「未来が見えたらいいのに。」
そう言った彼女の目には、未来なんてものは映っていなさそうだった。その代わり、彼女の瞳の中にはわたしがいた。
真っ暗な瞳の中心に、真っ暗な目をしたわたしがいる。
「どうして、そういうこと言うの。」
言葉が少々乱暴になってしまったけれど、そんなことは気にしていないのか、彼女は笑った。
「もしいい未来が見えたらさ、死ぬの辞めるのになあって思ったから。」
彼女の言葉が、わたし達は間違ったことをしていると笑ったような気がして、血が沸騰してしまったように身体の中が熱かった。わたしは今、どうしようもなく生きている。
「わたしはいい未来が見えても、今死ぬ。未来なんていつ変わるか分からないものに希望を持つことなんてできないもの。」
そう、啖呵を切ってしまえばよかった。彼女がケラケラと笑っているところを見ると、どうしても言えなかった。
わたしは彼女の手から自分の手を離した。彼女の笑い声が止まる。骨が直接皮に包まれているのではないかと思うほど細い指。手のひらに残っているのは、そんな指がかすかに持つ温もりだった。
ああ、きっとわたしが無理に付き合わせてしまっているんだろうなあ。
ふいにそんなことを思うと、賛同するように風が吹いた。視界の中で髪の毛が揺れる。
「じゃあ、生きたらいいじゃない。がんばって。」
一歩を踏み出した。わたしには未来なんて必要なかった。
一年前、姉が死んだ。自殺だった。
とても美しい姉だった。美貌だけでなく、切れる頭も運動神経の良さも兼ね備えていた。スタイルも良くて、どんな衣装もメイクも映える人だった。人を圧倒する絵も描けるし、巧みな文章も書ける。歌うことも踊ることも出来るから、アイドルになれるだろうと親戚は囃し立てた。もう充分手の届かないところにいる人だったのに、とても優しい人だった。出来損ないの妹を気にかけ、悩みを持つ友人に寄り添い、両親の愚痴もいつも聞いていた。
ああ、なんて凄い人なんだろう。
姉と言葉をかわすたびに思った。
ああ、わたしはなんて醜いんだろう。
姉の美しい笑顔を見るたびに思った。
姉は神様のような人だった。容姿も優れ、実力もあり、さらに性格だってとてもいい。姉は、両親の誇りであり、友人の誇りでもあり、親戚の誇りでもあり、学校の誇りでもあった。
姉はわたしの恥ずべき汚点であり、やはり女神でもあった。
そんな彼女が自殺した。葬儀にはたくさんの人が参列した。
みんな涙を流して、姉の死を嘆いた。どうして自殺なんて、とたくさんの知らない人が泣いている中、わたしはひとり泣けずにいた。
わたしはあの日、美しい姉の恐ろしい姿を見てしまった。
平日の午前七時。いつもは朝ごはんを食べているその時間になっても、姉は起きてこなかった。母がわたしに目もくれず言った。
「起こしに行って。」
階段を上がり、一番奥にあるのが姉の部屋だった。何度も入ったことがあるけれど、常に綺麗で塵の一つもない。整理整頓が徹底されていて、余裕がないようにも見える姉の部屋を、わたしはどうしても好きになれなかった。
ノブを回し、扉を押した。
そこにあったのは、呼吸を止めた姉の身体だった。
「大変だったね。」
みんなが言う。姉が去って一年が過ぎたのに、みんなわたしの顔を見るたびに姉のことを口にする。
「大丈夫?」
姉が死んで、両親は変わった。父は目を背けるように仕事に没頭するようになり、母は自傷行為に手を出すようになった。
幸せだったはずの家族が、一瞬にして目を向けられないような姿になったことは、いろんなところに広まっていった。わたしは、姉の影響力の凄まじさに呑気に驚いていた。
どこまで、なにが広まったのか。わたしはすべてを計り知れていない。
だから、時折こんなことを聞く人に出会う。
「家族の死体を見て、きみはどう思った?」
ニヤニヤと笑うその人の瞳にナイフを刺し込みたくなる。よくそんなことが聞けるな、と思いながらわたしは答える。
「もう覚えていないです。あの頃の記憶はもうあやふやで。」
姉が死んだ。全部変わった。
姉がなにを思っていたのか、もう分からない。聞くことすらできない。そもそも、わたし達は姉を崇めてばかりで、姉の心に寄り添おうとしたことはなかった。
時折悪夢を見て目が覚める。そういう時は必ず、死んだ姉の冷たさを思い出す。
「好きな本があるんだ。今までもこれからも僕の隣にいるんだろうなあ、と思うくらいに好きな本が。その本を初めて読んだ時、僕は酷く感動した。そして、同時にこう思った。僕もこんな風に誰かを感動させてみたい、って。」
夢がないと嘆いたわたしに見せてくれたクラスメイトの夢は想像以上に壮大だった。四角の眼鏡、成績は常に上位、愛嬌は振りまかないけれど愛想が悪いわけではない、孤高の優等生タイプ。そんな彼は現実主義者なのだと思い込んでいたところがあった。だからこそ、そう語った彼の輝いたあの目が今でも忘れられない。
本屋に寄ったのはただ暇を潰すためだけだった。久しぶりに会う約束をしていた中学時代の友人が、寝坊で遅れると、待ち合わせ時間の五分前に連絡を入れてきたのだ。
若干の怒りを覚えながら、カフェや近くのショッピングモールに入らず、本屋を選んだのに理由はなにもなかった。
けれど、早々に入店したことを後悔した。
分厚い文庫本やどこかで見たことがあるようなタイトルの単行本。隅から隅まで本で埋め尽くされている。
わたしは、あまり本が好きではない。だからといって、運動やゲームが好きなわけでもない。じゃあ、なにが好きなのかと聞かれると、自分でもよく分かっていない。
そんな曖昧な人間のまま、二十八年も生きてきた。きっとこれからも変わらないだろうと思う。そのことに少し虚しくなった時に思い出すのが、高校時代のクラスメイトとの会話だ。
どうしてそんな話をしたのか、全く覚えていない。ただ、あの時のわたしは泣きそうで、逆に彼は少し興奮していた。放課後の教室だっただろうか。長く伸びた自分の影も覚えている。自分の夢を、曇りのない目で語ってみせた彼のことを、あれから十年ほど経った今でもはっきりと記憶している。
彼は夢を叶えたのだろうか。
ふとした疑問が浮かび上がり、わたしはそのまま本屋の中へと入っていくことにした。
「じゃあいつか、君の名前を本屋さんで見る日が来るかもしれないんだね。」
高校生のわたしの鼻声が脳内で再生された。
「いや、それはないな。」
「なんで?」
「だって僕はペンネームを使っているから。それに、顔も出さない。覆面作家としてやっていくつもりなんだ。」
「え、じゃあ、どうやったって見つけられないじゃん。」
「いや、きっと君は見つけられるだろうな。そんな気がする。なあ、見つけてみせてよ。」
記憶の中の彼が笑った。彼は笑うとえくぼができるのだと、その時初めて知った。
なにかに引っ張られたように、足が止まった。一人の作家の特集コーナーの前で。
あじさいが咲いていた。
通学路のすぐ傍にある公園の花壇に。
とても綺麗な色だと思った。透明なビニール傘をくるくると回しながら、学校へ向かう。
あじさいの鮮明な青色、紫色、赤色。
もうあじさいが咲く時期かあと思う。きっと、来年も同じことを思うのだ。一年が経っても大して変わらないわたしが簡単に頭に思い浮かぶ。
あじさいがいなくなったら、次は蝉が現れるだろう。そして、あっという間に紅葉の季節になって、それも知らぬ間に散っていく。
人生はとてもハイスピードで進んでいく。見落としていることがきっとたくさんある。だから、あじさいに気付けてよかったと思う。
「おーい!」
駅前で大きく手を振る友人を見つけた。周りの目など気にせずに大声で人を呼べる彼女が羨ましいけれど、今はすこし恥ずかしい。小さく手を振り返しながら、彼女にどんどん近付いていく。
駅の床は濡れていて、いつ滑って転んでもおかしくなさそうだった。
改札を二人で通り抜けて、人の波をなんとか泳いでいく。
「あじさい、咲いてたよ。」
電車の中で押し潰されそうになりながら、友人に言った。
音楽が好きな彼女はいつも耳に黒のイヤホンを差し込んでいる。けれど、彼女はいつもわたしと並ぶ時、肩が触れる方のイヤホンを外してくれている。
それに今、気が付いた。
友人が口角を上げた。
それに気付けるわたしでよかったと思う。
好き嫌いが多いわたしは、いつも料理を作ってくれる彼女の顔を歪ませる。
「ねえ。」
不機嫌そうな彼女の声が、扇風機の風音だけが響くリビングの生温い空気に伝わった。
「なに?」
なにを言われるかはわかっているけれど、気付いていないフリをする。そんなことを毎日している。
「その端っこに寄せられてるものはなに?」
「だって、グリーンピース好きじゃないもん。」
わたしの言葉に返ってきたのは、彼女の深いため息だった。
「あんたさあ、作ってる私に失礼だと思わないわけ?」
彼女もこの言葉を毎日繰り返している。お互い、よく飽きないものだと、わたしは他人事のように思う。
「嫌いなものは嫌いなんだから、仕方ないじゃない。」
嫌いなものは嫌い。そんな自分の言葉に自分で頷く。
職場の上司も嫌い。虫も嫌い。他所の家から聞こえる笑い声も嫌い。SNSで自慢を繰り返す、いつかの同級生も嫌い。グリーンピースだって嫌い。彼女の好きな人も、嫌い。
チキンライスの中には嫌いなグリーンピースや人参も入っている。人参は頑張って飲み込んでいるのだと、彼女は気付いてくれない。
「やっぱり、食生活が合わない人と同居するもんじゃないわ。」
彼女はそう言って、コップ一杯に入っていたビールを飲み干す。
彼女の口元についた泡が膨らんで、消えていく。
彼女の好きな人は、彼女と食の好みが同じなのだろうか。彼女はこんにゃくが嫌いで刺し身も嫌いで、ついでに濃口醤油も嫌いだけど、その人はそのことに気付いているのだろうか。
「わたしだって、好きなものはあるもん。」
「あっそ。」
彼女の素っ気ない言葉さえ、わたしには美しいものに聞こえる。酔っ払うと彼女の頬はかすかに赤くなって、耳は真っ赤になる。わたしが嫌いなものは料理にふんだんに入れるくせに、自分の嫌いなものは一切入れない。わたしは洗濯と掃除を毎日しているのに、彼女は一つもお礼を言わない。なのに、わたしから彼女へのお礼は強要する。そういうところも含めて大好きなのに、彼女は気付いてくれない。
この同居生活がまだ終わらないように祈りながら、スプーンでグリーンピースをすくったわたしにも、彼女はやっぱり気付いてくれなかった。