ただ記す

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5/22/2026, 8:39:00 AM

『心は透明で』

うわー相変わらず好きなテーマだなあ。
大忙しな日々を終え、かなり前回から期間が空いてしまったけれど、なんとかここに戻ってこられた。
やっぱり毎回、題材を見るたびに好きだ!!と思ってしまうな。「心は透明」だけで終わらず、「で」と書いているところに、心は透明なだけではない、という意識を感じさせるな。

私は透明なものが好きだ。なぜかと言われると難しいけれど、光が好きだからだろうか。透明なものは、光をとても美しく見せてくれるような気がする。唯一無二の魅力がある。

今回の「透明」という言葉は、物理的な意味にも心理的な意味にも考えられるように思う。
そうだな、まず物理的には…心は目に見えない、というところが挙げられるかな。そのあまりに抽象的なものを、少しでも捉えるために、人は心以外の要素をなんとかかき集めて生きている。どうがんばっても物理的に触れることができないそれは、よく考えるととても不思議だけれど、そこに美しさも感じられてしまうな。

心理的なところでいうと…
透明というとこう、澄んでいるだとか、そこから考えて、なにか純粋なものを連想させられるけれど、心は必ずしもそうではないように思う。とはいえ透明でないと駄目なわけでは決してなくて、私自身、心については透明な部分とグラデの部分と穢れているとされる部分、全部ひっくるめて大好きなので… それが人間らしさというのだろうか。
あとは、先程の話と少し繋がるけれど、心は自身の姿が見えないかわりに、それ以外のまわりに変化を作り出しうる。そしてそれは大きかったり小さかったり… 例えば表情とかは分かりやすい。本人の意志に関係なく、色々通り越して顔にそれが現れたとしたら、そういうところも透明だ、といえるかもしれない。けど逆に本人の意志と真逆な表情だって、できる人にはできるだろうし、ああでも、それも心の作用によるものか……
なんだか考えれば考えるほど分からなくなってくるなあ。

多分前提として、心っていうのは分からないものだ。正直透明だ、と言い切るのも難しい気がする。その心をもつ本人によっても、それを感じ取る他人によっても、全然変わってきてしまう。境界がわかりづらい、という点でも透明といえるのかな… そもそも境界があるのかすらもわからない…

色々書いたけれど、素直に…『心は透明で』って、とても綺麗だな。もし、ある人が誰かの心を透明だと感じる瞬間があったなら、その人はきっと相手の心に見惚れたのだろう。

今回の文章を書いたことで、分からないということが分かった気がする。
…あれ、でも何かが分からないことって「不透明」って言うよな。おおお!面白くなってきた。

…全くまとまりがないけれど、まあいいか。
心は透明で、また不透明でもあるのだろう。

(十)

5/7/2026, 10:25:57 AM

『明日世界が終わるなら……』

おー…
いかにも「お題」という感じのお題だな。 
意外に誰もが考えたことがあるかもしれない。
このお題はなかなかに難しい。よく聞くのは、「今までと同じように過ごしたい」人と、「いつもと違うこと(やり残したことなど)をしたい」という人がいるような気がする。そうだな、私としては世界が終わる前に人類が終わるのではないかなー…などと考えているのだけれど、今回はお題に忠実に、世界が終わるということで考えてみよう。

…というか、世界が終わるってどういうことだ?
こうやって私はまた…ズレたことを考えるものだなあ。明らかに今のは、「明日世界が終わるなら自分はどうするか」を書く流れだっただろう。
けど、そういう変な思考の飛び方も私らしいと思うから、ちゃんと考えてみる。
例えば宇宙が終わるとして、それは世界が終わったことになるのだろうか。少なくとも人類にとってはそれは終わったと等しいのかもしれない。けれど…「世界」って言ってしまうと、もう宇宙とか地球とかそういうの全部ひっくるめて、とにかくもう全部なくなるんです、というニュアンスがあるような気がする。ということは、人類が終わるのとは違って、世界が終わる場合、私達が生きていたという証明になる遺物だとか建築物だとか、そういうのは全部遺せないということだ。少なくとも今の時点では。
…じゃあ、たとえば次の新たなる生命体に向けて、人間という古代生物としての歴史物を遺そうとしても、無駄なんだ…

私は絶対そんなことしようとは思わないけれど。

というか、世界の最後とかわからなすぎる。どうやって終わるんだよ。なんで人間はそれを前日までに把握できたんだろう。…流石にこれは考えてもわからないかな〜妄想になるな。

さて、明日世界が終わるなら、実際に人間たちはどうなるんだろう。私は確実に、秩序は終わると思う。やりたい放題する人は多いだろうし、殺人とか増えそう。今までやってみたかったけどできなかったことをする人が多いだろうから。一回は人殺してみたいと言うような人は多分割といる。あとは恨みとか…? 私は幸せなことに恨んでいる人はいないし、もし人を殺しでもしたら、確実に終末の日を最悪の気分で終えることになるので、絶対やらないと思う。でも無差別殺人には気をつけないとな。自分の思う理想の世界最後を叶えるためには、防弾チョッキとか買うべきか…
あとは逆に、自殺する人もいるかもしれない。世界が終わる前に自分の意思で死のう、という人。

あとは、大切な人に思いを伝える人は多いと思う。恋愛関係であるならば、未来を恐れた結果にその思いを伝えられない人が多いだろうから、もう未来とか殆どないし、言ってしまう人はたくさんいそうだ。…けれど逆に、今まで望みがまったくないと思っていた片思いの人とかは、少しでも希望を持った状態で死にたいから、と、あえて何も言わずにその時を迎える人もいるのかもしれない。……切ないなあ…考えただけで胸が苦しくなる…

…もしかしたら、世界最後の日に新たに、大切な人ができることもあるかもしれない。それこそ、今までの気持ちをお互いに吐露したりして。ああ本当はお前、そういう気持ちだったんだなってなったりして。それで一緒に過ごして、もっと早くお前に伝えてればよかったな、そしたらこんな時間をもっと過ごせたのかもなとか言って、でも最後のときには一緒にいれただろ、みたいな…あああ…うわああ…泣きそうだ…!やめようこの話は…!!この場でこんなに暴走したのは初めてだ、つい妄想が…こういうのは大好きだけど…このままだと、朝に駅の待ち合わせ場所でなぜか一人で泣いてる人になってしまうから、やめておこうと思う。…こういう関係性が大好きなんです。恋愛とかの枠にとらわれず…

そろそろ、私自身がどうするかを考えてみるべきかもしれない。正直その時になってみないと分からないところはあるだろうけど…以外にも想像がしやすいのはなぜだろう。とはいえ私は優柔不断だから、決断を咄嗟にできずに、なにかをやり残したりしそうだな…
まず、家族に今までの思いは伝えたいし、いちばん一緒にいたい。とても大切な人たちだから。それと、友だちだな。友だちに会いたい、少なくとも電話とかでは話せたらいいな。けど、相手にも他に大切な人がいるだろうから…噛み合わなかったりもしてしまうのだろうか。
あとは、家族みんなで、好きな料理をつくって…いつものように食卓を過去みたいな。ご飯を楽しめるというのは、すごく幸せなことだと思う。
私はもしかしたら、今までの生活を振り返って噛みしめるような終末を過ごしたいのかもしれない。

きっと今の人間たちは、『世界が終わる』とでも言われないと、本当の気持ちや行動を開放することはできないのだろうな。そんな状況であっても、ぜんぶは開放できないかもしれない。

世界が終わることは、死に近いと思う。
死んでしまったら、その人にとっての世界は終わったといえるかもしれない。
もし、毎日『明日世界が終わる』と言われる日々が続いたら、結局は今と変わらない生活になるのかもしれない。

生きるということは、常に明日に世界が終わると言われ続けながら過ごすことなのだろうか。

(九)

5/4/2026, 12:51:58 PM

『耳を澄ますと』

耳を澄ましたとき、聴こえてきてほしいものは何だろう。

そうだな、思い出してみよう。私は今まで、どんな音に心を動かされてきたかな。

うーん…

森の中にいるとき…かもしれないな。鳥のさえずり、川のせせらぎと、木々のさわさわ…とした音たち。
…なんか私、自然の音が大好きなんだな。まさかこのテーマでこれらが思い浮かぶとは思わなかった。

どうしてこんなにも、自然の音って良いのだろう。本当に心地がいい。癒やされる。まさに、心が洗われるといったところ。わたしは音だけでなく、目で見るのも、香りで感じるのも…全て好きなんですけどね。マイナスイオンとか大好き。
人工物といったって、人間だって自然の一部なのだから、その人間が作ったものも自然の一つであるとは思うけれど。やっぱり、私たちの呼ぶ「自然」というものには、特別な何かを感じる。
自然の面白いところは、先程言ったように癒やしを感じる一方で、得体のしれない漠然とした恐怖も感じうることでしょうか。自分たち人間を超越するような、力のようなものを感じるのかな。とても不思議だ。
人間はたぶん、未知に恐怖を感じやすいだろうから。
自然にはどこか、未知を感じる。具体的に何かと言われると…難しいけれど…
何千年何万年として、私たちの知る世界で屹立してきた自然。調和を保って。ただそこにいる、そんな雰囲気。
木だとか、簡単に切り倒せるはずなのに。
動物も、今では人間が好きなように狩ることができる。
なのに、五感すべてで

「ああ、敵わないな」

と感じさせる何かを持っている。

けれど、そんな自然に愛らしさを感じてしまう自分もいる。

本当に不思議な存在だな。

ちなみに…今耳を澄ますと、加湿器の音が聞こえてきてます。まるで自然とは正反対、人工物のかたまりで面白いな。いつもありがとう加湿器さん。

…あーーこんな話をしていたら、自然のなかに行きたくなってきた。あの感覚を味わいたい。目を瞑って、息を吸って…耳を澄ませて…あの音を聞きたいな。

私達には到底及ばないような。優しくて、少し怖気づいてしまうくらいに壮大で、それでいて包み込んでくれるような自然を…私のぜんぶで感じたい。

(八)

5/2/2026, 1:36:10 PM

『優しさだけで、きっと』

「優しさだけで、」のみでもいい筈なのに、わざわざ「きっと」まで繋げているのが好きだな〜…このお題。

つい最近、このアプリを入れる前に、実は「優しさ」について私は少し考えていた。しかもメモに書き出しまでしていたので、折角だからここにも貼り付けてみる。
それにしても、文体がここに書いているものとほぼ同じだ。このアプリで書いている文、他人に見ていただけるとはいえ…あくまでも自分のために記していたい、というのは気をつけていたので嬉しい。

✽✽✽

その人の良いところを伝えるとき、「優しい」を使わないなあなんてことに気がついた。
最近、人の誕生日とかが多くて、LINEの機能でカードとか、あとは自分で手紙とかを書くことが多かったりしたのもあり、顔を洗っていたらなんか急に浮かんできた。朝ごはんを食べ、母とお話しつつ考えてみた。
まずポイントなのは、「私は優しいを使わないようにしようといつも意識してます!!」というわけではなく、それぞれを書くたびに一回一回、(うーん…やめとくか)と考えていること。だから別に「優しいを使わない」ことをモットーとしているわけではないのだ。あと自分が書かれて嫌だとかいうわけでも別になく。ただ、あれ…そういえば自分優しいって書かないな…とふと浮かんだだけなのだ。

なぜ優しいを使わないのか…
まず、無難で単純すぎるからというのはあるはず。正直何も考えなくてもぽんっと出てくる。たとえその言葉が、書いた本人としては、とっても考えた結果にやっと絞りだされたものであったとしても、相手にはきっと軽く見えがちだと思う。あとはざっくりし過ぎだとか、割と当てはまる人が多いとか。自分はなにか手紙やらを書くとき、「その人」だけに向けた、その人のための言葉を紡ぐことを意識しているので、それもあって早い段階で切り捨てられる言葉なのかもしれない。

つぎに、優しさ自体が他人のためであるということ…どういうことだ?伝わりづらいな。例えば〇〇さん(私の友人)なんかは本当に「優しい」人だと思う。けれど私から見ると、正直自分をすり減らしたことで成り立ってるものが多いように感じる。(〇〇さんはとくになのだ)自己犠牲?というか…いや、そもそも「優しい」というのは他人が対象であるので、少なくともそのときは多少なりとも自分をすり減らす、その人自身が何かを譲歩などしているものがほとんどだと思う。例えば、いつもとっても気を使っている人に「優しい」って言うのは、なにかずれてるような気がするというか…その人をすり減らすことを肯定しているような…???その人自身を見られていないような、ちゃんと向き合って見た結果の言葉とは思えないというか…本当にその言葉だけで終わらせていいの?嬉しいのかなあ、という感じがする。

あと、実は自分もよく書かれるけれど、とくにそれが嫌というわけではないし、かといって、ものすごく嬉しいわけでもない。(でも正直に言うと、一つも書かれてないとちょっと気になっちゃう…おそらく、ありきたりな言葉だと思っているが故に、逆にそれが出てこないのは自分に原因があるのではないかと思ってしまうのだと思う)それと、自分は人のために自分を犠牲にしすぎるのは基本的に避けていて、自分であることを大切にしたいと思いながら過ごしているので、もしその行動が相手にとって優しかったならそれは嬉しいな、いいことだなあ…というスタンスなのもある。
自分の周りには、そういう人よりも、かなり周りを見つつ気を使って、その結果優しい人が多いからそれもあって書いていないのかも。

また、逆によく使うのは「あたたかい」「あったかい」これらの言葉は、優しいよりもそれこそあったかい言葉な気がする。相手のことを包むように、優しさのその裏まで包めている言葉のような気がする。ただ、使いすぎないようにはしたい。言葉が軽くなりそうだから…

✽✽✽

とのことです。これだけで随分長くなってしまった。というか、最初のところでこのお題が好きだとか言っているのに、どちらかといえば逆に「優しさ」を否定している感じの文である。
しかし優しさ自体を否定するつもりは全くないし、それどころか尊いものだと思っている。ただ、この貼りつけた文は「なぜ自分が無意識に『優しい』という文言を人に使わないのか」という考察なので…また書いた趣旨が違うからこうなったのかな。


優しさだけで、きっと…

優しさだけで、何かが解決することはあるのだろうか。
だとして、それは別の何かを代償にしてしまってはいないのか…
…うーん、自分はすぐ捻くれたことを考えるものだなあ。

ああ、でも。本当に誰も傷つかないような、誰も我慢しなくて済むような…本来あるべき優しさというのは、もしかしたら…マイナスから0にするのではなく、0からプラスにするものなのかもしれない。或いは、主に優しさを与える側が、満たされている必要があるのかもしれない。

例えば…明日のご飯にも困ってしまうような、過酷な生活を送る二人がいたとして。Aくんはまだ幼く、Bさんは大人で。そのとき、AくんにBさんが、自分が明日を生きるための唯一のパンをやったとしたら。それはきっと確実に優しさで、たしかにその心は美しくて、あたたかくて…わたしだってそう思う。でもやっぱりどこか、失うものはある…と思わざるを得ないように思う。
一方で、AくんとBさんが、どちらも平和な世界で幸せに生き、十分な生活を送れていたとしたら…そのとき、もしAくんにBさんがパンをやったとして。たしかにBさんはパンは失ったかもしれないけれど、きっと残るのは、どちらにとっても互いのあたたかさだけだと思うのです。

私は今の例の前者をマイナスから0、後者を0からプラスだと表しました。これはどちらかを否定しているわけでは決してない。大きさの違いはあれど、自己犠牲による優しさは…優しさの多くがそれによって成り立っていると思うし、それは私の人間の好きなところの一つだ。けれど、こんな考えがふと浮かんでしまったから、書きとめておかずにはいられなかったな…

けれどあえてこう締めたい。

優しさだけで、きっと 

救われる人は確実にいる。
人はあたたかくなれる。

たしかに私は、人間のもつ「優しさ」という感情が大好きで、それを大切なものだと思っている。

(七)

5/1/2026, 10:37:03 PM

『カラフル』

カラフルって…その言葉だけで、弾けるような、まさに色とりどりっていう感じがあってワクワクするなあ。

私実は、絵を描くのが大好きだ。そして特に好きなのが、色塗り。色というもの自体、とても好きというか…絵に色を乗せていくとき、生命が宿っていくような感じがすごくして、とても良い… (色を乗せるっていう表現も、なんだかいいな…)

そういえば…つい最近、虹が出ていた。それを見て、バリバリの文系のくせに「わあ光の屈折!!」とか思う自分がいて、えっ?と自分自身に驚いたが…素直にとても綺麗で心惹かれる。…虹を嫌悪する人ってあまりいないように思うけれど、何故だろう。日常生活…自然の中で、あれほど綺麗に多様な色が集まっていることは、あまりないからだろうか。けれど何故みんながみんな、綺麗だと思うのかな。
それにしても、色というのは全体で見ると、いいイメージをもたれていることが多いような気がする。それが色ごとに分かれると、この色は好き、この色はまあまあ…などが生まれてきているように見える。しかしその、色に対する好き嫌いもどこかこう、色自体というよりは「この色を持つものの共通点」からきているような気が…しなくもないな。いうなれば、「もののイメージ→色のイメージ」といったところだろうか。
それでいて、自分が絵を描いたり、デザインしたりするのが好きな以上、「色のイメージ→もののイメージ」に繋げることはとても多い。けれどそれはなんとなく後付のような気もする。例えば…(私は知識がないので憶測でしかないが)赤信号と青信号のもつ意味合いが最初から逆であったなら…止まれの標識が青ばかりだったら……私達の、青色と赤色の認識は逆転していたのかな…?などと考えてみたり。あとは、元々は別に好きでもなかったけれど、推しのカラーがこれだから好きになった…だとか。色の持つイメージというのは、意外と簡単に変わってしまうのかもしれない。
あと面白いのは、人のイメージに色があること!
〇〇さんは桃色っぽいイメージだよね、みたいなことができるのが、すごいと思う。それが共通認識として伝わるのも。

そういえば、色に関してよく考えていたことがある。
これは言葉で表すのが難しいのだが…
例えば私が今見ている青色は、友だちにとっては赤色かもしれない…というもの。
おそらく科学的にはありえないのだろうけれど、もし本当にそうであったとしても気がつける自信がないな、と思ったのだ。実際、人によって見える色の範囲は多少違うらしいが(四色型色覚、と言われるような人もいるくらいだし)他人の見ている世界なんてわからないもの。

しかし、たぶん見えている色は同じだろうけれど……人がそれぞれに見ている世界は、知らず知らずのうちに全く違ったものになっているのではないかなと思う。同じ景色を見ても感じ方が違うように、視点や感性などなど…はみんな全然違う。共通認識というものはあれど、色に対するイメージだって人それぞれだ。

最近は、「人それぞれ」であることを許容するような雰囲気が一般化しているから、私はとても良いと思う。

物理的にも内面的にも、カラフルって楽しいものだから。

私は、みんなの、みんな自身の色を見つめていたい。

……いや、もうすでに私はこの場所で、みんなの色を目の当たりにしていたのかもしれないな。

文章という形で!

(六)

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