センチメンタル・ジャーニー
古い雑誌をめくる。
ぱらぱらと、乾いた音がする。
ふわりと、埃っぽい匂いがする。
この雑誌の発売日、どこにいて、何をしていたっけ。
そんなことを、ひとつひとつ思い出す。
記憶の中の私は、いつも髪が長くて、少し疲れた顔をしている。
それでも笑っている。
その笑顔は、なんだか切なくて、懐かしくて、まぶしい。
あの頃好きだった歌を、静かに聴く。
遠い昔の景色が、目の前に広がっていく。
変わらないものなんて、ひとつもない。
わかってはいるけれど、それでも、変わってほしくないものが、
たしかにあったような気がする。
淹れたてのコーヒーから、白い湯気が立ちのぼる。
その湯気越しに、窓の外をぼんやりと眺める。
雨上がりのアスファルトは、濡れて、黒く光っている。
空は、まだ少し灰色だ。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
それは、痛みじゃなくて、
でも、幸せでもなくて。
たぶん、ただの「きもち」。
名前のない、かたちのない「きもち」。
センチメンタル・ジャーニー。
終わりのない、私の旅。
もうすぐ、夜が来る。
そして、また、朝が来る。
そうして、また、旅は続く。
何も変わらない、それでいて、すべてが変わっていく。
それで、いいんだ。
たぶん。
空白
窓から空を眺める時間。
ぼんやりと、ただ、そこにある雲のかたちを追う。
何も考えない、何も生み出さない、そんな時間が好きだ。
空白は、ただ虚しいだけじゃない。
何かが始まる前の、静かな予感のようなもの。
新しい言葉が生まれる前の、ページの余白。
誰かの声を聞く前の、心の沈黙。
私たちは、いつも何かで埋めようとする。
スケジュール、仕事、誰かとの約束。
でも、本当に大切なことは、その埋められた隙間ではなく、
その間にある、何もない場所で、ひっそりと育つ。
空白は、自分に戻るための場所。
すべてを脱ぎ捨てて、ただ呼吸する。
そうすることで、本当の自分が見えてくる。
だから、もっと空白を大切にしようと思う。
大丈夫、そこにちゃんと、わたしはいる。
ひとりきり
朝、目が覚めると、あたりまえにひとりだ。
布団の中で少しだけまどろんで、
起き上がって、窓から光をとりこむ。
今日の天気は晴れ。
台所へ行き、コーヒー豆を挽く。
ゴリゴリと豆を砕く音は、
静かな部屋に、ささやかなBGMとなって響く。
お湯を沸かし、ゆっくりと注ぐ。
ふわっと膨らむ豆のふくらみに、
「ああ、いい香り」
と思わずつぶやき、ふふっと笑う。
淹れたてのコーヒーをカップに注ぎ、
窓辺に座る。
湯気は上へ上へと、
小さな雲になって消えていく。
なにも考えない。
ただ、ぼんやりと空を眺めて、
ひとりでコーヒーを飲む。
この時間は、
誰に気兼ねすることもなく、
自分自身に戻るための、
大切な儀式のようなものだ。
きっと、ひとりきりじゃなければ、
こんなふうに、
コーヒーを飲むこともなかっただろう。
ひとりきり、自分だけの、贅沢な時間。
フィルター
フィルターという言葉。
最初に浮かぶのは写真アプリだろうか。
空の色を変えたり、肌をすべすべにしたりする、
あれ。
でも、わたし達のまわりには、
もっとたくさんのフィルターがある。
たとえば、誰かを見る目。
あの人はこういう人だと、
勝手にフィルターをかけてしまう。
ほんとうは、ちがうかもしれないのに。
時間も、フィルターみたいだ。
子どもの頃の、夏休みの一日。
あのときは、
永遠に続くように感じていたのに。
いま、思い返すと、あっという間。
あの時間が持っていた、
特別な空気だけが、
キラキラと輝いて見える。
嫌な出来事も、いつかフィルターにかかる。
そのときは、もう二度とこんな思いはしたくない、
と、深く深く苦しいのに。
時間が経つと、
その苦しささえも、
意味のあることだったように思えてくる。
痛みが和らいで、
必要な経験だったのだと、
無理やり納得しようとするのかもしれない。
わたし達は、たくさんのフィルターをかけて、
毎日を生きている。
それが悪いことだとは思わない。
フィルターがあるからこそ、
見えるものがあるから。
でも、たまには、
そのフィルターを外して、
ありのままの世界を見てみたい。
空が、ただの空として、
あるがままの色で見える瞬間を、
大切にしたい。
ページをめくる
それは、時間をめくることと同じだ。
本を読んでいるとき、日記をつけているとき。
めくったページの後ろに、さっきまでの自分がいる。
そこに、もう戻ることはできない。
ページは、めくった数だけ、未来へ向かって増えていく。
クロがまだ小さかった頃、よく私のひざの上で寝ていた。
私はその小さな頭を撫でながら、ぼんやりと本を読んでいた。
時々、クロは、ページをめくる手の動きに合わせて、頭を少し持ち上げる。
その仕草が愛しくて、私は何度も同じページを行ったり来たりした。
でも、クロはどんどん大きくなって、私のひざの上には収まらなくなった。
そしていつの間にか、本を読む私よりも、私の手の動きをじっと見つめるようになった。
ページをめくると、風がふく。
どこからか、遠い日のクロの匂いがする。
私は今、たくさんのページをめくって、ここにいる。
めくるたびに、クロとの時間が風になって通り過ぎていく。
でも、悲しいわけじゃない。
ページをめくるのは、未来へ向かって歩くことだから。
そして、いつかまた、新しいページをめくる日がくる。
その日は、きっと、クロも一緒にいる。