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 目の前に手を伸ばす。開いて、閉じて。騒めく雑踏や点滅する信号のメロディーを、足早に通りすぎる人々を、確かめるように。
 隣に座っていた学生が一瞬怪訝な顔をして立ち去っていったのを、ぼんやりと見つめた。
(あ、今日の講義忘れてた)
 背後から聞こえる噴水の音をBGMに、ようやく自分が何をしなければいけないか思い出す。……確か、二限に必修単位の授業があった。一緒に昼食をとっている友人は別のコースを選択している。必然急かす相手がいない講義は、漫然と受けなければいけないものになってしまっているので。
 記憶の糸を手繰り、どれくらい切羽詰まっていたかを確認する。確か、落単までにあと三回ほど余裕があった、はずだ。ならいいや、と腰を上げる動作すらせず、先ほどまで見つめていた人混み観察へ戻った。
 ピッポー、ピッポー、コツコツ。今週のオリコンチャートは……。
(頑張ってるなぁ)
 捻りもなにも無い感想が浮かんだ。忙しない流れはまるで川だ。留まることを知らず、わたしは一枚隔てた画面の向こうでその光景を眺めている。
 ──自分でも不思議な事に、昔からずっと。"ここに居る"感覚が薄かった。
 スポーツで勝利した時の感動、ピアノで困難な譜面を引き切った時のよろこび。どれをとっても、自分が当事者ではない気がするのだ。わかりやすく言えば、お客さまだろうか。
 別に周りに迫害されたりした事はない。そこそこ仲の良い友人も居て、地元から定期的に連絡をくれる家族だって居る。世間一般的にたいへん恵まれている方だ。
 だというのに。どうしてこんなにも、靄がかっているんだろうか。
 騒めく雑踏にいても、信号機のメロディーを聞いていても水中を見ている感覚になる。手を伸ばして、確かめて。現実だったかもしれないと自分に言い聞かせつつ何年も過ごしてきた。
「んー……」
 今日も世界のピントが合わなかった。息を吐く。慣れた作業を終えて、リミットまで迫りつつある腕時計を一瞥して立ち上がった。今日も捗らなかったし、ならば貴重な単位を取る義務を果たそうとしたわけである。
 伸びをしてさて駅に向かうか、そう思った時だ。足に小さな衝撃があった。
「おかあさん……」
 鼻を啜る音が聞こえてくる。いやに音が近いが、街中ではよくある事だ。講義に向かうには西口が……。
「ん?」
 がっしりと抱き付かれている感触が、自分の足にある。遅れて今気付いた。視線をそろりと下ろす。さらさらとした、痛みもない美しい髪。小さな子ども特有の、半分にも満たない低い位置にある頭を、穴が開くほど見つめる。
 抱き付く、おそらく彼も。見られている事に気付いたらしい。がばりと上がった顎に、濡れて煌めく瞳からころころと滴が転がっていく。
「おかあさん、どこ?」
 この雨粒はなんて美しい色なんだろう。初めてそう思った。

4/18/2023, 2:28:15 PM