霧の中に入った君は、完全に見えなくなった。
細かい水滴に光が乱反射しているのだろう。
少し冷ややかな白いベールは君を覆い隠した。
「おいで」
君の声が聞こえる。
霧から伸ばされる手を、僕は反射的に握った。
そうして霧の中2人きり。
君の手の温もりだけが、そこに確かに"在る"君の存在を証明していた。
何も見えない白い世界。
僕は君の手を強く握り直した。
逃げないように。
溶けないように。
『砂時計の音を知っているか?』
そんな宣伝文句で投げ売りされていた砂時計を、僕は手に取った。木とガラスでできたシンプルな砂時計。価格は500円。
あいにく砂時計の相場を知らない僕は、それが高いか安いか分からなかった。財布を開くと、おあつらえ向きなな500円玉が一枚。僕はすぐさまレジへ向かった。
帰ってすぐ、リビングの机に乗せてみる。片手でことん、とひっくり返す。さらさらと砂が流れ始めた。
僕は砂時計の近くに顔を寄せて、目を瞑った。
……
集中しなければ聞き取れない微かな音。テレビの雑音をうんと小さくしたような、山を一つ越えた海の音を聞いているような、そんな音。
この消え入りそうな音が、僕たちの世界を支配している時間を刻んでいるとは、にわかに不思議である。
しばらくして、音が止まった。
また砂時計をひっくり返し、目を瞑る。時の刻みが静かに再開した。
時を刻む音と言えば、昔は大時計の音を想像した。荘厳なコツ、コツと1秒ごとに時を刻む。
しかし、砂時計はもっと細かい、僕らでは認識できないような時間を刻んでいる。砂時計の前では、人間も虫も自然も、同じ時間の流れに閉じ込められるのだ。
砂時計は神様の発明品かもしれない。
僕はそう思いながら、再度砂時計をひっくり返した。
「愛と恋の違いは?」
「恋人でもできたの?」
唐突な質問を持ちかけた友人は、目の前でオレンジジュースをかき混ぜている。氷がぶつかり合う音が、カラカラ。私の逆質問に、友人はあっけらかんと答えた。
「いや?別に、気になっただけ」
「あ、そう」
「で、愛と恋の違いは?」
逃げることはできないようだ。私は脳内の引き出しを片っ端から開ける。解答模索中。捻り出した答えは以下の通り。
「愛は無限、恋は有限」
「へー、そういうものなんだ」
友人はうんうんと頷く。しつこく聞いてきた割にはあっさりしたリアクションだ。拍子抜け。
よし、これでこの話題は終わりだ。と言うように私はコーヒーカップに口をつけたのだが、
「じゃあ、恋が無限に近くなっていったら、愛になるかなぁ?」
カラカラカラ。氷の音が大きくなる。友人の大きな目がこちらを見る。カップからじんわりと熱が広がる。目を逸らして、私は呟いた。
「なるんじゃない、難しいと思うけど」
「……そういうものかぁ」
少しの間の後、友人はにっこり微笑んだ。
「んじゃ、頑張ってみる!」
何を?
とは聞けなかった。純粋な友人の目は、どこまでもまっすぐ、こちらを射抜いていたから。
愛−恋。
この差を埋めてやるんだ。
あの子の目は確かにそう言っていた。
瞼の裏に差す朝日で目が覚めた。
全身が鉛のように重い。
頭からにぶい痛みが、脈動と共に広がる。
髪は汗でベタつき、口の中はツバでねばついていた。
2日酔いだ。
2度とやるまいと誓った事を、どうして何回もしてしまうのだろうか。愚かだ、人間は愚か。いや、愚かなのは俺か……。
自己嫌悪と酒の残りで頭が痛い。
回らない頭で電子時計を見ると、午前11時。
1日ゴロゴロコース確定。
今日何も予定を入れなかった自分を、少しだけ褒める。
とりあえずベタついた口と喉の渇きを何とかしたい。
自分を励ましながら、のそのそと冷蔵庫へ向かった。
何かあったかなぁと考えながら、扉を開ける。いつもは軽い扉であるはずなのに、今は鋼鉄の門のようだ。
あ。
雑多な食材の中でも目についたのは、白い皿に載せられた薄切りの梨。
女房が用意してくれたのだろうか。
皿を取り出し、食卓に置いてラップを外す。
一切れつまんで口の中に運ぶ。
その瞬間みずみずしい甘さが口いっぱいに広がる。全身に染み渡る爽やかな果汁。噛めば噛むほど梨の甘みが増幅していく。
誓って言おう。
今この瞬間、これより上手い食べ物は地球上に存在しない、と。
あっという間に5切れを平らげ、コップの水をグビリと飲む。
1日ゴロゴロコースは取りやめ。
散歩にでも行こう、と洗面台へ向かった。
もしも世界が終わるなら、
皆んな平等に死ぬことができる。
性別も種族も年齢も、
身分も人間関係も、
幸せでも不幸でも、
みんな平等に死ぬ。
周りの人と比べなくていい。
なぜなら皆、同時刻に同じ場所へ行き着くからだ。
それってすごく楽じゃないか。
まぁそんな事考えたところで、世界の終わりなど来るはずないが。