『どこへ行こう』
真の前で燃え盛る蒼い火は、生きている人を、家を、そして何かが引っ掻いた、もしくは噛んだ跡のある死体を、全て飲み込んでいく。
消火しようとしている馬鹿どももいるみたいだけれどこの火は消えない。この火は彼の火だから。
「ここら辺の全てはもう終わりだな」
「火、消えないんでしょ?」
「ああ。俺の魔力を使って出したからな。この村のやつらじゃ消せない」
私の隣に立つ彼を見る。何を考えているのかわからない、いつもの仏頂面だった。
彼——清廉煌驥は魔力を持っている。サラサラの白髪はその発現した精霊により黒から白に変わったらしい。至るところが破けていたりする服から覗く鍛え上げられた筋肉。極め付けは育った村を燃やしても感情を見せない冷徹さ。
そんな彼だからこそ私は恋をし、共に村を抜け出そうと持ちかけた。
「小夜」
「なに、煌驥」
「後悔は無いんだな」
また目前の蒼く輝く火へ視線を向ける。体を焼かれ悲鳴を上げる人間は面識のある者が多い。……まあ、私達を虐めていたやつらだけど。
「ある訳ないでしょ。それに、もう後悔なんてしても遅いし」
「お前の親もじきに死ぬぞ。良いのか?」
「…………」
ここから数十メートル歩くと私が今まで住んでいた家がある。そして勿論その中には両親がいたはずだ。
あの人達は私に、いや、私だけにとても良くしてくれた。虐めも出来るだけ止めてくれていたし、何か暴力を振るわれたわけでも無い。……けれど——
思わず笑みが零れる。自分の親が死ぬ? くだらないしそんな事を考える事すら馬鹿馬鹿しい。
「良いに決まっているでしょ。煌驥を助けてくれない人間に生きている価値なんてないから」
後悔なんて微塵もない。憎しみもない。私に残っているのは彼への愛と、ここにいたゴミを片付けられた気分の良さだけ。
「……お前ならそういうと思った」
愛しの彼は呆れたように手で顔を覆う。そんな仕草にも愛が溢れてしまう私は、一途な子でしょ?
「清々しい気分だよ、本当に! あいつらを使った炎は美しいねぇ! あっはははは!」
夜空で煌めく月光は私達を祝福しているようで、それがまた心地良い。
「ねえ、煌驥。もう私達は自由だよ。何にも縛られずに生きていけるの」
隣で微動だにせず立つ彼を見る。私の視線に気づいたらしい彼は、私と目を合わせてくれた。
……ああ、かっこいい……殺してしまいたいくらいだよ……
「どこへ行こうか?」
※※
俺の出した蒼炎を数分見ていた彼女、春夏冬小夜は俺に問いかけてきた。
「どこへ行こう、ね。決まってないのか?」
「うん。だって煌驥とならどこでも良いもの。貴方と一緒に居られれば天国でも地獄でも、たとえ蒼い火の中でも、ね」
ふふふ、と心底楽しそうに笑う小夜に、何度目かわからない狂気を感じた。
彼女は本気で思っている。その理由は瞳と、宿る炎の揺らぎで分かった。
昔から俺は魔力で炎を出せるのと同時に、その人を見るとなんとなく考えている事や気持ち、その度合いまでもが理解出来た。俗に言う能力、後者はその副産物といったようなものだろう。
だからこそ昔から気味が悪いと虐げられてきたのだが、それを止めていたのが小夜だった。
今は出していないが小夜はある狼を使役している。ある本に書かれていた深く、深く主従関係を刻み込む禁忌の上級使役魔法。特殊な魔法陣を描き、その陣の中に術者本人の血と使役したい動物の血を垂らし、人間の心臓を3つ置いて呪文を唱える。
その儀式が成功した結果、小夜はその獣を手に入れた。狼と言っても森に住んでいるようなやつじゃない。体長は十メートルなんて軽く超える異形だ。
村を燃やす前、死なない程度に村の奴らを痛ぶったのもその狼、そしてその主である小夜だ。
狼を村の外で巡回させて閉じ込め、蒼炎から逃げられないようにする。単純であり効果的過ぎてしまった作戦だ。
使役獣の強さは消費した術者の血の量で決まる。そして彼女は儀式をする際、顔色一つ変えず自分の右手をナイフで刺し、挙げ句の果てにそのナイフを捻ったりして血を出していた。
痛がる素振りもせず淡々と儀式をこなし、その時の小夜はえみをうかべて俺にこう言った。
「愛してるよ、煌驥」
その瞬間、俺の全細胞が恐怖を訴えたのを覚えている。彼女を動かしているのは愛でも、他のなんでもない。
愛という言葉に隠れた莫大な狂気だ。
「——え、ねえ、どこへ行くの?」
「っ……あ、ああ、どこへ行こうか……」
深く思考をしていた為か、かけられていた言葉に気づかずたじろぐ。
「決まらないなら私が決めるよ?」
コテン、可愛らしく小夜は首を傾げ、言う。
どこへ行こうか。私が決める。その何の変哲もない言葉でさえ、俺には何か裏があるのではと思ってしまった。
『ねえ、煌驥。私達が行く最後の場所は——炎の中だよ』
『影絵』
私には妹が一人いる。
名前は苺《いちご》。可愛くて、家事や勉強も人並み以上に出来てコミュ力もある。明るい良い子。
なのに姉の私は暗くて、口数が少なく社交性なんて皆無の女。取り柄と言えるものも一つしかない。
そんな私が姉でも苺はずっと笑顔を向けてくれて、慕ってくれた。
ある日、私は誓った。せめて苺が隣にいる時は迷惑をかけないように笑顔でいようと。
その日から私は変えた。学校でも誰と会うにも苺がいる時は笑顔で、いない時はいつも通りの無表情。
取り繕った笑顔すらも不気味だったらしい私は気味悪がられ、対する苺は天性の社交性と愛される性格で様々な人に好かれていった。
そこで私に付けられたあだ名は太陽のように明るい苺の影、そして絵のような感情がなく不気味な笑顔を浮かべ続ける私、影と絵を足して『影絵女《かげえおんな》』と言うらしい。
そのあだ名を言われた時に隣にいた苺は怒ってくれたけれど、私が止めた。
だってそんなやつら、相手にするのも馬鹿馬鹿しいでしょ? それに、黙らせることすらいつでも出来る弱者達だもの。私は雑魚どもが大嫌いなの。
私が好きなのは苺と、強いと認めた者だけ。
「鏡花《きょうか》姉様!」
深夜、月光の下でベランダにある椅子に座り過去について物思いに耽っていた時、愛しの妹の声がした。
何故か『玲瓏《れいろう》』と大きくかかれたTシャツを着ている。それは昔から苺が好きな言葉だった。
「どうしたの、苺? 今日は起きるのが早いのね」
「そうなんです! だって姉様はもう仕事に行ってしまわれるのでしょう? 行ってらっしゃいと言いたくて!」
「そう。ありがとう、苺」
私は目の前の小さめなテーブルに置いてあるカップを手に取り、残りのコーヒーを飲み干す。
「今日はどう言ったお仕事なのでしょうか?!」
「清掃ね。簡単な掃除よ。すぐに帰ってくるから」
「わかりました! 一応ご飯を作っておくので気が向いたら食べてくださいね! 家事は全て私がやりますのでそこもご安心を!」
「ええ、ありがとう。いつも助かっているわ」
「こちらこそありがとう御座います、姉様! 姉様がお金を稼いでくれるお陰で、そして一緒にいてくれて幸せです!」
「私も幸せよ。じゃあ、行ってきます」
「はい!」
明るい笑顔に見送られ、私は自宅の扉を閉じた。
夜という影を纏っている街を歩き出す。仕事は大体この時間に来る。
タイミングが良いというべきか、ピリリリ、と着信音が鳴る。それに出ると、男の声が耳を通った。
「凶華《きょうか》、依頼だ。場所は——」
依頼だけ聞き、すぐに通話を切って目的地へ向かう。
仕事内容は清掃だ。……そう、清掃。弱者の、ね。
ある建物の前で立ち止まり、地面を蹴り上げて飛び三階の窓を突き破って中へ入る。
「……は? だ、誰だ——」
汚らわしい音を出す喉をナイフで掻き切り、標的の近くにいた弱者どもを全て殺す。
「お、おお、お前は——」
「黙れ」
弱者の声を聞くたびに苛々する。命乞いをするやつらに吐き気を催す。死に際で泣き喚き、最期まで抵抗しない奴らを心底軽蔑する。
そいつらを見ていると、昔の何も出来ない自分を受け入れ、虐めなどを許容していた弱者《わたし》と重ねてしまうから。
「ま、待て! どうせ金だろ?! そこの金庫に十億入ってる! それはナイフ程度じゃ傷すらも付けられないものだ! 俺を見逃したらパスワードを教えてやる!」
「まずはパスワードを教えなさい。確認できたら見逃すわ。教えなかったらすぐに殺す」
「……本当だな?」
「ええ、約束は違えないわ」
そして男は15桁ほどのパスワードを呟き、私はその金庫が開いたのを確認し、また男に近づく。
「な、なんだ? もうパスワードは教えただろ!」
「約束を守るなんて思っていたの? 本当に弱者は浅はかで救いようのないゴミしかいないのね」
右手で握っているナイフで男を裂き、返り血がスーツに付く。
その薄汚いゴミが撒き散らした血に対する苛つきを抑えながら予備で持っていた鞄に金を詰める。ゴミどもの所有物だったとしても利用出来るのならする。それが私だ。
私の取り柄。それは裏社会で生き抜く才能、であると前に先輩から言われた。先程詳細な依頼の連絡をしてきた男が先輩だ。
その時、狙ったかのようにまたスマホが鳴った。
「凶華、依頼は終わったな」
「まだ終わっていなかったらどうするのですか。私が死ぬかもしれないのですよ」
「お前は死なねぇよ。なんたって裏社会ではその名を知らない者はいない『影絵ちゃん』——」
「殺しますよ、先輩」
「ごめんて。お前が言うと冗談に聞こえねぇからやめてくれ。でも他の奴らが言ってる裏社会の神、『影の神像』も嫌なんだろ?」
その二つ名は聞くたびに恥ずかしくなる。最初に言ったやつも広めたやつも殺したいくらいだ。私は厨二病じゃない。
「勿論。絶対にやめてください」
「なら『影の神像』を紫《むらさき》ちゃんが可愛く言い換えた『影絵ちゃん』でどうだ? ……くく、本当に傑作だよな」
「紫さんも先輩も次会った時覚悟してくださいね」
表でも言われている名を何故先輩達にも言われなければならないのだ。しかも確実に馬鹿にしているし。
「ごめんごめん。それで本題なんだが、後で紫と叶《かな》と一緒に四人で飯行かないか?」
「一時間後なら空いています。それより前は妹が寝ていないと思うので無理です」
「わかった。んじゃ、一時間後に」
通話が切れる。それと同時にため息も出た。
影の神像は勿論却下。だからと言って影絵も許容したくない。影絵は過去の私のあだ名だから。まあ現在もかはわからないけど。
いや、まずは家に帰って準備をしなければ。血塗れのスーツで居酒屋なんて行けるわけないし。
私は裏社会での信条を呟き、自宅へ歩みを進める。
「弱者血戮《じゃくしゃけつりく》、強者玲瓏《きょうしゃれいろう》」
『春恋』
「ごめんね、課題が終わらなくてさ〜! 待った?」
「……うん、結構待ったな〜」
「ちょ、そこは待ってないって言うとこ! ……ごめんね、煌驥」
「冗談。本当はそんなに待ってないよ。行こうか」
「うん」
高校に入学して二年。もう一年以上付き合っている彼女の春夏冬小夜と校門で待ち合わせをしていた。
小夜は僕から見てもとても可愛い。それは僕の通う学校のカーストでもトップに位置するくらいには。
大切に手入れされているのがわかる茶色のボブ(親の遺伝らしい)、整った顔立ちは見た人々を惹きつけてしまうほどに綺麗だ。誰にでも分け隔てなく接する明るい性格、勉強は少し苦手みたいだけど運動は得意な、そんな自慢の彼女が春夏冬小夜である。
「本屋だっけ?」
「そうそう! 最近出た漫画が面白くてさ! 買いたいと思って! ごめんね、付き合わせて」
「謝らないで。ほら、早く行こう」
「うん!」
小夜がさりげなく手を繋いでくる。僕もそれを握り返し、歩き出す。
「今日学校でさ、叶《かな》ちゃんが授業中に寝てて先生に——」
「そうなんだ。大丈夫だったの?」
小夜と雑談しながら本屋へ向かう。少しの時間でも共有出来たことが心の底から嬉しくて、それだけで笑顔になってしまう僕はチョロいのかなと思ってしまう。
本屋に着いた小夜は目当ての漫画を買い、小夜の家へまた並んで歩く。
「送ってくれなくても良いよ?」
「大丈夫、送らせて。もう暗くなっちゃうしさ。小夜は可愛いから怖いんだ。信頼してないって訳じゃないんだけど、許して」
「……そ、そっか。なら、頼もうかな」
空いている手で赤い顔を隠すその仕草は愛らしく、心臓が激しく脈打つ。
『…………』
会話が無くなってしまい、僕達の間に静寂が訪れる。
「……ねえ、煌驥」
「ど、どうした?」
いきなり話しかけられて動揺し、声が震えた。
「……ありがと」
「……うん、どういたしまして」
片方の手から伝わる温かい感触は柔らかく、そして僕の手より小さくて、僕は笑みを浮かべた。
ある春の夕暮れ、橙色に輝く街に恋の花が咲いている。
『風景』
「まま〜! はやく〜!」
「千晴《ちはる》、走ると転んでしまいますよ」
公園で走る一人の小さな女の子。そして仕方なさそうにしながらも楽しそうな笑みを浮かべる綺麗な女性。
俺は大切なその二人のことを眺めながら先程買ったブラックコーヒーを飲む。
今から数十年前、突然日本に謎の化け物達が襲来した。
しかし一体一体はそこまで強力ではなく、銃などでも対応出来た。
問題はそこではなく、化け物達の数だった。銃や人員が間に合わず、日本全土を襲い、殺人や建物を壊したりなどの壊滅的被害を与えた。特に首都ら辺は多く、他よりも更に多くの被害を出した。数は日本国民なんて軽く超えるだろう。
そこで国の中枢は考えた。どうすればそいつらを駆逐出来るのか。考え、考え、一つの答えを出した。
眼には目を、歯には歯を、なら化け物には? ……そう、化け物をぶつければいい。
色々な研究を繰り返し、非人道的な事を幾度もこなした末に生まれたのが一人の小さな女の子だった。
見た目はただの子供。戦うところなど想像も出来ない無力そうな女の子。
だがその全貌は凄まじく、化け物数百体分を超越する身体能力、五感は突出している動物と肩を並べられるほど。反射神経や動体視力は最早研究者達の理想を超え、様々な殺しの技術をプロレベルで使用出来る。どうやってこのような人間を造ったのか理解が出来ないほどの者が生まれた。
あのクズ研究者どもは銃などの武器、そして兵器《しょうじょ》を用いて化け物達を滅殺した。
こうして日本に平和が訪れた訳だが、問題が出た。その少女をどうするか、だ。
その研究者ども、いや、父さんとその仲間達は考えた。もし国に反逆すればまた危機に陥る。なら殺す? あんな化け物をどうやって?
件の女の子は檻の中で悲しそうに座り、何もせずにただただ処遇を待っていた。
その生きる希望を無くした闇を宿す瞳を、姿を見た瞬間にまだ幼かった俺は思案し、父さん達にこう言葉を突き刺した。ある陽の光が美しい時だった。
『俺はこの子を——』
「あなた。千晴が遊ぼうと呼んでいるので来てください」
過去を振り返っていたら思いの外時間が経っていたらしく、美陽《みはる》が俺の目の前にいた。
光の混ざった吸い込まれそうな瞳。整った目鼻立ちと百八十を超える長身。女性らしさを残しながらも引き締まった鍛えられている身体。彼女の綺麗な心を表しているかのような白いワンピース。ポニーテールにしている長い黒髪は宝石のように美しい。
「……ああ、わかった」
美陽が俺に手を差し出してくる。その手を取って優しく握り、愛娘の元まで並んで歩く。
人間らしい温かい手。その心地よい感覚に意図せず口角が上がる。
「どうしたのですか、唯翔《ゆいと》さん?」
「……いや、こうして君と歩けることが嬉しくて」
素直に言葉を出すと、美陽はくすくすと可愛らしく笑う。
「唯翔さんのお陰です。まだ小さい唯翔さんがあの時の私に嫁にすると言ってくれた——」
「その話はやめてくれ。恥ずかしい」
理解している。あの時の俺の言葉は偽善であると。一目惚れした訳でも、長い時を経て愛を育んだ訳でもないから。
でもこうして隣にいてくれる。笑っていてくれる。この先の何十年もの刻を共に笑いながら歩んでくれようとしている。それだけで俺の偽善は容易く揺れ、変化した。
「でも私は嬉しかったんです。たとえ唯翔さんがどう思っていたとしても、ああ言ってくれたことが。兵器としてしか価値がなかった昔の私を必要としてくれた」
美陽が俺と顔を合わせ、幸せそうにはにかんだ。
「大好きです、唯翔さん。あの時、私を救ってくれてありがとう御座いました」
「ッ!」
泣きそうになるのをギリギリで堪える。その言葉は俺が望んだ言葉だから。
次の瞬間、娘のいる方向から悲鳴が聞こえた。
反射的にそちらを向くと、娘に向かって自動車が走っているのが見えた。もう十数メートルというところだろう。
止める? いや無理だ。千晴から近いと言っても自動車が轢く方が先だろう。
間に合わない、と直感で悟った時、俺の片手から温かさが消えた。
バゴン! と音がした数秒後、俺が目を開けると、ある長身の女性が両手で車を止めていた。
「ふう。車が凹んでしまいましたが許してもらえるでしょう。千晴、怪我はありませんか? 目を離してしまってごめんなさい」
「ままも、すなのおしろつくる?」
「魅力的な提案ですがまずは唯翔さんも一緒に運転手と話を——」
突如として呆然としていた俺の前に爆速で近づいてくる美陽。
「あ、あの……唯翔さん……」
「え? ああ……ごめん。何も行動出来なくて。本当にごめん。情けない男で」
「いえ、そうではなく……」
目の前の美しい女性《つま》は不安そうに上目遣いで俺を見てくる。
「こんな私のこと、嫌いになりましたか……? 怖かったですよね……?」
こんな、とは素手で自動車を止めた事だろう。確かに人間業ではない。……だが、余りにも見当違い過ぎる。
「なる訳ないし、怖くもないよ。ありがとう、千晴を守ってくれて」
もう二度と、檻で見たあの瞳にはさせない。必ず幸せにする。
だって——
「俺も大好きだよ、美陽」
愛しい妻の不幸を願う馬鹿野郎が、どこにいる?
「……ありがとう御座います、唯翔さん。千晴を連れてきますので、その後運転手さんと話しましょう。気絶している為逃げられないので安心してください」
いつも通りの笑みに戻った美陽は、また小夜の元へ駆けていく。その速度も人智を超えていて愛らしい。多分俺と話している時も千晴の近くに何かの気配がないかを探っていたのだろう。
妻と愛娘が手を繋ぎ、話をしつつ俺の方へ歩いてくる。その顔にはどちらにも笑みが咲いていた。
この目に映る「もの」は、輝いていた。
『君と僕』
君と僕はどうしてこんなにも違うのだろう。
君は優しくて、綺麗で、勉強も運動も裁縫とかだってなんでも出来る。みんなには学校のマドンナとか言われているような人。
僕は優しく無いし、特別イケメンという訳でも無い。勉強、運動は平均で、何をしても普通で。陰キャな僕はいつも教室の隅に居る。
才能? 遺伝? 努力? 人間というのはどうしてこんなにも違うのかな?
不条理だ、理不尽だって嘆いても誰にも響かない。どうせ僕の独り言だから。
学校のマドンナであり高嶺の花にないものねだりをする僕は、きっと世界一身の程知らずで愚かな人間なのだろう。
……な、はずなのに——
「煌驥君……今日も一緒に帰らない……?」
遠慮がちに僕へ話しかける人の名前は春夏冬小夜。何をしても結果を出して、クラスで常に中心にいる学校のマドンナ。
「いや! その! 用事があるとかなら断ってくれても良いから!」
頬を紅く染め、慌てている君はとても可愛い。
放課後の窓が通す橙色の光は、綺麗な彼女を更に魅力的にする。彼女の美しい髪を揺らす強い風に攫われ、爽やかながらも良い匂いが鼻へ流れていく。
君に見惚れて固まっていると、彼女は鞄を持って立ち去りそうになっていた。
「ご、ごめんね! 私先に帰るから——」
「……いや、特に用事は無いよ……だから、小夜さんさえ良ければ……」
急いでいるはずなのに小さい声で、しかも大切なことは言えない返答しか出来なかった自分に嫌気が差す。こんな自分が嫌いだ。変わりたいと思っているのに変われない自分がもっと嫌いだ。
「……! うん、なら良かった……! じゃあ一緒に帰ろう!」
こんなにも情けない僕に君は太陽のような明るい笑顔を向けてくれる。その瞳に、笑顔に、温かい心に、何度救われてきたのだろうか。
だからこそ一緒にいては駄目なんだ。このままじゃ僕がその光に魅入られてしまうから。
「……でも」
「うん? どうしたの、煌驥君?」
「……僕と居たら小夜さんが馬鹿にされてしまうよ……噂にでもなったら……」
無意識に視線は下を向き、手には力が入る。僕は君の隣にいては駄目だと心の中で言い聞かせ、割り切る。
先程より冷たくなった僕の手を何かが優しく包んだ。
「大丈夫。私が煌驥君と帰りたいだけだから気にしないで」
また君が微笑む。僕と噂されて良いことなんてないはずなのに、どうして笑えるのだろう。
「ふふ、煌驥君はやっぱり優しいね」
「え?」
言葉の意味がわからず、僕が首を傾げる。
「……僕は優しくないよ」
「ううん。優しいよ。さっきも私のこと気遣ってくれたし。この前は迷子になってた子供に話しかけてたり、困ってたお婆さんの荷物を持ってあげてたりしたよね」
「それは、普通のことだから」
「それを普通って言えることが凄いんだよ。話すことが苦手なのに、困っている人がいたら迷わずに手を差し伸べる事が出来る」
君は窓の方へ歩き、窓から少し乗り出して校庭を覗く。数秒経った後乗り出した体を元に戻し、僕の方に向き直っていたずらめいた表情で口を開いた。
「……そんな君だから、私は——」
不意に開いていた窓から風が入り、彼女の言葉を掻き消す。
「……ごめん。最後の方が聞こえなかった。もう一回言って貰えると助かるんだけど……」
僕の言葉に返答はなく、目の前に立つ君は僕から顔を背けてしまった。心なしか耳が赤い気がする。
「ど、どうしたの……?」
体調不良ならすぐに帰らなければならない。小夜さんが学校を休んだら色々な人が悲しんでしまうだろうし。
「な、なんでもない……!」
僕に見せないように顔を背けながら君はこちらへ歩いてくる。
「ほら、早く帰ろう!」
「あの、ちょっ……手が……」
突然手を握られ、顔が熱くなる。だがそんなのお構いなしというように僕の手を握ったまま廊下を走っていく。
流石と言うべきかとても足が速く、僕の方がすぐに息切れしてしまう。
「あの……! 少しだけ、スピードを緩めて貰えると嬉しい、です……!」
運動不足のインドア男子高校生による必死な呼びかけが功を奏したのか、君は止まってくれた。
「ご、ごめんね……僕あまり走るの得意じゃなくて……本当にごめん……」
「……私もごめんね。急に走っちゃって」
気にしないで、となんとか言葉を出しながら息を整える。
「ねえ、煌驥君」
「ど、どうしたの?」
振り向き、僕と目を合わせた君は天女のような笑顔を浮かべ、他でもない僕に言う。
「煌驥君は良い人だよ! 私が保証するから、自信持ってね!」
「……なんか、いきなりだね」
「ごめんね。でも言いたくなっちゃって」
「……あはは」
君と僕は何もかもが違う。
でも、君には君の、僕には僕の良いところがあるのだと、そう言ってくれているのかなと勝手に思うのだった。
「ありがとう、小夜さん。僕を観てくれて」