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4/20/2023, 1:57:22 PM

 両手ひとかかえある、黄色くふわふわとした花のたくさんついたブーケがある。視界が遮られるほどたくさんの贈り物を、手近な椅子に座り見下ろした。
 心がタップダンスを踊っている。足取りもこの花のように軽く、ともすれば家の中で箪笥にぶつかってしまうだろうと簡単に想像できた。ならば雲の上を歩むよりも、一度腰を据え、浮遊感に浸りきってしまおうとしている。
「……素敵」
 いい香りに鼻をすんと動かす。目を閉じて、五感で喜びのもとを感じる。瞼を開けた先にあったマグカップにさえも微笑みがこぼれた。いつかの春の日、彼と共に買いに行ったものだ。
 つい数十分前。彼が時計をちらりと見て、天辺を指した長針に反応して指を鳴らした。そこから覚めない夢の中にいる気がする。
『誕生日おめでとう。君と過ごす日は、毎日が春にいるようだよ。……願わくば、この花を飾ってはくれないか』
 彼お得意の魔法で、あっと瞬きする間にわたしの腕に現れたブーケだって思い出の品だ。デートした日に、肩を寄せ合い仲睦まじく歩く老夫婦を、公園で見た時の。
『この花が大きく頷く頃に、また来よう。その時には永遠の約束を贈るから』
 同じように頷いてくれると嬉しい。
 彼が頬に羽根で触れたような感触を落として、わたしと黄色の花が部屋に残された。
「ふふ。この部屋、貰い物ばかりが増えてしまったわ」
 最初からあなたさえいたら。この言葉は、みずみずしい花がうたた寝する頃に伝えよう。優しい香りを、もう一度吸い込んだ。

4/19/2023, 11:15:01 AM

 風に吹かれた洗濯物みたい。出会った頃より更に長くなった「お兄さん」の髪を見ながらひとり考える。
 拾われたのは物心ついて五年ほど経った歳の頃。毎日おなかが空いて仕方なく、野うさぎに逃げ仰せられては野草を食んでいた時分だった。
『こんな所で、何をしているんだい』
『見てわかんないの』
 陽が傾き始めていた。背の高い、まだおそらく"大人"ではない男が立っている。上等そうな身なりでもない。平凡な、街中を歩く普通の人と同じような、安っぽそうな衣に身を包み荷物を背負っている。
 なんだ。金持ちのお布施でもないなら、馬鹿にしにきたのか。空腹と、それによる睡眠不足で怒りが煮え立ち始める。ぐらり、ぐらぐら。銅貨の一枚でも投げて寄越してくれないなら、帰ってほしい。気が立っているのだ。あまり不快を態度にしすぎて殴られてもいけないので、せめての反抗に睨め付けてやろうと顔をしっかり捉えた時に唖然とした。
『いや、すまない。馬鹿にするつもりは無いんだ。声を掛けるにもどうしていいか分からなくてね』
 真っ先に目を引いたのは瞳の色だった。透き通るような、美しい空の蒼。
 目立つ容姿というほどで無い、柔和そうな顔立ち。しかし整っている部類に入ると思う。まごついている様子からして、害意は本当になさそうだった。
『……夕飯捕まえられなかっただけ』
 ほんの気まぐれ。晴れた日の空みたいな、うつくしい蒼を見ているうちに、何故だか口が動いていただけ。怒っていた手前、つっけんどんに答える。
『じゃあ、私があの鳥を捕まえたら。一緒に食べてくれるかい』
 染まりつつある空を指し、子供に不遜な態度を取られたことも気にせず。男の人がそう尋ねる。答えの代わりに頷くとぱぁっと嬉しそうにして、いそいそと背中の袋から弓を取り出した。
 矢をつがえ、地平線のように真っ直ぐ鳥を見据える。柔和だった表情が一変した。研ぎ澄まされた氷が獲物を正確に捉えて、風を切る音。
『……よし!』
 的中。私よりも子供らしく、無邪気に喜んだ人が、落ちた鳥をむんずと掴み歩いてくる。
『ご相伴に預かってくれないだろうか?』
 また陽だまりのように柔くなった二対に惹かれ、ゆっくりと歩み寄った。お兄さんの名前は。そう聞きながら。
「なんで髪、伸ばしてるの」
 今では特等席になったお兄さん謹製の椅子に座り、そう問いかける。窓から吹き込む風が、目の前の髪を揺らすようすを見てふと口をついたのだ。
 あの頃から変わらないこの人は、わたしの他にもひもじかった子猫と犬、さらに馬まで住まわせている家を見渡しながら答えた。
「昔。きみと今、窓辺でこのやり取りをするのが見えたからさ」
 本当にお人好しだ。不思議と未来まで見渡せそうな蒼を細めながら笑うお兄さんに、気恥ずかしくなってそっぽを向いた。

4/18/2023, 2:28:15 PM


 目の前に手を伸ばす。開いて、閉じて。騒めく雑踏や点滅する信号のメロディーを、足早に通りすぎる人々を、確かめるように。
 隣に座っていた学生が一瞬怪訝な顔をして立ち去っていったのを、ぼんやりと見つめた。
(あ、今日の講義忘れてた)
 背後から聞こえる噴水の音をBGMに、ようやく自分が何をしなければいけないか思い出す。……確か、二限に必修単位の授業があった。一緒に昼食をとっている友人は別のコースを選択している。必然急かす相手がいない講義は、漫然と受けなければいけないものになってしまっているので。
 記憶の糸を手繰り、どれくらい切羽詰まっていたかを確認する。確か、落単までにあと三回ほど余裕があった、はずだ。ならいいや、と腰を上げる動作すらせず、先ほどまで見つめていた人混み観察へ戻った。
 ピッポー、ピッポー、コツコツ。今週のオリコンチャートは……。
(頑張ってるなぁ)
 捻りもなにも無い感想が浮かんだ。忙しない流れはまるで川だ。留まることを知らず、わたしは一枚隔てた画面の向こうでその光景を眺めている。
 ──自分でも不思議な事に、昔からずっと。"ここに居る"感覚が薄かった。
 スポーツで勝利した時の感動、ピアノで困難な譜面を引き切った時のよろこび。どれをとっても、自分が当事者ではない気がするのだ。わかりやすく言えば、お客さまだろうか。
 別に周りに迫害されたりした事はない。そこそこ仲の良い友人も居て、地元から定期的に連絡をくれる家族だって居る。世間一般的にたいへん恵まれている方だ。
 だというのに。どうしてこんなにも、靄がかっているんだろうか。
 騒めく雑踏にいても、信号機のメロディーを聞いていても水中を見ている感覚になる。手を伸ばして、確かめて。現実だったかもしれないと自分に言い聞かせつつ何年も過ごしてきた。
「んー……」
 今日も世界のピントが合わなかった。息を吐く。慣れた作業を終えて、リミットまで迫りつつある腕時計を一瞥して立ち上がった。今日も捗らなかったし、ならば貴重な単位を取る義務を果たそうとしたわけである。
 伸びをしてさて駅に向かうか、そう思った時だ。足に小さな衝撃があった。
「おかあさん……」
 鼻を啜る音が聞こえてくる。いやに音が近いが、街中ではよくある事だ。講義に向かうには西口が……。
「ん?」
 がっしりと抱き付かれている感触が、自分の足にある。遅れて今気付いた。視線をそろりと下ろす。さらさらとした、痛みもない美しい髪。小さな子ども特有の、半分にも満たない低い位置にある頭を、穴が開くほど見つめる。
 抱き付く、おそらく彼も。見られている事に気付いたらしい。がばりと上がった顎に、濡れて煌めく瞳からころころと滴が転がっていく。
「おかあさん、どこ?」
 この雨粒はなんて美しい色なんだろう。初めてそう思った。