花とコトリ

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9/1/2025, 5:04:27 AM

8月31日、午後5時

去年の夏も、そうだった。
一昨年の夏も、きっと。

8月31日、午後5時。
太陽は、まだ、空にいて、
でも、その光は、夏のそれとは違って、少しやさしい。

熱いのは、日差しのせいじゃない。
胸の奥が、ぎゅっと、熱くなる。
それは、過ぎてしまった夏への、ほんの少しの、後悔と、
そして、もうすぐ始まる、新しい季節への、
漠然とした、不安と、
それから、ほんの少しの、期待。

夕焼けの色が、少しずつ、濃くなっていく。
空に、赤と紫と、そして、なんだか、うすい水色。
その色を、見つめていると、
なんだか、遠い昔の、
忘れていた記憶が、ふいに、よみがえってくる。
それは、特に、たいしたことのない、
ただ、風が、少しだけ、やさしかった、
そんな、夕方の、ひととき。

夏休みは、終わってしまった。
でも、わたしたちは、まだ、ここにいる。
この、なんでもない、
特別な、8月31日、午後5時。
この、なんでもない、
特別な、時間が、
いつか、遠い未来で、
大切な記憶になって、
わたしたちを、そっと、あたためてくれる。
そんな気が、する。

8/30/2025, 11:21:18 PM

ふたり

ひとりぼっちでいると、ふいに、宇宙飛行士になったような気持ちになる。
無重力の空間に、ぽつんと浮かんでる。
まわりには何もない。ただ、静かな光が、遠くから差し込んでくるだけ。
その光は、とても綺麗で、でも、どこか寂しい。

そんな時に、ふたりでいることを思い出す。
同じ重力の中で、ちゃんと立って、ちゃんと歩いて。
隣にいるあなたの呼吸の音や、ふいに触れた指先の温もり。
当たり前だと思っていたことが、本当は、ものすごく特別なことだったんだと、
胸の奥がぎゅっとなる。

ふたりでいることは、もう、宇宙飛行士じゃない。
ちゃんと地球に降り立って、土を踏みしめている。
風の匂いを感じて、雨の音を聴いて、
同じ時間の中に、いっしょにいる。

そうか、私たちは、お互いの宇宙だったんだ。
あなたの重力があるから、私はここにいられる。
私の重力があるから、あなたはそこにいられる。
ふたりでひとつの、小さな惑星。

どこへ行くにも、いっしょだね。

8/27/2025, 9:46:28 PM

ここにある

ここにあるのに、見えないものがたくさんある。
目に見えないからといって、ないわけではない。

たとえば、クロが、そっと足元に寄ってきて、その大きな体で私の足に寄りかかってくるとき。
そのとき感じるのは、体温だけじゃない。
穏やかな重みと、それから、ああ、ここにいてくれるんだ、という安心感。
その安心感は、目には見えない。

私たちは、どこかへ行こうとする。
もっと遠い場所、もっと違う自分を求めて。
でも、本当に大切なものは、案外、いつだって、ここにある。

クロが静かに呼吸をする音。
風に揺れるカーテンの向こう、街灯が灯る瞬間の、ほんの少しの輝き。
コーヒーを淹れるときに立ちのぼる、あたたかな湯気。
そういう、ちいさな、ちいさなことの中に、確かにある。

「大丈夫だよ」と、誰かが言ってくれた言葉。
心の中に、ずっと残っている。
それも、ここにある。

そして、その全てが、私を支えている。
目には見えないけれど、たしかに、ここにある。

8/26/2025, 2:27:31 PM

素足のままで

素足でいるのが好きだ。
フローリングの冷たさや、絨毯のやわらかな感触が、足の裏から直接伝わってくる。
スリッパは足の間に一枚、無意味な境界線をつくる。
家の中にいるときは、世界を隔てる壁なんていらない。
足の裏で、全部感じていたい。

クロもいつも素足だ。
肉球で床を踏みしめている。
裸足のまま、世界の匂いを嗅いで、
裸足のまま、私の足元に丸まって眠る。

彼はきっと、
世界をそのまま感じることの、
美しさを知っているのだろう。
だから僕も、
できる限り裸足でいたいと思う。
できる限り、そのままの世界に触れていたい。

冷たい床も、温かい日差しも、
素足で感じるだけで、それは「いま」になる。
それは、クロが教えてくれた、とても単純な真実だ。

8/24/2025, 2:37:21 AM

遠雷

遠くで雷が鳴っている。
もうすぐ来る雨の匂いが、窓から入ってくる。

私は、ただ静かにその音を聞いている。
何かを待っているようでもあり、
ただ、過ぎ去るのを眺めているだけでもあり。

クロは、ソファの上でお腹を出して眠っている。
耳をぴくりともさせず。
稲妻が光っても、気にもしない。
雷を怖がらない犬。

こんな大きな音に、心揺らがない。
その平穏さが、この部屋の、私の、
一番深いところに、届いてくる。

世界がどんなに騒がしくても、
たった一つの、ちいさな命が、
静かにそこにいる。

それだけで、遠い雷は、
ただの、夏が終わっていく音になる。

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