「冬へ」(冬の散歩とクロ)
朝。空は、鉛色。
風が、乾いて冷たい。
こういう日は、部屋の光が白い。
光は、温かさと冷たさを分ける。
クロと散歩に出る。
アスファルトが凍てついている。
クロの息が、白い煙になる。
それが、冬の合図。
手袋の指先が痛い。
でも、クロは歩き続ける。
力強く、地面を蹴る。
私もその歩調に合わせる。
景色は、何もかも色を失っている。
ただ、輪郭だけが残る。
世界が、シンプルになっていく。
クロは、時々私を見る。
「大丈夫だよ」と、言っている気がする。
その黒い瞳に、私は救われる。
冬は、言葉が要らない季節だ。
ただ、隣にクロがいる。
それだけで、全てが足りている。
私はこの静かな時間を、
ポケットに入れて、家に帰る。
「時を止めて」
クロとソファで毛布にくるまっている。
部屋は夕方のにおいがする。
特別なことは何も起こらない。
ただ、お互いの息の音が、静かに、そこにあるだけ。
クロの毛並みが、昔より少しごわごわしてきたのを知っている。
指先に、命の重みを感じる。
私たちは、この瞬間をいつか失うだろう。
どんなに願っても、時間は誰にも味方してくれないから。
クロの時間が、私の時間と違う速度で進んでいることも、わかっている。
だから、今、目をつぶる。
瞼の裏に、この温かさと、クロの軽い寝息を焼き付ける。
瓶詰めにできるなら、そうしたい。
光も風も届かない、どこか奥深い場所にしまっておきたい。
でも、できないから、代わりに深く吸い込む。
この一瞬の匂いが、私の全部だ。
そして、またすぐ、明日が来てしまう。
「終わらない問い」
クロは
今日もそこで寝ている。
窓からの午後の光が
ゆっくりゆっくり
その黒い毛並みを
横切っていく。
世界は動いている。
時間は流れている。
でも、クロの呼吸だけは
ずっと
あのペースだ。
何を考えているんだろう。
人間は、いつも
どうしてあんなに
前のめりなんだろう。
何かを達成したくて。
誰かに認められたくて。
それとも、ただ
止まるのが
怖いだけなんだろうか。
昨日も、一昨日も、
答えのないことばかり
頭の中でぐるぐる回っている。
それが私の
「終わらない問い」だ。
だけどクロは
お腹がすいたら
「ごはん?」
と、ただ一言、問いかけるだけ。
その、ただひとつの問いのほうが
ずっと本質に近い気がする。
今日、生きる。
それだけ。
たぶん
それでよかったんだ、と
クロを見ていると思う。
いつか
その単純さに
辿り着けるだろうか。
今日もまた、問いながら。
「愛-恋=?」
愛から恋を引いたら、何が残るんだろう。
そんなことを、ふと思った。
恋はきっと、とても忙しい。
不安とか、期待とか、焦りとか。
手の届かないところにある、きらきらした、熱いもの。
朝、目が覚めると、足元でクロが息をしている。
ただ、そこにいる。
私がコーヒーを淹れるカチャカチャという音に、少しだけ耳が動く。それだけ。
「ああ、いるな」という、静かな安心感。
クロは、私を飾ろうとしない。
何も求めず、ただ自然に、私の時間と一緒に流れている。
見返りのない、この、ゆるやかな空気。
愛から、恋の持つ不安定さや、余計な熱を引いたとしたら。
残るのは、この、静かで、確かな呼吸の音だろう。
愛-恋=安心。
それが、私だけの答えだ。
「一輪のコスモス」
リードを引くクロ。いつもの朝の散歩。
ブロック塀の角に、一本だけ、コスモス。
薄いピンク。ほとんど透明な色。
誰に見られるでもなく、という顔で、そこにいる。
クロは気付かないふりして、通り過ぎようとする。
私が立ち止まる。
「ちょっと待って」
たったひとりで、風に揺れている。
誰かを喜ばせるためじゃない。
愛されるためでもない。
ただ、咲いてる。
クロが、早く行こう、と鼻を鳴らす。
それを見て、私も、これでいいんだ、と思う。
今日を生きる。それだけで。