ただ記す

Open App

『優しさだけで、きっと』

「優しさだけで、」のみでもいい筈なのに、わざわざ「きっと」まで繋げているのが好きだな〜…このお題。

つい最近、このアプリを入れる前に、実は「優しさ」について私は少し考えていた。しかもメモに書き出しまでしていたので、折角だからここにも貼り付けてみる。
それにしても、文体がここに書いているものとほぼ同じだ。このアプリで書いている文、他人に見ていただけるとはいえ…あくまでも自分のために記していたい、というのは気をつけていたので嬉しい。

✽✽✽

その人の良いところを伝えるとき、「優しい」を使わないなあなんてことに気がついた。
最近、人の誕生日とかが多くて、LINEの機能でカードとか、あとは自分で手紙とかを書くことが多かったりしたのもあり、顔を洗っていたらなんか急に浮かんできた。朝ごはんを食べ、母とお話しつつ考えてみた。
まずポイントなのは、「私は優しいを使わないようにしようといつも意識してます!!」というわけではなく、それぞれを書くたびに一回一回、(うーん…やめとくか)と考えていること。だから別に「優しいを使わない」ことをモットーとしているわけではないのだ。あと自分が書かれて嫌だとかいうわけでも別になく。ただ、あれ…そういえば自分優しいって書かないな…とふと浮かんだだけなのだ。

なぜ優しいを使わないのか…
まず、無難で単純すぎるからというのはあるはず。正直何も考えなくてもぽんっと出てくる。たとえその言葉が、書いた本人としては、とっても考えた結果にやっと絞りだされたものであったとしても、相手にはきっと軽く見えがちだと思う。あとはざっくりし過ぎだとか、割と当てはまる人が多いとか。自分はなにか手紙やらを書くとき、「その人」だけに向けた、その人のための言葉を紡ぐことを意識しているので、それもあって早い段階で切り捨てられる言葉なのかもしれない。

つぎに、優しさ自体が他人のためであるということ…どういうことだ?伝わりづらいな。例えば〇〇さん(私の友人)なんかは本当に「優しい」人だと思う。けれど私から見ると、正直自分をすり減らしたことで成り立ってるものが多いように感じる。(〇〇さんはとくになのだ)自己犠牲?というか…いや、そもそも「優しい」というのは他人が対象であるので、少なくともそのときは多少なりとも自分をすり減らす、その人自身が何かを譲歩などしているものがほとんどだと思う。例えば、いつもとっても気を使っている人に「優しい」って言うのは、なにかずれてるような気がするというか…その人をすり減らすことを肯定しているような…???その人自身を見られていないような、ちゃんと向き合って見た結果の言葉とは思えないというか…本当にその言葉だけで終わらせていいの?嬉しいのかなあ、という感じがする。

あと、実は自分もよく書かれるけれど、とくにそれが嫌というわけではないし、かといって、ものすごく嬉しいわけでもない。(でも正直に言うと、一つも書かれてないとちょっと気になっちゃう…おそらく、ありきたりな言葉だと思っているが故に、逆にそれが出てこないのは自分に原因があるのではないかと思ってしまうのだと思う)それと、自分は人のために自分を犠牲にしすぎるのは基本的に避けていて、自分であることを大切にしたいと思いながら過ごしているので、もしその行動が相手にとって優しかったならそれは嬉しいな、いいことだなあ…というスタンスなのもある。
自分の周りには、そういう人よりも、かなり周りを見つつ気を使って、その結果優しい人が多いからそれもあって書いていないのかも。

また、逆によく使うのは「あたたかい」「あったかい」これらの言葉は、優しいよりもそれこそあったかい言葉な気がする。相手のことを包むように、優しさのその裏まで包めている言葉のような気がする。ただ、使いすぎないようにはしたい。言葉が軽くなりそうだから…

✽✽✽

とのことです。これだけで随分長くなってしまった。というか、最初のところでこのお題が好きだとか言っているのに、どちらかといえば逆に「優しさ」を否定している感じの文である。
しかし優しさ自体を否定するつもりは全くないし、それどころか尊いものだと思っている。ただ、この貼りつけた文は「なぜ自分が無意識に『優しい』という文言を人に使わないのか」という考察なので…また書いた趣旨が違うからこうなったのかな。


優しさだけで、きっと…

優しさだけで、何かが解決することはあるのだろうか。
だとして、それは別の何かを代償にしてしまってはいないのか…
…うーん、自分はすぐ捻くれたことを考えるものだなあ。

ああ、でも。本当に誰も傷つかないような、誰も我慢しなくて済むような…本来あるべき優しさというのは、もしかしたら…マイナスから0にするのではなく、0からプラスにするものなのかもしれない。或いは、主に優しさを与える側が、満たされている必要があるのかもしれない。

例えば…明日のご飯にも困ってしまうような、過酷な生活を送る二人がいたとして。Aくんはまだ幼く、Bさんは大人で。そのとき、AくんにBさんが、自分が明日を生きるための唯一のパンをやったとしたら。それはきっと確実に優しさで、たしかにその心は美しくて、あたたかくて…わたしだってそう思う。でもやっぱりどこか、失うものはある…と思わざるを得ないように思う。
一方で、AくんとBさんが、どちらも平和な世界で幸せに生き、十分な生活を送れていたとしたら…そのとき、もしAくんにBさんがパンをやったとして。たしかにBさんはパンは失ったかもしれないけれど、きっと残るのは、どちらにとっても互いのあたたかさだけだと思うのです。

私は今の例の前者をマイナスから0、後者を0からプラスだと表しました。これはどちらかを否定しているわけでは決してない。大きさの違いはあれど、自己犠牲による優しさは…優しさの多くがそれによって成り立っていると思うし、それは私の人間の好きなところの一つだ。けれど、こんな考えがふと浮かんでしまったから、書きとめておかずにはいられなかったな…

けれどあえてこう締めたい。

優しさだけで、きっと 

救われる人は確実にいる。
人はあたたかくなれる。

たしかに私は、人間のもつ「優しさ」という感情が大好きで、それを大切なものだと思っている。

(七)

5/2/2026, 1:36:10 PM