泣きながら家を飛び出した。
体感1度の寒空の元へ、コートのひとつも羽織らずに、マフラーのひとつも巻かずに、手袋のひとつと嵌めずに。白い息を吐きながら駆け出した。
寒風が寝巻きの隙間から、容赦なく肌を刺す。
かじかんで真っ赤になった指先を握り込んで、私はひたすら走った。
見慣れたバス停に着くと、丁度バスが向かってくるところだった。
——よかった。間に合った。
吸うを一回、吐くを二回繰り返しながら、バスの中に乗り込んだ。踏み入れた瞬間、暖房のあたたかさが身を包む。一番後ろの席の窓際に腰を下ろした。
持ってきた財布の中には、一万円札が十枚。これで、どこにでも行けるだろう。
ここじゃなければよかった。
こんな田舎から抜け出せれば、逃げられれば、どこでも。
そうだ。街へ行こう。
高いビルがそびえ立つ、車がビュンビュン走っている、おしゃれな人たちが歩く、
そして、私を知る人が誰もいない、街へ。
私が光で、あなたが影。
私が動けば、あなたが付いてくる。
私が泣けば、あなたが怒る。
私が笑えば、あなたが微笑む。
私とあなたは表裏一体で、ずっと一緒だった。
でもある日、なんの前触れもなく、
あなたの気配が消えた。
私が動いても、付いてくる人は無い。
私が泣いても、怒ってくれる人はいない。
私が笑っても、微笑んでくれる人はいない。
私はひとりになった。
「あんたの前に出なくなっただけだよ」
心の底から声が響いた。
懐かしい、あなたの声。
「私はずっと、ここにいる」
とくんと心臓が鳴る。
全身に血液が行き渡って、力がみなぎる。
あなたが、私を励ましてくれているような気がした。
そうやって私たちは、
光と影として生きていく。
『君は天使のように旅立って行った』
「実は、私もう死んでいるんだよね」
これが、屋上に立った君の第一声だった。
空は澄んだ青色が、絵の具のように塗られていた。
顔面が硬直して動かなくなってしまった僕にかけた君の言葉は「うそうそ。冗談だって!」……であって欲しかった。しかし、現実はこうだ。
「嘘だったらよかったのにね」
君はこれを『マジ』だと。何かを諦めてしまったようなため息と共に言ったのだ。
僕は質問をどストレートにぶつけた。
「……なんで死んだんだ?」
「殺されたの」
即答。自分の死因ってのはもう少しためらいがちに言うものかと思っていたけど、君は違った。
「あれはねー、塾の帰りだった。暗い夜道を歩いてたら男の人がねー」
それどころか、ことの顛末までこうして続けて話し出すのだから。導入までちゃんとこなしている。
「……あーごめん」
しかしここから言葉が紡がれることはなく、小さな声で君は謝った。
「嘘」
うそ?
「今までの話。嘘だよ。私、まだ死んでないの」
ごめんね。と申し訳なさそうに笑う。
別に謝る必要はない。友達同士の軽口として片付けられる範囲であると思う。それこそ、明日隕石が落ちて世界が滅ぶ……程度の。
しかし、軽口を言ったと思えないほど、君の目は黒々としていた。
数分の沈黙後、チャイムが響く。
「あ、チャイムだ。もう帰ろう」
居心地が悪かった僕は、そう言ってさっさと踵を返そうとしたが、君がついてこない。
振り向いたら君は、いつの間にか高いフェンスを乗り越えていた。強い風に、セーラー服がはためいている。
君がこちらに気づいて、優しく微笑む。そして叫んだ。まるで舞台の上で台詞を読む役者のように。
「私、 になりたかったの!!」
一瞬、映画のワンシーンを見ているかと思った。君に魅入ってしまい、動くことができない。
そして、
空気が冷え込む帰り道、隣で鼻を赤くしながら歩くあなたが呟いた。
「好きなの」
「何が?」
唐突な発言に思わず聞き返す。
「雪だよ、雪」
雪にしてはまだ早い季節だ。
そう思いながら空を仰ぐ。どんよりとした灰色の雲、湿気をまとった冬の匂い。
「明日降るかなぁ。降ったらきっと喜ぶよ」
それは、あなたの妹の事だろう。治らない病気だと告げられ、病室から出られない妹の。
「早く降ってくれないかなぁ」
間に合わないよ。
あなたは空を見上げた。笑っているのに、目の端に小さく涙が浮かんでいる。
妹の為に、雪が降ることを祈る。
それは、本当に小さな愛だった。
「ごめん」
それがあなたの最後の言葉だった。
ただ、横断歩道を歩いていただけだった。
悲鳴のような音が響いて、気づいた時には視界いっぱいのトラック。私は迫ってくる死の音に、なす術もなかった。
「絵里香!!」
呼ばれた。と思った瞬間、私は地面に投げ出されていて、代わりにあなたが倒れてた。奥にはひしゃげたトラックが転がっていた。
頭から血が広がって、
足が変な方向に曲がって、
あなたはピクリとも動こうとはしなかった。
思わず駆け寄った私に、あなたは呼吸も途切れ途切れに呟いた。たった三文字。
何であの時、あなたが私に謝ったかは分からない。
謝るのは私の方なのに。
あの時死ぬべきなのは、私だったのに。
枯れるほど泣いた後、胸に何かの塊が残った。
あたたかくて、熱い。
それは私を励ましているような、
守ってくれているような気がした。
そうやって、
あなたは私の胸の中で、
ずっと、焔として生きている。