#君と見た景色
十日前、昔の友達が自殺した。
私は今、とある橋の上に立っている。
まわりを木々に囲まれた石造りのアーチ橋。そのすぐ下を、川幅の広い川が流れている。昨夜の大雨のせいだろう水位は高く、水は底が見えないほど茶色く濁っていた。橋と川の間は約二十メートル。転落したら、ほぼ助からない。
現に、彼女は水面に全身を強く打ちつけて即死したと考えられている。
死体は下流で発見された。目撃者の証言と、ここ一週間ほど思い詰めた様子を見せていたことから、事件性はなく自殺と断定された。
彼女の死を知ったとき、私は瞬間的に自殺だと思った。
私と彼女にとって、ここは思い出深い場所だった。
あの頃の私には夢も希望もなかった。死にたいワケでもなく、かといって生きたいワケでもない。うっかり足を滑らせてダンプカーの前に飛びだしても、頭上からいきなり鉄骨が落ちてきても、自分の悲運を嘆いたりしない――そんな、うっすらとした死への憧れを抱いていた。
彼女も同じだった。だからこそ仲良くなれたのだろう。
『いつか、ここでいっしょに死のう』
『私があなたの、あなたが私の背を押すの』
『そうすれば、死ねるでしょ?』
――けど、進学をきっかけに少しずつ疎遠になり、つい最近まで彼女のことを忘れていた。
とあるネットニュースで、久しぶりに彼女の名前を見かけた。あっさりとしたタイトルの小さな小さな記事。
私は手すりに手をかけ、ほんの少し身を乗りだし、下を覗きこむ。
そこには、いつか彼女と見た景色が広がっていた。
――これを、あの子は最期ひとりぼっちで見ていた。
「……悪いのは、そっちなんだから」
私は欄干の上から体を引き、そう言った。
彼女を記憶のすみっこに追いやった私でもなく、生きる意志が芽生えた私でもない、約束を破ってひとりで死んでいった――彼女こそ悪いのだ。
なのに、私の目からは熱い涙がこぼれていた。
#手を繋いで
だれかが私の手を握ってくるんです。子どものときから。
あっ、毎日じゃないですよ。ときどき。思い出したみたいに。
……どんなとき? えーと、見えないところに手を入れたときとか…… たとえばコタツに手を入れたら、自分の手が見えなくなるじゃないですか。そういう状況のときだと思ってもらえたら。
だから私、だれの手なのかわからないんです。確かめようとしたらすぐに引っ込んじゃうし……それに、その人たちの手もスベスベしてたりゴツゴツしてたり、冷たかったり温かかったり、小さかったり大きかったりいろいろで、人物像がいまいち思い浮かばないっていうか……え? 『その人たち』? あっ、はい、握ってくる人はいつも一人なんです。それも右手。そこまで力は強くなくて……うーん、握る、っていうより、包みこむ、って言葉のほうが正しいのかも。
たくさんいるんです。私と手を繋ぎたい人。
もちろん、初めは怖かったですよ。でも繋ぐ以外にナニかされたことなんてないから、いつのまにか慣れちゃって。今でも急にこられたらビックリしちゃいますけど。
………………。
…………。
……だから、こんなことになっちゃって、残念です。
ペットが死んじゃったときとか、
彼氏にフラれたときとか、
君はひとりじゃないよ。って励ましてくれている、そんな気がしたから。
……なのに、私の左手、なくなっちゃいました。
私の不注意なんです。気をつけていたつもりなのに。私、ハンドルの下のほうを握るクセがあるんです。そうすると視界に手が入らなくなるでしょう? それでハンドルを切り損ねちゃって……。
でも、今まで運転中に握ってきたことなんてなかったのになぁ。
#どこ?
コール音がぷつりと途切れる。
「なあ、今どこにいるんだよ?」
開口一番、おれは姉ちゃんに尋ねた。
キッチンでは母さんが夕飯の準備をしている。午後七時。部活ならとっくに終わっている時間だ。
「今日は鍋だから、母さんが早く帰ってこいってさ」
姉ちゃんのことだ、いつもみたいに友達とおしゃべりしているに違いない。おあずけを食らう身にもなってほしいものだ。
「…………?」
そこで、おれは首を傾げた。受話口の向こうからは何の声も返ってこない。聞こえてくるのは抑えたような息遣いだけ。
「姉ちゃん?」
一度スマホを下ろし、ディスプレイを見る。ちゃんと姉ちゃんの名前になっている。……それなら、どうして、何も答えないのだろう?
再びスマホを耳に押し当てる。受話口の向こうは不気味なほど静まり返っていた。押し殺すような呼吸が耳の細かな産毛をちりちりと逆立てる。
「おい、悪ふざけはやめろよ」
呆れ半分、怒り半分でそう言ったときだ。
「ただいま~」
突然、リビングのドアが開いた。
「ごめーん、遅くなっちゃった」
きまり悪げに笑いながら、姉ちゃんが母さんに謝っている。その手には学生鞄と——スマホが握られていた。
おれの耳には、だれかの吐息が聞こえ続けていた。
#大好き
「おいし~! シュークリーム大好き~!」
両手に大事に大事に包んだシュークリーム。クリームがこぼれないように慎重にかぶりつき、もぐもぐと口を動かして、ごくりと呑みこんでから、「さいこ~!」と高らかに叫ぶ。
喜びを噛み締める彼女の横顔を、ぼくは苦々しい思いで見つめていた。
一週間前は何とかというミュージシャンのライブに付き合って。
三日前は何がおもしろいのかわからないマンガを買って貸して。
今日はコンビニに立ち寄って、少しお高めのスイーツをおごってやった。
ぜんぶ彼女の『大好き』なものだ。けど『大好き』なものを与え続けるぼくに、『大好き』を与えてくれたことは一度もない。
彼女のいちばんの『大好き』をプレゼントできたら、もしかしたら……?
思い当たる人物が、ひとりだけ。
『大好き』なあの人の隣で食べる『大好き』なシュークリームのほうが、もっともっとおいしい。
――でも、
ぼくは手の中のシュークリームを見つめ、小さくかじる。クリームのとろけるような甘さとなめらかな舌触り。けど、ざらついた心を融かすにはまったく足りなかった。
……彼女のいちばんの『大好き』だけは、どうやら与えてやれそうにない。
#叶わぬ夢
私は明日、地元を発つ。小さい頃から抱き続けた夢を叶えるために。
病院へ赴き、しばらく会えなくなるだろう幼馴染みの病室を訪ねる。
彼女は先天性の心疾患を持っていた。高校に入ってからも長期入院を繰り返し、ついに友達を作れないまま卒業を迎えた。人並みの生活を送れない、人並みの夢も語れない、かわいそうな子。
「――必ず、会いにいくよ」
今にも折れそうな彼女の手に手を添え、声に力を込める。
簡単に行き来できる距離じゃない。それでも、私は宣言する。医師として彼女を治してやれないなら、友人として彼女の心の支えになろう。そう心に決めたのだから。
彼女は見開いていた目を和ませ、くしゃりと微笑った。今にも泣き出しそうな、いたいけな笑顔だった。ベッド脇の棚を見やり、そこに置かれたクロッキー帳を引き寄せる。絵を描くこと――それが、彼女の唯一の趣味。恒例の披露会。
私は彼女の絵が好きだ。幸せとは言えない身の上でありながら、それでも温かく優しい絵を描き続ける彼女という人が好き。
ほっそりとした白い指が最後のページを開く。
そこには、光と躍動に満ちた彼女の世界が広がっていた。
「……タイトルはないの」
彼女の言葉に、私は右下を見る。たしかに何も書かれていない。
「まだ決めてないってこと?」
「本当はあったんだけど……」彼女は語尾を濁し、控えめに微笑う。「決めるのは、もう少し先でもいいかなって」
そっかと答えて、私はクロッキー帳に目を戻す。
綿飴がぽっかりと浮かんだ空の下、二人の女の子が青々と生い茂った草原を駆けていた。彼女たちを遮るものはなく、小さな手と手を繋いで走り続ける。――二人一緒なら、どこまでも行けるというように。