと首を傾げる。ゆるやかに波を打つ髪がふんわりと揺れた。
いや何でもないよと、僕は動揺を押し込めて笑顔を作る。
好きな人と一緒にいると、時間が短く感じるという。
なるほど、これは早い――僕は照れ臭さを覚えながら、白磁のようにすべらかな君の手をそっと握った。
さあ、次は映画館だ。
……………………。
………………。
…………。
……ん?
僕は目を瞬かせる。
気づいたときには映画館を出ていた。
あれ? いつのまに?
愕然とする僕の隣で、「どうしたの?」と君は女神のように優しく微笑んでいる。
なんだか君といると、あっという間に時間が過ぎるんだ。
半ば混乱しながら僕は話す。比喩でもなんでもなかった。
君は含羞むわけでもなく。戸惑うわけでもなく。怪しむわけでもなく。くりくりとした目に興味深そうな光を宿して、
「だったら、どうするの?」
♯空に向かって
ソラが死んだ。
十九歳。猫の平均寿命が十六歳だと考えると大往生である。
おれが生まれる前からソラはいた。いつでも優しく寄り添い、温かく見守ってくれた――おれにとっての兄であり、いちばんの友人。
そのかけがえのない存在がたった今、ワンボックスカーに積まれた焼却炉の中で、早急に焼かれようとしていた。骨だけを残して。
父は苦しげに顔を歪ませ、母はハンカチで目許を押さえている。おれはソラを永遠に失った哀しみと、おれを独りにしたソラへの怒りで、ただただ呆然としていた。
そのときだ。陽だまりの香り――ソラの匂いが、ふと鼻をかすめた。
元を辿るようにおれは空を見上げる。
白い煙がルーフからゆらゆらと立ちのぼっていた。真っ青な空に向かって溶けこむように消えていく。
――ソラだ。
瞬間的に理解する。
ソラがいってしまう――。
ソラの葬儀を引き受けたこの会社は、最新設備と無煙無臭を看板に掲げている。だからこそ両親はこの会社を選んだ。けど周辺にただようソラの匂いと、ルーフから上がる白い煙に気づいている様子はない。
――おれしか視えていない。
もう十六歳だ。常識も分別もある。『あれ』がソラだなんて手放しで信じられるワケがない。おれの弱った心が見せる幻想に決まっている。
――ルーフにのぼって掻き集める……なんて、するワケがない。できるワケがない。
それでも――。
おれは思いきり息を吸いこんだ。そしてコクリと飲みこむ。それを何度も何度も繰り返す。
この胸に空いた穴を埋めるために。
おれを置いていったソラを罰するために。
ソラはおれと一緒に生き続ける。これからもずっと。空には還らせてやらない。
♯はじめまして
卓上ミラーに向かって化粧をする彼女を、おれは後ろから何となく眺めていた。
鏡に映る顔がみるみる明るく華やいでいく。まるで魔法がかけられていくように。
一週間に一度。彼女はだれかの彼女になる。
「なに? そんな珍しくもないでしょ?」
彼女は手を止めて、鏡の中のおれにむっつりとした顔を向ける。
「相変わらずよく化けるなあと思ってさ」
「人を妖怪みたいに言わないで」
眉を少し吊り上げてから、
「でも、あながち間違いじゃないかもね」
女にとって化粧は変身魔法なんだから。
彼女は取り澄ますようにそう言った。
身に沁みてるよとおれは苦笑いする。彼女が変身するところを飽きるくらい見てきたのだから。
「で? 今日はどんな子?」
「『パパ大好きっ子なアイドル志望の女子高生』
「ピンポイントだな」
「直々のご希望なの」
「名前は?」
「ミユキ」
はじめましてミユキちゃんとからかったら、彼女は少し考える素振りを見せた後、何も聞こえなかったかのように再び手を動かした。