「あなたがいたから、私は今生きてるの。あなたは私の希望で神様で命でもある。これからも頑張ってね。」
「ありがとうございます。」
あまりにも重い言葉に、当たり前に笑顔で返す。
すると、彼女はとても嬉しそうに笑って、手を振って去っていく。
それに振り返すと、小さく悲鳴が上がった。
ああ、馬鹿らしい。
そんなことを思いながら、次にやってくる人に対応する。もちろん笑顔だ。研究しつくした、最高の笑顔。これでいろんな人を騙してきた。わたしの持つ武器だ。
「大好き、本当に。今日、始発の新幹線に乗ってきたの。本当に会いたくって。」
「ありがとうございます。」
少し高く甘く、それでもくどくはない声。これも研究を重ねた結果生まれたものだ。
目を合わせて相槌を打ちながら感謝の言葉を繰り返す。
こんな機械的な仕事がしたくて、女優になったわけじゃないのに。握手会なんてアイドルみたいな馬鹿っぽいことを提案した社長の顔を黒く塗り潰す。そういえば、写真集の発売もあいつが言い出したことだった。
ため息を吐きたくなったけれど、わたしは相変わらず笑顔を浮かべて馬鹿の一つ覚えのように「ありがとうございます」を繰り返している。
ああ、本当に。
大好きだとか使い古された言葉も、自分を人に支えさせるような言葉も、全部耳を通り抜けて、心を滑ってどこかへ落ちていく。
もう疲れた。それでもわたしは笑顔で居続ける。
今日はアイスクリームを一年ぶりに食べよう。
そう決めて、それでも誰にも悟らせないように変わらぬ笑顔で知らない人の手を握る。
「ありがとうございます。」
相合傘をした日、彼の肩が濡れていた。わたしはちっとも濡れていなかった。
なんてことない顔しながら、なんて優しいことをしてくれていたのだろう。
「ありがとう。」
わたしの突然の言葉がなにに向けたものなのか分からなかったらしい彼が首を傾げる。
「風邪ひかないように気をつけて。」
「え、ああ、うん。君もね。」
きっとわたしは風邪なんてひかないだろう。あなたがちゃんと守ってくれたから。
そう言いたかったけれど、とても照れくさくて迷っているうちに、彼は駅の改札を通り抜けていく。そして、振り返ってわたしに手を振ってくれる。周りの目を気にしてか、胸の前で小さく。そんなところもとても好きだと思う。
彼の背中に知らない背中や顔がたくさん重なっていく。しばらくすると、遠くから電車の発車メロディーが聞こえて、わたしは鞄の中を漁った。奥底から出てきたのは折り畳み傘。本当は持ってたんだよ。そう言うタイミングを逃してしまったけれど、言わなくてよかったと思う。
彼の肩に触れるたび、胸が高鳴った。彼がさりげなく車道側を歩いてくれて、歩幅もわたしに合わせてくれた。そして気付かないうちに鋭い雨からわたしを守ってくれていた。
なんて優しい人だろう。
雨が降りしきる中、傘を開いた。一人で使う傘は広く余裕があるけれど、先程と比べると少し寂しい。
早く帰ろうと思った。彼の温度が肩に、彼の優しさがくれた温もりが心に残っている間に。
「未来が見えたらいいのに。」
そう言った彼女の目には、未来なんてものは映っていなさそうだった。その代わり、彼女の瞳の中にはわたしがいた。
真っ暗な瞳の中心に、真っ暗な目をしたわたしがいる。
「どうして、そういうこと言うの。」
言葉が少々乱暴になってしまったけれど、そんなことは気にしていないのか、彼女は笑った。
「もしいい未来が見えたらさ、死ぬの辞めるのになあって思ったから。」
彼女の言葉が、わたし達は間違ったことをしていると笑ったような気がして、血が沸騰してしまったように身体の中が熱かった。わたしは今、どうしようもなく生きている。
「わたしはいい未来が見えても、今死ぬ。未来なんていつ変わるか分からないものに希望を持つことなんてできないもの。」
そう、啖呵を切ってしまえばよかった。彼女がケラケラと笑っているところを見ると、どうしても言えなかった。
わたしは彼女の手から自分の手を離した。彼女の笑い声が止まる。骨が直接皮に包まれているのではないかと思うほど細い指。手のひらに残っているのは、そんな指がかすかに持つ温もりだった。
ああ、きっとわたしが無理に付き合わせてしまっているんだろうなあ。
ふいにそんなことを思うと、賛同するように風が吹いた。視界の中で髪の毛が揺れる。
「じゃあ、生きたらいいじゃない。がんばって。」
一歩を踏み出した。わたしには未来なんて必要なかった。
一年前、姉が死んだ。自殺だった。
とても美しい姉だった。美貌だけでなく、切れる頭も運動神経の良さも兼ね備えていた。スタイルも良くて、どんな衣装もメイクも映える人だった。人を圧倒する絵も描けるし、巧みな文章も書ける。歌うことも踊ることも出来るから、アイドルになれるだろうと親戚は囃し立てた。もう充分手の届かないところにいる人だったのに、とても優しい人だった。出来損ないの妹を気にかけ、悩みを持つ友人に寄り添い、両親の愚痴もいつも聞いていた。
ああ、なんて凄い人なんだろう。
姉と言葉をかわすたびに思った。
ああ、わたしはなんて醜いんだろう。
姉の美しい笑顔を見るたびに思った。
姉は神様のような人だった。容姿も優れ、実力もあり、さらに性格だってとてもいい。姉は、両親の誇りであり、友人の誇りでもあり、親戚の誇りでもあり、学校の誇りでもあった。
姉はわたしの恥ずべき汚点であり、やはり女神でもあった。
そんな彼女が自殺した。葬儀にはたくさんの人が参列した。
みんな涙を流して、姉の死を嘆いた。どうして自殺なんて、とたくさんの知らない人が泣いている中、わたしはひとり泣けずにいた。
わたしはあの日、美しい姉の恐ろしい姿を見てしまった。
平日の午前七時。いつもは朝ごはんを食べているその時間になっても、姉は起きてこなかった。母がわたしに目もくれず言った。
「起こしに行って。」
階段を上がり、一番奥にあるのが姉の部屋だった。何度も入ったことがあるけれど、常に綺麗で塵の一つもない。整理整頓が徹底されていて、余裕がないようにも見える姉の部屋を、わたしはどうしても好きになれなかった。
ノブを回し、扉を押した。
そこにあったのは、呼吸を止めた姉の身体だった。
「大変だったね。」
みんなが言う。姉が去って一年が過ぎたのに、みんなわたしの顔を見るたびに姉のことを口にする。
「大丈夫?」
姉が死んで、両親は変わった。父は目を背けるように仕事に没頭するようになり、母は自傷行為に手を出すようになった。
幸せだったはずの家族が、一瞬にして目を向けられないような姿になったことは、いろんなところに広まっていった。わたしは、姉の影響力の凄まじさに呑気に驚いていた。
どこまで、なにが広まったのか。わたしはすべてを計り知れていない。
だから、時折こんなことを聞く人に出会う。
「家族の死体を見て、きみはどう思った?」
ニヤニヤと笑うその人の瞳にナイフを刺し込みたくなる。よくそんなことが聞けるな、と思いながらわたしは答える。
「もう覚えていないです。あの頃の記憶はもうあやふやで。」
姉が死んだ。全部変わった。
姉がなにを思っていたのか、もう分からない。聞くことすらできない。そもそも、わたし達は姉を崇めてばかりで、姉の心に寄り添おうとしたことはなかった。
時折悪夢を見て目が覚める。そういう時は必ず、死んだ姉の冷たさを思い出す。
「好きな本があるんだ。今までもこれからも僕の隣にいるんだろうなあ、と思うくらいに好きな本が。その本を初めて読んだ時、僕は酷く感動した。そして、同時にこう思った。僕もこんな風に誰かを感動させてみたい、って。」
夢がないと嘆いたわたしに見せてくれたクラスメイトの夢は想像以上に壮大だった。四角の眼鏡、成績は常に上位、愛嬌は振りまかないけれど愛想が悪いわけではない、孤高の優等生タイプ。そんな彼は現実主義者なのだと思い込んでいたところがあった。だからこそ、そう語った彼の輝いたあの目が今でも忘れられない。
本屋に寄ったのはただ暇を潰すためだけだった。久しぶりに会う約束をしていた中学時代の友人が、寝坊で遅れると、待ち合わせ時間の五分前に連絡を入れてきたのだ。
若干の怒りを覚えながら、カフェや近くのショッピングモールに入らず、本屋を選んだのに理由はなにもなかった。
けれど、早々に入店したことを後悔した。
分厚い文庫本やどこかで見たことがあるようなタイトルの単行本。隅から隅まで本で埋め尽くされている。
わたしは、あまり本が好きではない。だからといって、運動やゲームが好きなわけでもない。じゃあ、なにが好きなのかと聞かれると、自分でもよく分かっていない。
そんな曖昧な人間のまま、二十八年も生きてきた。きっとこれからも変わらないだろうと思う。そのことに少し虚しくなった時に思い出すのが、高校時代のクラスメイトとの会話だ。
どうしてそんな話をしたのか、全く覚えていない。ただ、あの時のわたしは泣きそうで、逆に彼は少し興奮していた。放課後の教室だっただろうか。長く伸びた自分の影も覚えている。自分の夢を、曇りのない目で語ってみせた彼のことを、あれから十年ほど経った今でもはっきりと記憶している。
彼は夢を叶えたのだろうか。
ふとした疑問が浮かび上がり、わたしはそのまま本屋の中へと入っていくことにした。
「じゃあいつか、君の名前を本屋さんで見る日が来るかもしれないんだね。」
高校生のわたしの鼻声が脳内で再生された。
「いや、それはないな。」
「なんで?」
「だって僕はペンネームを使っているから。それに、顔も出さない。覆面作家としてやっていくつもりなんだ。」
「え、じゃあ、どうやったって見つけられないじゃん。」
「いや、きっと君は見つけられるだろうな。そんな気がする。なあ、見つけてみせてよ。」
記憶の中の彼が笑った。彼は笑うとえくぼができるのだと、その時初めて知った。
なにかに引っ張られたように、足が止まった。一人の作家の特集コーナーの前で。