何が1番大切か。
そう問われたら私は『記憶』と答える。
記憶が無くなるなんて考えたこともなかった。
所詮空想の出来事であると、縁もゆかりも無いと、思考の端に置くこともしなかった。
私の友達が、事故で記憶を無くすまで。
「誰?」
これは、車に跳ね飛ばされた友達が目覚めて、私に放った第一声である。
事故の衝撃でこれまで記憶がほとんど消えており、今までの生活も、人間関係も、自分のことも全て忘れてしまった、と友達の両親が話してくれた。どんな慰めも無駄になるような、絶望に満ちた目で。
「誰ですか?」
再度友達が口を開く。怪訝な顔、そしてよそよそしい敬語を聞いて、少し腹が立った。
「覚えてないんだ。誰だと思う?」
「……さぁ、興味ありませんから」
揶揄ってもこの反応。私はコンクリートに話しかけているのだろうか。
「もし、あなたが嫌いな人だったらどうする?」
「どうもしませんよ」
能面のような友達の顔に、はじめて表情が見えた。表情といっても、唇の端を上げた『動作』というイメージであるが。
「どうも、しません」
どうもしない、か。
どうにもできないの間違いではないだろうか。
流石にその言葉は飲み込んで、友達の両親に礼を言ってから病室の扉を開けた。
病院の階段をタンタンと降りながら、私はぼんやりと思い出していた。
あの、全くの空白になってしまった友達の顔。
大切に抱えていた思い出が何の前触れもなく消えて、空っぽの身体だけが残った、友達の顔。
こんなに違うのかと思った。
友達がどこかに消えたような喪失感。いや、むしろ消えた方が楽だったまである。
「 」
友達の名前を呟いた。
なぜか、呟いた気になれなかった。
台風が日本の夏を攫ってしまったようだ。
肌に粘りつくような不快な暑さも、暴力に近い太陽の日差しも、全てを巻き込んで去ってしまった。
ただ、空にはくっきりとした青を残して。
台風も攫う気になれなかったのか、
空にはまだ微かに夏が漂っている。
私たち3つ子は周りの大人に、
「信号機みたいだね」
とよく言われる。
どんな時でも一度止まって考える、赤信号の姉
いつでも注意深い、黄色信号の私
お調子者で怖いもの知らずの、青信号の妹
いつも並んで3人組。噂の仲良い3姉妹である。
でも私は不本意だった。
青と赤はともかく、黄色は信号機に必要な色なのだろうか?歩行者信号には存在しない色でもある。
ある日そのように愚痴ったら、姉と妹は笑った。
「私は慎重になりすぎてしまうし、」
「私は行き過ぎて痛い目をみちゃう」
『丁度よいあなたが羨ましいよ』
そんな事、考えたことも無かった。
丁度いい。
私は無理せず、丁度いい黄色信号でいたいと思った。
彼女は何かを恐れていた……んだと思う。
それは学校にいる時の彼女の顔が、ここは戦場ではないかとこちらが勘違いするほどに険しかったから。
「この後、雨だって」
泣き出しそうな雲が浮かぶ帰り道、彼女は折りたたみ傘を持っていなかった。僕はそれを彼女と一緒に帰る口実にしようとした。母さんが入れた折りたたみ傘と僕が用意した傘。ぼくは前者を彼女に手渡した。
彼女は「降るとは限らないじゃない」とポツリと呟いて、でも結局「ありがとう」と受け取った。日本人形のような姿形の彼女に不似合いな、ピンク色の傘だった。
2人でグズグズと浮かぶ雲を見上げて帰った。
僕は彼女と話がしたかったのだが、例のあの、険しい彼女の顔がそれを拒絶していた。もうここは、学校ではないのに。
「何が怖いの?」
僕たちが別れる交差点、僕は意を決して口を開いた。
「怖い?」
「こ、怖いんじゃないの?」
キョトンとした彼女と、見当違いだったかと焦る僕。沈黙を破ったのは彼女だった。
「怖くなんか……ないよ」
意味深な間だった。ためらいが見える間。やはり何か怖がっているのではないか。そうでなければあの、
「険しい顔は何なの?」
彼女はハッとして自分の顔を抑えた。自分で確かめるようにペタペタと触っている。しばらくそうした後、彼女はふいに言った。
「……が、……い」
くぐもって聞こえない。更にベールをかけるように彼女の声に、雨音が混じりだした。
「……いの」
彼女はそれだけ言い残すと、突然走り去ってしまった。
ピンクの傘は閉じたまま。
彼女があの時言いそびれた……
僕が聞きそびれた言葉は、何だったのだろう。
また明日、傘を返してもらう口実に聞こうと思った。
彼女は無邪気に笑った。
どこまでも澄んだ、綺麗な瞳で。
さぁ遊びに行きましょう!
いつまでそこでうずくまっているつもりですか?
空はこんなにも青いのに!
その純粋さが、僕の心の傷を抉ったのだ。