あの日は、よく晴れた春の日だった。
「って言い方だと、桜舞い散る入学式〜! なんて思われたりするんだろうなあ」
実際まあ悪い思い出ではない。悪くはないというだけ。入学式も二年目もとうに過ぎ去り、進路を本格的に決定した頃の出来事だったのである。しかもほんの数日前に起こった。
ハァ〜ア、と大きな息を吐き出し、教室にある自分の椅子から腰を上げる。がらんとしたロッカーを尻目に、スクールバッグを肩に歩き出した。吹奏楽部も昼休憩のようだ。廊下まで響く音がまばらになっている。
「休日授業サボりたかったぁ」
サボれなかった理由は明白。これでも進学校なことと、あの人がまじめに登校して来ているから。自分にこんな殊勝な面があったなんて驚きだ。高校生活三年目にしての新事実である。
『え、これ田部さんがやってくれてたの』
新しいクラスになって二週間ほど。担任の趣味で新しい花が生けられる花瓶の水を、ほかの子が触る気配がなかった。仕方ない。家で弟妹の散らかしを片付けるのと似たようなものだ。
放課後のHRが終わって、各々の部活に散った教室はなんだか居心地がいい。ぼうっと外を眺めつつ花瓶を手に廊下へ。前の水を捨て蛇口から新しい水を入れる。軽快な音とともにハンドルを締め戻ろうとした時だ。素っ頓狂な声が聞こえてくる。
『えっ』
あとはご想像どおり、気付いてくれた意外に優しい彼にときめいてしまって。初恋なるものをこんなタイミングで知った。もっと早く来いよとしか思えない。
「……帰ろ」
あわよくば、彼にバッタリ昇降口で会わないだろうか。帰りに寄った文房具屋やカフェで隣に座らないだろうか。心浮き立つような感覚を抑えようとしても、期待してしまうのは止められず。
本当に、彼への気持ちに気づいた日がもっと早ければなあと思ってならない。
「はなのがくえん……」
大事に大事に取っておいた合格通知を、鞄の中から取り出して見る。学校名を読み上げ、目線を前へ。青い空の下で光っている立派な門扉に、輝かんばかりの校舎! 極め付けは至る所に飾られている花々だ。この学校のトレードマークだからである。
笑顔で隣をすれ違ってゆく制服の生徒たちはわたしと同年代だろう。胸躍って、思わず全員に挨拶してしまいそうだ。
改めて、これから三年間を過ごす事になる高校に思いを馳せる。華乃学園。中高一貫のエスカレーター式で、卒業生は皆輝かしい経歴を残しているらしい。ああ。一体わたしはどんな学校生活を送れるのだろう。
「よし、張り切って行こ───」
まずは第一歩。大きく踏み出した瞬間、急にぶつかってきた誰かによりバランスが大きく崩れた。
ドシン! 真新しい制服が地面と擦れる。
ここの制服かわいいのに、なんて事を。内心ムッとしながら相手の顔を見てやろうと頭を上げる。すると、その前に手が差し出された。
「痛かったよね。考え事してて前見てなくて……ごめんね」
あまりにも美しい人だった。咲き誇る花が人としてかたちを変えたらこんな風になるだろう。そう思わされる美貌。朝露に透けた花びらのような肌は羨ましいばかりである。
「あ、だ、大丈夫、です」
「良かったら使って。お名前、聞いてもいい?」
レースで縁取られたハンカチには皺一つない。使うこと自体気が引けてしまいそうなので、丁寧に申し出を辞退する。気遣うようにハンカチをしまい込んだ目の前の人が口を動かすのを、惚けて見守る。
え、もしかしてわたしに話しかけてる? お母さんどうしよう。すごく綺麗な人に、あろうことかお名前を聞かれてしまいました。家で入学式に向かう準備をしているであろう母にテレパシーを送った。たぶん受信できてないだろうな。
「……花」
ようやく答えようと声を出した。緊張して、小さくなってしまったというのに、しっかり聞き取ってくれていたらしい。美しいひとが微笑んだ。
「よろしくね、花さん。僕の名前は、カノ」
僕。え、と思い咄嗟に相手の制服をまじまじ見た。さっきまで顔しか見てなかったから気付かなかったけど、もしかして女の子じゃなくて。男の子なの。
何も知らないカノ、華乃くんとわたしが過ごす楽園生活は、また少し先の話。
「とわちゃん」
幼馴染の男の子がわたしをよぶ声を、今もはっきりと思い出せる。小さい子ども特有の舌ったらずな喋り方。ひらがなの"た"行の発音が得意じゃなくて、さしすせその"そ"になってしまっていた。
三つになる前から遊んでいたし、幼稚園に入った頃にはすでに仲良し。お互いにその先もずうっと一緒にいると疑いなく信じていた。虫取りだってかけっこだってあなたがいなくちゃ始まらない。
「……はよ」
お家が二軒隣というのは、けっこう大きな間だ。わかりやすくお隣だったら毎朝会っただろうし、何だかんだで登校も一緒にしてただろう。
ブレザーのジャケットを羽織りながら、歩いてきた男の子を見上げる。背も随分高くなって、住宅街じゃなくて背景に空が見えるぐらい。憎らしいほどいい天気だから、今日はいけるはず。大丈夫と深呼吸をする。
「……おはよ」
蚊の鳴くような声が出た。辛うじて聞こえたらしい。軽く手を上げ、彼が軽やかに歩いていく。広がっていく距離に、気持ちが勝手に焦り自分の手をぎゅうと握りしめた。
彼とわたしの関係。今は仲良し、とはちょっと遠い。よくありがちなもので、成長と共に気恥ずかしさやら照れが出てきてしまって、こうして偶然会ったら挨拶を交わす程度。本当はもっと楽しく話しかけて喋って、前みたいに遊びたいのに。ままならなさに泣きたい気分だ。
(とわちゃんあしはやいねぇ)
刹那。舌ったらずな声が甦った。かけっこに関しては負け知らずだったわたしに、いつもニコニコしながら褒めてくれた、彼の。
思い出したのだ。彼と仲良くなったきっかけを。ご近所さんでママ達が集まっていたとき、お母さんの陰に隠れて様子を窺っていた彼にわたしが話しかけた。それだけの事だった。
「……よし」
ローファーのつま先をギュッと入れ直す。唇をぐっと結んで、軽く髪を整える。まだまだ自慢の脚で追いついて、大きな声で話しかけよう。
「おはよう!」
それだけで、きっといいのだ。
ぽちゃん。ぴたん。庇の陰にしゃがみ込んで、雨止みを待っている。どんよりと澱んだ雲はどこまでも厚い。湿った空気と、冷たく地面を跳ねる滴が全身から体温をじわりじわりと奪っていく。鳥の声すらも聞こえてこない。
私は、雨の日が好きではなかった。
むしろ好きな人はそう多くないはずだ。お日様が出て、爽やかな風吹く日のほうがいいに決まっている。そんな時に、町の外れにある草っ原で寝転がってお昼寝するのがなによりも心地いい。
「……はやく止まないかなぁ」
願掛けのようなもので、雨除けの傘は外に出る日はできるだけ持ち歩かないようにしていた。だから毎度、降られた日にはこうして雨宿りをする羽目になっているのだけど。
頬杖をつく腕に布が貼りついている。同じ屋根の下、濡れた土の上にいるコオロギも同じように出て行かずにいる。お揃いだね、なんてひとりごとを溢して空を見上げた。
「こんにちは」
ふと、目の前に影がさした。頭を上げる。すると見慣れた顔が微笑んでいた。へらりとした、掴みどころのないひょろい男だ。突き飛ばしたら簡単に尻餅をついてしまいそうな奴の登場に、眉間に皺が寄った。
「……」
「聞こえなかったみたいだね。こんにちは!」
小さな声で挨拶を返す。それに気をよくしたのか、鼻唄でも歌いそうな調子で男が何かを差し出した。綺麗な傘である。……やっぱりな。
「いらない」
「まぁまぁそう言わず」
男はめげない。わたしも折れない。こうなっては平行線だ。毎度雨の中、外を走って私が去るか男が帰るかしかない。私は差し出された傘をそのまま引っ掴めるほど、この男のようにヘラヘラ生きていない。
「都合のいいことは信用しないようにしてる」
それが生きるってことだろう。助けが現れることを期待して過ごすほど、弱くなったつもりはなかった。
その場で立ち上がる。今日もわたしから立ち去ろうとして、初めて呼び止められた。
「気高いですね。都合なんて時の運なんですから、何でも使っちゃえば良いんです」
だから雨の日は好きではないのだ。
へらりと笑んだその指先、鍵が摘まれている。それはずっと探し求めていたあの人の品だったのだから。
たとえば、本当に押したかったボタンよりもひとつズレた結果の自販機ジュース。連続購読中の新刊を買って帰ったら、本棚に並んでいた同じ背表紙。人間である以上誰しも一度は体験した事があるのではないだろうか。……いや、少し主語が大きすぎた。自分の現状を憂うあまりセンチメンタルになってしまっている。それは認めよう。
そこでわたしは漸く、スマートフォンの画面から顔を上げた。陽当たりのいいキッチンで動く広い背中を見ると、童話のキリギリスが思い起こされた。対してわたしは怠惰なアリである。視線を下げてもまだ寝巻きで、今日も寝癖が元気に頬へ下りてきてる。
「ねぇ、フレンチトーストはメープルでいい?」
思考に沈みきっていた間に、彼は調理を終えていたらしい。ほかほかと湯気を上げる黄金色のモーニングメニューに、思わず顔が綻んだ。
「ありがと。……」
彼がわたしを選んだことが、未だ何かの手違いだと思う時がある。というか、度々ある。
「もう。また悩んでるの?」
「! ……だってあなた、あの人の事好きだったじゃん」
自分でもわかるくらい拗ねた声が出た。どうやら思う以上に拗らせていたらしい。あまり目を合わせたくなくて、逃げるようにオレンジジュースの入ったコップを手にする。見かねたのか彼がやんわりと持ち上げようとする手を制した。
「きみを選んだことが間違いなんて、思った事ないよ。誰よりも心動かされるひとだって気付けた後から僕は、誰よりも幸せなんだから」