Midnight Blue
夜が、どこまでも青い。
真っ黒になる一歩手前の、深い深い青。
この色が好きだ。
静かで、なにかに包まれているような気がするから。
足元には、愛犬のクロが丸くなって眠っている。
規則正しい寝息だけが聞こえる。
世界には、わたしたち二人だけ。
そう思っても、だれも笑わない。
この時間だけは、すべてのことが許されている。
飲み残しの、気の抜けた炭酸水を一口飲む。
窓の外には、街灯の光がぼんやりと滲んでいる。
青の中に溶けていく。
クロが、寝言を言った。
そんな夜だった。
【君と飛び立つ】
クロが、横で寝息をたてている。
世界は、この部屋の窓の外、
もっと遠くの、どこか。
でも、そのどこかには、
いま、行かなくていい。
庭のブルーベリーの木は、
今年も小さな実をつけた。
甘酸っぱい、
記憶のような味がする。
手のひらに数粒のせて、
ひとつ、口に入れる。
クロが静かに顔を上げて、私を見ている。
その、どこにも行かない時間が、
どこへでも行ける時間のように思える。
この命と、この命と。
いつか、そうして、私たちは、
この場所から、そっと、飛び立つ。
「きっと忘れない」
人はなにかを得て、なにかを失って生きていくものだが、私はこの朝もまた、小さな幸せを得た。窓をあけると涼しい風が部屋に入り、青空がひろがっていた。庭の草むらが光に濡れて、露がきらきらと輝いていた。そのとき、クロが駆けよってきた。尾をふりふり、私の足もとにじゃれつく。黒くてつややかな毛並み。無邪気な瞳。私はクロの頭をそっと撫でる。「おはよう、クロ」、クロは嬉しそうに声をあげた。犬は人よりも素直だと思う。心が白いから、感情も真っすぐだ。私はクロと散歩に出る。道端の花を見つけて、二人で立ちどまる。風がやさしく吹いて、頬にあたる。私は思う。こうして過ごす日々を、私はきっと忘れないだろう。クロ、お前もそうだろうか。心にぽっと灯る、小さな感謝を私はそっと胸にしまった。
「遠くの空へ」
ラムネの瓶が陽に透けて、青い光を放っていた。私は縁側に腰を下ろし、その小さな瓶を指先で転がした。シュワシュワと微かな音が夏に似合っていた。私の脇には、愛犬のクロが静かに寝そべっている。クロの黒い毛並みは、この世のどんな墨よりも深く美しい。彼は私の気配に安心したのか、小さな鼻先だけが時折ひくつき、残りは夢の国だ。私は瓶の口に唇を寄せて、喉を冷たい泡で満たした。ああ、なんということであろう——この平穏な午後、遠い空の彼方へ思いが飛んでいく。ふと見上げると、雲が流れる。ひとつの雲は、まるで先ほど見たクロの寝姿のようだ。私は思わず笑った。空も地上も、今はやさしく、ひろがっている。人間は時に悩み、時に喜ぶ生きものだが、この瞬間ほどまっすぐに生きようと思うことはない。ラムネの瓶の中のビー玉がコトンと鳴る。その音を聞きながら、私はもう少し、この夏の夢に浸っていたくなった。
「君が見た景色」
君が見た景色、それは私の知らぬものだった。私は、そのことにふと気づいて、思わず柔らかな日差しの窓辺に腰を下ろした。小太郎——私の愛犬が、こちらへと小さな足音を立ててやってきた。彼の眼差しには、何もかもが初めての驚きと、無邪気な好奇心が浮かんでいる。その瞳に映る世界はきっと、私のものとは違う色と形に満ちているのだろう。
私は手を伸ばし、小太郎の頭を優しく撫でた。彼はしきりに尻尾を振り、私に寄り添った。草の匂い、遠く鳴く雀の声、ガラス越しの光のまぶしさ——小太郎はそれらすべてを、新鮮な驚きで受け止めているらしい。
「コタ、おまえにはどんな景色が見えているのだろうね」私はそう小さく呟いた。答えぬ小太郎だが、その素直な表情に、私はふと心打たれるものを感じた。世の中のすべては、見る者の心により、一つ一つ違うものになるのだと、私は改めて思うのだった。