つくづく美しいひとである。
教室の窓のすき間から流れ込んだ風に、つややかな黒がさらさら靡く。細い前髪の隙間からのぞく目もとは、甚く涼しげだ。長い睫毛が、透き通るほど色白い頬の上に、微かな影を落としている。
伏せられていた視線が、ふいに持ち上がった。ついドキリとして、息を呑む。冴えた月を閉じ込めたような双眸が、ファインダー越しに僕を射抜いた。
「撮れた?」
そう問いかけられて、数秒間固まっていた僕は、はっと我に返った。
「う、うん。すごくいいのが撮れた」
「そっか。よかった」
「ありがとう、瀬川くん」
僕は慌てて頭を下げた。瀬川くんは薄く笑って「どういたしまして」と言った。あ、今の顔も撮りたい、と思ったけれど、さんざん撮影会につき合ってもらった手前、これ以上お願いするのも忍びない。
「あ、そ、そうだ。これ」
僕は机に置いていた鞄の中から、購買で買ったお菓子を取り出して、瀬川くんに差し出した。
「撮らせてもらったお礼です。よかったら」
「…………」
瀬川くんは、僕の差し出したコアラのマーチの箱をまじまじと見つめている。何も言わずにただ見ているから、だんだん不安になってきた。
もしかして、コアラのマーチ嫌いだったかな。どうしよう。特に親しいわけでもないくせに、突然被写体になってほしいだなんて頼んだあげく、お菓子のチョイスを間違える。僕はなんて失礼なやつだろう。
泣きそうになっていたら、瀬川くんはふいに「よくわかったね」と言った。
「えっ?」
「俺の一番好きなお菓子、コアラのマーチなんだ」
「え、そ、そうなんだ……」
「うん」
瀬川くんは嬉しそうに笑った。さっきの微笑みとは違う、無邪気な笑い方。こんな顔もできるんだ、と思った。
「食べる前に絵柄を予想するのが趣味なんだ。的中したことは一度もないけど」
「そ、そうなんだ」
そんな趣味があったんだ。大人びたイメージを持っていたから、なんだか意外だ。
ともあれ、お菓子選びは失敗していなかったようで、心底ほっとした。
「ありがとう。家に帰って食べるね」
瀬川くんは、僕からコアラのマーチを受け取って、大事そうに胸に抱えた。
「文化祭、楽しみだね。写真部の展示見に行くよ」
「うん、ありがとう。瀬川くんは何部なんだっけ?」
「園芸部だよ」
瀬川くん、園芸部なんだ。たしかに瀬川くんは植物が似合いそうだ。瀬川くんと花。写真に撮ったら、きっとすごく綺麗だろう。
「文化祭は育てた花の展示をするんだ」
「そうなんだ。見に行くね」
「うん、ぜひ。ポチも喜ぶよ」
「ポチ?」
「あ、俺が育ててるチューリップの名前」
チューリップの名前、ポチなんだ。
それにしても、コアラのマーチが好きだったり、花に名前をつけたり、瀬川くんってなんだか、かわいいひとだ。
写真を撮らせてくださいと声をかけなかったら、きっと知らないままだった。ただ遠巻きに、その美しい横顔を眺めているだけだった。
勇気を出して、よかった。さっき撮った写真が宝物のように思えて、手の中のカメラをそっと撫でた。
【テーマ:美しい】
「この世界は狂ってる」
机に突っ伏した男は、恨めしげな声でそう言った。絵に描いたような絶望ぶりである。
なんでもこいつは、つき合って1年の記念日当日に、彼女に振られたという。夜景の見えるレストランを予約し、プレゼントも買った。そうして、当日は完璧なデートプランを遂行するはずだった。けれども待ち合わせ場所に彼女は来ず、代わりに送られてきたのは『ごめん。他に好きな人できたから別れたい』という、たった二行のメッセージ。
そんな仕打ちを受けたのだから、こう荒むのもまあ無理もない。
「おいお前、そろそろ終電なんだけどなあー、みたいな顔してんなぁ」
男は顔を上げて、じろりと俺を睨んだ。すっかり目が据わっている。
「そんな顔してないけど」
「いいやしてるね。もー全部顔に出ちゃってる。どーせお前もおれのこと捨てるつもりなんだろ? おれにはわかる!」
「……お前ちょっと飲みすぎ。そのへんにしとけ」
俺は酔っぱらいの手から缶を取り上げた。酔っぱらいは小さく唸ると、ふたたび机に突っ伏した。脱力したまま、まだムニャムニャ何か言っている。
俺はため息をついて立ち上がった。キッチンの棚から引っ張り出してきたゴミ袋に空き缶を放り込んでいく。机の上に散らばったつまみのゴミや、酔っぱらいメンヘラ男が涙と鼻水を拭くのに使ったティッシュもまとめて片付けてやる。当の本人は机に伏したまま、いつの間にか寝息を立てていた。
こいつが女に振られて泣きついてくるのは、これが初めてじゃない。こいつは失恋するたびに、情けないくらい咽び泣きながら、聞いてもいない彼女への未練やら何やらを延々と俺に話し続ける。
俺はいい加減うんざりしていた。それは、この女々しい酔っぱらいに対してじゃない。自分に対してだ。
どこぞの女との惚気話を聞かされるたび、ほの暗い感情が胸の内で渦を巻く。手ひどく振られてしまえばいいのに。そうすればこいつは、一番に俺に泣きついてくるから。
そのたびに、俺はちょっと迷惑なそぶりを見せながら、そばにいてやるのだ。落ち込んでいる幼馴染を放っておけない、優しい友人のふりをして。
拗らせた執着を、いつまでも手放せずにいる。
【テーマ(?):この世界は】
「どうして空は青いの?」
こちらを見上げる、まるくて大きな両目は、きらきら輝いている。大人はなんでも知っていると信じて疑わないような、期待に満ちた視線が肌に痛い。
繋いだ手にうっすら汗が滲むのを感じながら、俺は今さら後悔した。授業なんてそっちのけで、ひたすら消しカスでねりけしを作ることに精を出していた学生時代を。もっとちゃんと勉強してれば良かった。中学の、理科の高柳先生はなんて言ってたっけ。だめだ、あだ名がタカヤンだったことしか思い出せない。
だけど、いたいけな姪っ子の曇りなき眼を前にして「知らない」とも言えないし、だからといって嘘を教えるわけにもいかない。
「あー、ゆいちゃんはどうしてだと思う?」
苦し紛れにそう問いかけたら、大人の愚かなプライドを見透かされたのだろうか、ゆいちゃんの目から、とたんに光がすっと消えた。「おじさん」と、諭すような声音で呼ばれる。
「質問に質問でかえすのはだめなんだよ」
「あ、はい……」
普通に怒られた。
【テーマ:どうして】
目を覚ました。カーテンの隙間から射しこむ朝の光にちょっと顔をしかめる。
枕元のデジタル時計は、午前7時40分を示していた。重たい瞼をこすりながら、まだ意識のおぼつかない頭で考える。仕事は休み。出かける予定も特にないし、二度寝してもいい。
けれども、さっきから室内に漂う甘美な香りを無視できない程度には腹が減っている。頭のなかの天秤が睡眠欲より食欲のほうに傾いたので、俺は上体をのそりと起こした。
ベッドから這い出して、フローリングに降り立つ。足裏にひやりとした感触が伝わって、早くもシーツに残った温もりが恋しくなった。
自室を出てキッチンをのぞくと、同居人と目が合った。寝起きの掠れ声で「おはよ」と言ったら、同じようなトーンの「おはよ」が返ってきた。
キッチンを満たす、パンの焼ける匂い。同居人は真剣なまなざしで、トースターの中の食パンの焼き加減を見極めている。
「もういいんじゃね?」という俺に、同居人はパンを凝視したまま「もうちょい」と答えた。
俺はなんとなく手を伸ばして、そのほっぺたをつまんだ。トースターをのぞきこんでいたせいか、ほんのりあたたかい。同居人は不思議そうな顔でこちらを見たが、特に抵抗することもなく、黙って頬をむにむにされ続けている。
トーストの匂いと、指先の体温。何でもない朝が、このままずっと続けばいい。そんなことをぼんやり思っていたら、トースターがチーンと鳴った。
【テーマ:ずっとこのまま】
ベッドの中でうとうとしていたら、突然チャイムが鳴った。心地良いまどろみの淵にあった意識が、急速に浮上する。
スマホを見ると、時刻は0時ぴったりだ。こんな夜中に訪ねてくる非常識な奴といえば、思い当たるのは一人しかいない。
バイトで疲れていたし、無視を決め込むことにした。もう一度ピンポーンと鳴ったが、気にせず目を閉じる。少し間をおいて、再びピンポン。ピンポン。ピピンポン。ピピンポンピンポーン。
さすがに飛び起きた。玄関まで飛んでいき、苛立ちまじりにドアを開ける。そこに立っていたのは案の定見慣れた顔だった。
「あ、やっぱり起きてた」
「起こされたんだよお前に」
俺が食い気味に言うと、男はにこやかに「ごめんごめん」と言った。悪びれている気配はまったくない。
「何しに来た?」
「祝いに来た」
「は?」
「誕生日」
おめでとう、と満面の笑みを向けてくるのが不気味だった。この男とは10年来の腐れ縁ではあるけれど、毎年の誕生日を祝い合ったりしない。それがいったいどういう風の吹きまわしだ。
「急になに、誕生日って」
「いやあ、記念すべきハタチの誕生日だし、せっかくなら一番に祝いたいと思って」
「なんだそれ。気持ち悪」
「酒買ってきたからさ、家上げてよ」
言いながらコンビニ袋を突き出してくる。しぶしぶ受け取って中を見ると、缶ビール数本と、カップのアイスがふたつ入っている。
「あ、それ期間限定の味。おまえ好きそうだなーと思って買ってきたやつ」
「…………」
「一緒に食べよ。そんで朝まで楽しく」
「お前、彼女に追い出されただろ」
「………………」
図星を突かれたようで、眼前の男はフリーズした。ようやく点と点が繋がって納得する。
こいつは彼女と同棲している。おおかた喧嘩でもして追い出されたから、ほとぼりが冷めるまで誕生日を建前にして、俺の家に居座るつもりなんだろう。
「一番に祝いたいとか、よく言えたな」
「いやそれは本心。本心だから泊めて」
「嘘つけよ」
「なあ、俺たち親友だろ? お前は親友をこの寒空の下に放り出すのか?」
わざとらしい上目遣いでこちらを見てくる。1ミリもかわいくない。
「ピスタチオ味はお前にあげるから。まじで頼む」
「片方は食おうとしてんじゃねえよ」
「わかった。両方あげるから今日だけ泊めて」
「…………」
必死すぎて、もはや哀れに思えてきた。
それにしても小賢しい男だ。俺がピスタチオ味のスイーツに目がないことを知ったうえで、この交渉を持ちかけてきている。
俺は盛大にため息をついてから、仕方なく「今日だけな」と言った。幼馴染はあからさまに表情を明るくして、さっそく玄関に上がり込んでくる。
「さすが親友! 20歳おめでとう!」
「とってつけたみたいに言うな」
「これからもよろしくな親友!」
「俺はよろしくしたくない」
とか言いながら、なんだかんだでこの男とこの年までよろしくやり続けている俺も俺だ。
とはいえ、ピスタチオに免じて、とりあえず今日のところは大人しく祝われてやることにした。
【テーマ:20歳】