子供の頃の夢だった。
空に浮かぶくじら雲に乗ることは。
もっと背が高くなったら、
青い空を泳ぐ白いくじらを捕まえられると思ってた。
勤めている会社の屋上で、
僕は久しぶりにくじら雲を見た。
けれど捕まえるどころか、触れさせてもくれない。
どこまでも広い空を泳ぐ白鯨は、大きな尻尾を優雅に振って消えてしまった。
どこだったか。
いつ通っても黒い猫が昼寝をしていた路地裏
使われない家具が放置された高架下
誰かが落としたクマの人形が置かれていた歩道橋
カーテンの隙間から差し込む陽の光を見て、もう一度行きたいと思ったのだ。
もう一度そこへ向かうため、記憶の地図をまくった。
「さあ行こう」
試合前の円陣で、キャプテンが必ず掛ける言葉だ。
相手がどんな強豪でも、逆に弱小でも、その一言で「精一杯やるぞ!」と気合が入る。いつもと同じプレイが出来るようになる。
キャプテンが生み出した魔法の言葉。
僕たちが上級生になったら言ってみたい、憧れの言葉だ。
ただ、今日はキャプテンが休みだった。
普段通り円陣を組むが、例の言葉は無い。
「さあ行こう」
誰かが言った。
しかし、なぜか心は落ち着かない。不安がザワザワと音を立て、この場を支配しているようだ。
相手は僕たちが勝ち越しているチームなのに、どうして。
「……キャプテン」
ボソリと呟く。
やはりあの言葉は、キャプテンが言うから魔法になるのだ。僕たちを支え、励まし、助けてくれたあのキャプテンだから。
僕たちのチームは結局負けてしまった。
これを機に僕は思う。
いつか、魔法を使えるキャプテンになりたい、と
瀕死の主人公が放つ最後の魔法
長い戦闘の末、倒れるラスボス
『game clear』
画面いっぱいに表示される金色の文字。
「やったぁ!クリア〜!!」
テレビの前の子供は喜んで、エンドロールを見守った。
その、裏。
消えゆく魔王を勇者は見下ろしている。
残す所が顔のみになった魔王は、呟いた。
「ふッ…ふふ…どうするんだ勇者よ。
俺がいない…『恐怖の対象』を失ったこの世界で…」
重みがある声と電子音が混ざった不快な音声に、勇者は顔をしかめる。それが面白いのか、魔王はザラザラと笑いながら続けた。
「はじめは皆んなお前に感謝するだろう。
しかし…時が経つにすれその恩恵を忘れ、恩知らずの民は反乱を起こす。…そうしてお前も倒れるだろう」
魔王が目を見開く。
「俺と…同じように…な…!!」
ノイズと共に魔王は散っていった。
勇者は魔王が居た場所をしばらくジッと見つめてから、後ろで待機している仲間に呼びかける。
「帰ろう。僕たちの物語は、まだ終わっちゃいない」
『名前には特別な魔力があるらしい』
いつの日か、ふと手に取った本に、書いてあった言葉。
名も知らぬ著者の名も知れぬ本だが、その本はスカスカな私の本棚に収まっている。
「君が名前を呼ぶ人は、全員不幸になるね」
とある企画で一緒に活動していた先輩。
彼女はギプスを巻いた腕を見ながら、乾いた声で笑っていた。
どうしようもないだろう、と思った。
しかしその場では「そうですかね」と困った顔を貼り付けるのが精一杯で、
家に帰った瞬間に、ようやく涙が溢れ出た。
新しく隣の席に座った同僚は、底抜けに明るかった。
会社内で腫れ物のように扱われている私に毎日声を掛け、企画の際にも同じチームになりたがった。
私にとって彼女の優しさは眩しく、
そして辛いものだった。
「なんで私の名前、呼んでくれないの?」
屋上で過ごすお昼休み、唐突に彼女が尋ねた。
私は口に含んでいた牛乳を吐きそうになる。
「……なんで?」
「だって、『君』とか『あなた』とか…なんか、つまんない」
そう言って彼女はぷぅと口を膨らませた。
私はしばらく青空に流れる雲を眺めて、牛乳を一口飲んで、一息吐いてから、彼女に話す決意をした。
話さなければ、ここまで私に良くしてくれる彼女に失礼になるだろうから。
彼女はじっと私の話を聞いて、終わったら「なんだー」と言って笑った。
「大丈夫だよ!私幸運だもん!」
「……幸運って……そういう問題じゃ…」
「迷信だよそんなの!」
私が保証する!
彼女はそう言ってにっこり笑った。
とある秋の朝、
私は廊下を歩く彼女に声を掛ける。
「おはよう、美波」
「おはよう!梓!」
私がはじめて彼女の名前を呼んだ日以来、
私は彼女…田邊美波と、ずっとこうして、元気に挨拶を交わしている。