花とコトリ

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8/13/2025, 3:50:08 PM

「言葉にならないもの」

陽が落ちて間もない夕暮れどきの、ほんのりと葡萄色を帯びていた空が、やがて群青へと沈んでいき、いまや藍色の静けさが辺りを包み込もうとしている。
庭先でクロがぴたりと私の傍らに座った。夏の熱気もようやく和らいで、薄闇に浮かぶクロの黒々とした毛並みが、しっとりと風に揺れる。
手にした線香花火の火玉がはぜる音に、クロが耳をぴくりと動かす。その様子が、妙に愛おしい。
火花は小さく、儚い。ぽとりと落ちる瞬間、何かが胸の奥を通り過ぎる。語ろうとしても、言葉にならない。クロもまた、こちらをじっと見上げて、何かを語りかけようとするが、やはり声にはならない。ただ、静かにその眼差しが、意思のようなものを伝えてくる。
線香花火の最後の一滴が落ちて、ただ静けさが残った。クロの温もりを背に受けながら、私は、言葉にならぬ想いが、この夏の終わりにそっと横たわるのを感じていた。

8/9/2025, 11:15:57 PM

「風を感じて」

午後の微風が、雨上がりの庭先の木々を震わせていた。私は縁側で、よく冷えたスイカを一切れ手に、ぼんやりと木漏れ日を眺めている。隣では、今年で七歳になる愛犬のクロが、鼻先を風に向けてじっとしている。
「クロも、風の匂いを感じているのか」と声をかけると、彼はわずかにしっぽを振り、こちらを見上げた。
スイカの赤い果肉を口に運ぶ。ひんやりとした甘みが、暑さを追い払うように喉を通り抜けた。その間にも、クロは目を細め、風の中の何かを探るようにしている。
私はふと、昔、父と食べたスイカのことを思い出した。父もまた、風を感じながら、「夏はこうして過ごすものだ」と微笑んでいた。
クロが私の手元に顔を寄せてきた。「これはだめだよ」と言いながらも、その素直な瞳に心を和ませる。私は、小さなスイカの欠片を指先で差し出し、そっとクロに分けてやった。
風は、過ぎ去った日々と今を、静かにつないでいるようだった。

8/7/2025, 3:35:48 PM

「心の羅針盤」

夜も更けて、ふと窓を開けると、星が一つ、青白く瞬いていた。その瞬きは、どこかおずおずとしながらも、確かにこの夜空の一角を支配しているように見えた。夜風がわずかに頬を撫でていく。ひんやりとしたその感触に、私は思わず目を細めた。
 
人にはそれぞれ、見えぬ羅針盤が心の底に据えられているのではないか、とふと思う。進むべき道に迷ったとき、目の前の明かりに頼るだけでは足りない。むしろ、こうして夜風に吹かれ、遠い星の光に目を向けたとき、静かに何かが指し示されるのを感じるのだ。
 
若い頃は、羅針盤の針がどこを向いているのかもわからず、不安の中で手探りしていた。しかし幾たびか星空を見上げ、夜風に身を晒すうちに、自分の中の針がふと動く感触を知るようになった。
 
何が正しい選択なのか、誰が保証してくれるわけでもない。ただ、あの星の光が遠い昔と変わらず私の目に届くように、心の羅針盤もまた、私なりの答えを静かに指し示してくれる。夜の静けさの中で、私はそれにじっと耳を澄ますのだ。

8/5/2025, 6:27:01 PM

「泡になりたい」

砂浜に立ち、愛犬の黒い毛並みが潮風になびくのを眺めていた。海は今日も広く、どこまでも青い。犬は波打ち際で飛び跳ね、小さな泡の群れに興味を持ち、鼻先でつついてははしゃいでいる。私はぼんやりと、その泡を見つめていた。

泡は、波が砕ければ生れ、しばらく漂って消えていく。儚さという言葉が、これほど似合うものも少ない。その在り方が、ふと羨ましくなった。何かに執着せず、すべてを預けて、かたちも気配も残さず消えていく――そんな存在でありたいと願う自分が、どこかにいるのだろう。

愛犬は、泡をひとしきり追い終えて振り返る。濡れた鼻先に光るしずくが一粒。私は彼に微笑みかける。その一瞬、泡のように柔らかな幸福が、胸の奥に生まれては消えていった。

7/26/2025, 9:33:53 AM

「半袖」

日差しが強くなる前に、犬と朝の散歩に出る。
犬は短い足で先を歩き、時々こちらを振り返る。
その姿を眺めていると、去年の夏の散歩を思い出す。同じ道を、犬と歩いたあの日も半袖。
あのときと同じように、すれ違う人が「暑いですね」と笑った。

今年も半袖で犬とゆっくり歩く。
犬の背中を見ながら、今年の夏も素敵な思い出になる予感がした。

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