「時を繋ぐ糸」
愛犬のクロは、もうすぐ16歳になる。
いつもわたしの手の届くところにいて、
鼻先でそっと手のひらを押してくる。
その湿った感触。これが“今”の証拠。
何千回、何万回と繰り返されてきた“今”だ。
クロが仔犬だった頃、
散歩中に四つ葉のクローバーを見つけた。
わたしはそれを栞にして本に挟んだ。
その本を開くたび、若かったクロが蘇る。
あの日のやわらかい光とともに。
時というものは、それは太い糸ではない。
無数の細い、透明な糸の集まり。
あるいは、透明な糸で織られた布。
光の加減で見えたり、見えなくなったりする。
最近、クロの歩く速度がゆっくりになった。
時を繋ぐ糸は、わたしたちを、過去から未来へ、
そっと引き寄せているのだろうか。
そして、いつか、未来から過去へも…。
クロの寝息を聞きながら、その糸の感触を、
ただ静かに、大切に噛みしめている。
「紅の記憶」
夕暮れの茜色。
どうしてあんなに強烈なのだろう。
いつだったか、クロと散歩に行った公園。
見ているものを魅了する。
イチョウの、燃えるような赤と黄色。
クロは黒い。
だから、「紅」の強さが際立つ。
立ち止まり、空を見た。
クロがわたしの足に鼻先をこすりつける。
───早く行こうよ。
彼の世界に、「赤」はただの景色だ。
感傷も郷愁もない。
その潔さが、私は好きだ。
私の中の「紅」の記憶たち。
鮮やかだで、でも、もう触れられない。
過去の熱い恋。決別。そういうもの。
クロは「今」しか見ていない。
彼と一緒にいると、
外の条件に左右されない幸福を、
見つけられる気がする。
今、クロの耳が、パッと何かを捉えた。
遠くの音。
彼は走り出した。
ただ、まっすぐに。
私も行くよ、クロ。
「夢の断片」
朝、目が覚める。
いつもなにかを忘れている。
夢のほとんどは、消える。
洗い立てのシーツみたいに。
光を浴びると、乾いて消えてしまう。
ごくたまに、残るものがある。
指先の砂粒ほどのざらつき。
それが「断片」だ。
昨夜の夢も、そうだった。
小さなざらつきを残した。
真っ白な部屋にいた。
わたしとクロ。
窓もない。ドアもない。
静かな、ただ白い空間。
クロは首をかしげた。
わたしの顔を、じっと見つめていた。
いつもの瞳じゃない。
澄んだ茶色じゃなかった。
夜の海。深い藍色だった。
わたしは、なにも言えなかった。
クロのその藍色の瞳のなか。
遠くで点滅する、小さな星。
それを見つけようと、見返していた。
現実に戻る。
クロは足元。丸くなって寝ている。
いつものように。
太陽の光。
黒い毛並みが、鈍く光る。
ああ。
この子こそ、わたしのいる白い部屋の。
唯一の窓。
そして、ドアなんだ。
夢の藍色はもうない。
あるのは、安心しきった重み。
かすかな獣のにおい。
それで、充分だ。
「吹き抜ける風」
風が、ただ通り過ぎていく。
私をどこへも連れて行かない。
何かを壊そうともしない。
ここにいることを、教えてくれる。
テーブルの紙が浮き、また落ちる。
ああ、世界は動いている。
特別なことじゃない。
日々の小さな動きだ。
愛犬のクロは縁側で寝ている。
長い黒い毛が、微かに揺れていた。
クロの夢の中にも、風は吹くだろう。
ピクッと動いた耳が、それを教える。
急ぐ必要は、どこにもない。
人生も、この風に似ている。
ただ、静かに通り過ぎるだけ。
その道の途中で、
誰かの温かい手に触れる。
クロの柔らかい毛に触れる。
それで十分だと思う。
風が連れてきた匂いは、夏の終わり。
そして、新しい始まりの予感がした。
「記憶のランタン」
光にならないものがある。
たとえば、クロの重さだ。
わたしの膝で丸くなったクロの、
ずっしりと重い。生きている重さ。
それは光ではない。
音もない。色もない。
ただ熱だけだ。
クロの体温は消えた。
わたしは手のひらに記憶する。
その場所が痛む。ときどき、ちくりと。
それは小さなランタンの火。
闇を照らす光ではない。
火傷しそうな熱い熱。それだけを持つ。
真っ暗な部屋で抱きしめる。
そっと、その熱を。
誰にも見えない小さなランタン。
揺れるたびに聞こえる。
あの日のやさしい息づかい。
わたしたちは知っている。
その熱さえあれば、生きていける。