すべて物語のつもりです

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 相合傘をした日、彼の肩が濡れていた。わたしはちっとも濡れていなかった。
 なんてことない顔しながら、なんて優しいことをしてくれていたのだろう。
「ありがとう。」
 わたしの突然の言葉がなにに向けたものなのか分からなかったらしい彼が首を傾げる。
「風邪ひかないように気をつけて。」
「え、ああ、うん。君もね。」
 きっとわたしは風邪なんてひかないだろう。あなたがちゃんと守ってくれたから。
 そう言いたかったけれど、とても照れくさくて迷っているうちに、彼は駅の改札を通り抜けていく。そして、振り返ってわたしに手を振ってくれる。周りの目を気にしてか、胸の前で小さく。そんなところもとても好きだと思う。
 彼の背中に知らない背中や顔がたくさん重なっていく。しばらくすると、遠くから電車の発車メロディーが聞こえて、わたしは鞄の中を漁った。奥底から出てきたのは折り畳み傘。本当は持ってたんだよ。そう言うタイミングを逃してしまったけれど、言わなくてよかったと思う。
 彼の肩に触れるたび、胸が高鳴った。彼がさりげなく車道側を歩いてくれて、歩幅もわたしに合わせてくれた。そして気付かないうちに鋭い雨からわたしを守ってくれていた。
 なんて優しい人だろう。
 雨が降りしきる中、傘を開いた。一人で使う傘は広く余裕があるけれど、先程と比べると少し寂しい。
 早く帰ろうと思った。彼の温度が肩に、彼の優しさがくれた温もりが心に残っている間に。

6/19/2023, 1:25:16 PM