目を開けると、そこには朝日の温もりに包まれながら眠っている彼がいた。
窓の隙間から入ってくるわずかな風に揺れるカーテン。テーブルにはお酒の空き缶やスナック菓子の袋が転がっている。キッチンのシンクにはきっと洗い物が溜まっていて、お風呂だってお湯を張ったのに、結局入らなかった。月曜日から当たり前に始まる仕事とか満員電車とか、近くからする工事の大きな音とか、憂鬱になることは山ほどあるけれど、朝日の柔らかな光とともに、やすらかに眠っている彼を見ると、もうどうでもよくなった。
彼の右目の右下にあるほくろ、頬に広がる薄いそばかす、昔はピアスホールが空いていた耳、少しかさついた唇、遠慮がちに顔を出すひげも、何もかも愛おしくて、なぜか涙が溢れた。
今は起きないでほしい、と祈りながら、さらさらの黒髪をわたしの指に絡める。
寝起きの顔でボサボサの髪で泣いている恋人なんて、誰も見たくないし見てほしくないだろう。
起きないで、と願いながらも、彼のほくろや唇をなぞる。彼がくすぐったそうに動く。わたしの涙は止まらなかった。
しばらくして、彼が目を開いた。真っ黒だけど、いつまでも煌めきを失わない瞳。それにわたしは一瞬吸い込まれてしまったかのように、息を呑んだ。
「なんで泣いてるの。」
限りなく優しい声で、けれど寝起きだから少しかすれた声で彼が言う。左手でわたしの手を包んで、右手でわたしの身体を抱き寄せる。乱暴じゃなくて、むしろ優しくて丁寧すぎるその仕草が、そして彼が愛おしくてわたしは彼の胸の中で泣いた。
「もし、世界の終わりがすぐそこまで来てたらさ、最後ぐらい君とキスをしたいよね。」
コンビニのカフェオレは最近進化しているらしい。愛飲している彼はわたしにそう教えてくれた。
ストローを噛む癖はいつになっても治らない。彼は歯形がついたストローを見て「またやっちゃった。」と言う。それを聞くのはもう何回目なのか分からない。
「きも。」
「知ってる。」
彼が吐く言葉はいつもわたしの鳥肌を立たせる。
気持ち悪い、と素直に言えるのは、付き合いが長いからではなくて、彼がわたしに好意を持っていないくせにそういうことを言うからだ。
わたしは、お試しでしかない。彼は本命にどんな言葉を伝えるかいつも一生懸命考えて、毎回気味の悪い言葉を編み出す。そして、わたしに言って反応を見るのだ。わたしの反応はどんな時も変わらない。だから、彼が本命にその言葉をかけることはない。本当は彼も分かっている。そんなことを考えるのは無駄で、わたしで試してみるのも無駄で、結局はなにも意味のないことなのだと。それでも彼は必ず新しい言葉を作り出す。そのたびにわたしは馬鹿だなあと思う。
「ヘタレ。」
「知ってる。」
「さっさと告白してフラれてきたら?」
「うるさいなあ。」
「ばーか。」
「それはただの悪口だよね!?」
思わず唇の隙間から笑い声が漏れた。そして、彼も呆れたように笑う。
「彼女、今頃男とデート行ってるんだろうね。いいなあ、わたしも人生で一回ぐらいは高級レストランに行ってみたいよ。」
「ぼくの傷口に塩を塗る必要ある?」
彼が一生懸命言葉を考えている間、彼の本命は男をとっかえひっかえして、ブランド物のバッグやアクセサリーを買ってもらっている。
本当、こいつは馬鹿だと思う。真の馬鹿野郎だ。
そして彼女はあと数時間もしないうちに、金を広げて笑うような男と一緒にホテルに行くのだろう。
さすがにそれは言わないであげようと思った。わたしだって必要以上の塩を持ちたくない。
「世界の終わりがもうすぐ来るならさ、キスする時間もったいなくない?」
「へ?」
「わたしなら、手繋いでお互いに寄りかかって眠って、気付かない間に死にたい。」
彼の部屋はとても狭い。ベッドとテーブルしかないこの部屋で、わたし達は今二人きりだ。
彼の手はカフェオレのカップを持っていたせいで少し濡れたまま、テーブルに放り出されている。
あれを掴んで、二人眠って、世界が終わるのなら本望だ。
「最悪、リップ折れたんだけど!」
洗面所からそんな声が聞こえてきた。
すでにコーヒーを入れたコップに牛乳を注ごうとしながら、わたしは次に飛んでくる言葉を予想する。
「お姉ちゃん、リップ貸して!」
当たり、と呟いた。
コップの中に少しずつ白が広がって、けれどその白も茶色に変わった。
「いいよ。」
出来るかぎり声を張り上げたけれど、きっとあの子には届いていない。あの子は、妹は今、わたしが許可を出す前に蓋を開けて、唇に色を乗せている。たぶん、ピンク色。わたしがあまりにも使わないから、メイクポーチから追い出され、部屋から追い出され、洗面所に辿り着いたピンクのリップ。
チンと小気味よい音が鳴って、トースターからお皿の上に、焼き目が程よくついた食パンを移動させる。焼き立てで熱いから、早業で。いつ身についたのかも忘れてしまったほどの当たり前。
コップとお皿を持って、テーブルへ移動する。そして、座って手を合わせたところで、大きな足音が響いた。
「行ってくる!」
真っ白な肌、茶色に染めた長い髪、薄いメイク。唇はやっぱりピンク。服は、妹の趣味のものじゃなくて、大多数がいいと言うであろうもの。
ああ、やっぱりこの子は変わらない。そう思った。
「行ってらっしゃい。」
扉が閉まる音がしてから、ひとりごちた。
シャンプーかボディソープか日焼け止めか香水か、何なのか分からない甘い匂いが部屋の中に満ちているような気がした。
洗剤ではないはず、だってわたしの服からこんな匂いはしないから。香水もあの子はするタイプじゃない、でも。
トーストをかじった。何もつけなくても充分美味しい。
あの子は人がいいと言えば、嫌いな香水だってつけてしまえる子だ。
人に好かれることを第一に考える妹は嫌いじゃない。時折、どうしようもなく他人に思えてしまうだけ。
真っ暗なテレビに反射するわたしは、黒髪を肩の上で切り揃えている。赤のリップも濃いアイラインも引ける。ピアスホールはたくさん空いているし、服だって着たいものを着る。
けれど、たまに思う。
『人から好かれる女の子』を全身で表している子が妹だなんて、最悪だと。
「失恋した。」
親友がポロリと涙とともにその言葉を零した。
「知ってる。」
そう返すと、わたし達の間には沈黙が生まれて、しばらくすると親友が泣き始める。大きな泣き声を上げて泣くわけじゃなくて、盛大な身振りをつけて泣くわけでもなくて、なんとか泣き声を堪えようと震えた息を吐き出すのが、彼女らしかった。
蝉が淡い白のカーテンで覆われた窓の外で鳴いていた。
もうすぐ夏が来る。
親友は今年こそ彼氏のいる夏を送りたいと、昨年のクリスマスを過ぎた辺りから早々に言っていた。
わたしは、彼氏がいようがいまいがどちらでもよかった。失恋するたびに相手を想って涙を流す親友と変わらず、どちらかの自室で怠けることができるのなら。
「ねえ、髪切りに行こうよ。」
彼女の小さな息遣いが、彼女のシンプルな部屋に響く。相変わらず淡いものが好きらしい。どんな相手に恋をしても、芯は貫いたまま変わらない彼女が大好きだ。
わたしの茶色の髪と、彼女の黒い髪を見比べながら言った。
親友は視線だけをわたしにやって頷いた。
「どうせなら、思いっきり切っちゃおう。今年も夏は暑いだろうし。」
ああ、夏が来る。
カーテンを通り抜けて、わたし達に太陽の光が届く。
半袖に半ズボン、麦わら帽子を被って、手には虫取り網、首からかけているのは虫かごと大きな水筒。日に焼けた肌と歯をむき出しにする無邪気な笑顔。少年、といわれたら思い浮かぶのはそんな男の子の姿だ。典型的と言われるかもしれないけれど、わたしは実際そんな子と出会って、言葉を交わしたことがある。
それはもう何年も何年も前の夏の日のこと。
小学二年生だったわたしは、夏休みに母方の祖父母の家によく遊びに行っていた。電車に三十分ほど揺られたら、見えるのは壮大な自然の緑色。そこかしこから聞こえてくる風鈴の音と祖母が作るごはんが大好きで、わたしはいつもワクワクしながら向かっていた。お盆だけ休みになる両親も、子どもを一人にさせない安心感のためか、祖父母宅に行くようわたしに勧めていた。
緑の葉を揺らす大木も独特な匂いがする祖父母の家も、いろんな家から聞こえてくる様々な風鈴の音も、とっくに慣れたはずなのに、感じるたびに心が躍る。敏感で繊細で純粋な感性は、きっと子どもしか持てないものだろうと、当時のわたしはもちろん知らなかった。
祖父の畑仕事の手伝いをして、祖母の料理や洗濯の手伝いをする。美味しいお昼ごはんを食べたら昼寝して、冒険と名付けた探索に出かける。それが当たり前になっていたある日、わたしは一人の男の子と出会った。遊具が滑り台だけの公園に面する山の中だった。
いろんな虫の鳴き声が聞こえた。ヘビが足元を通り過ぎていった。そんな自然の中で、わたしは祖母に持たされた麦茶を勢いよく飲んでいた。その日はとても暑く、全身に汗が流れていて、麦茶をいくら飲んでも喉は乾いていた。
そんなわたしに声をかけたのは、見ず知らずの男の子だった。
「お前、なに飲んでるの?」
声がした方に顔を向けると、全身で夏を表している男の子がいた。知らない子だったけれど、その頃のわたしには警戒心の欠片もなかった。
「麦茶。おばあちゃんがいれてくれたの。」
「おれはアクエリアス持ってるぜ。」
少年は空いた手の指で大きな水筒を差しながら、誇らしげに言った。
麦茶とアクエリアスで大した優劣はつけられないけれど、あまりにも少年が誇らしそうに言うので、わたしは悔しくなった。
「麦茶もおいしいもん。」
「あっそ。おれはアクエリアスだから。」
繰り返す少年の前で、わたしはもう一度麦茶を飲んだ。すると、わたしの興味を引きたかったのか、少年が問いかけてきた。
「お前、なんでここにいるの?なにしにきたわけ?」
「ぼうけん。」
まとわりつく蚊を目で追いながら答えると、少年は笑った。
「冒険?お前が?一人で?ははっ、おもしろいな。よし、なら俺がお前を手下にしてやる。お前みたいなチビが一人で冒険しても、なにもできないからな。」
上から目線も物言いをする少年に無視を貫いてもよかったかもしれない。けれど、わたしは少年についていくことにした。
わたしの回りを飛んでいた蚊が、少年の焼けた肌にピタリと止まったから。
少年は虫を捕まえてカゴに入れてはわたしに自慢した。虫に詳しいのか、それの名前や特徴をひとつひとつ丁寧に教えてくれた。
虫を捕まえては誇らしげにしながら、少年は山の中を進んでいった。
虫取り網も虫かごも持っていなかったわたしは、少年の後を大人しくついていき、自慢されて虫の説明を聞かされ、若干飽きながら、それでも小さな背中についていった。
太陽が傾き、わたし達は走って山を降りた。最後の坂道で少年が勢いよくコケて、わたしもつられるようにコケた。わたしはサッと手を出せたけれど、虫取り網を片手に持っていた少年は、膝と頬から血を垂れ流すことになった。
わたしが帰ろうと背中を向けた時、少年が「明日も来いよ!」と叫んだ。わたしも「わかった!」と叫び返した。
けれど、次の日は大雨が降り、わたしは祖父母の家にこもっていた。約束通り公園に行こうとしたけれど、祖母に止められてしまった。
その次の日には、祖父母の家についてすぐに荷物を放り投げ、急いで公園に向かった。昼にはごはんだけ食べに帰ったけれど、実質一日中公園にいた。それでも少年は、現れなかった。祖母に少年のことを聞いてみても、そんな子は知らないと言われてしまった。
あの日、わたしが大量の雨を降らす空を睨んでいた日、少年は公園にいたのだろうか。片手には虫取り網、片手には傘を持って、わたしを待っていたのだろうか。
そんなことを思い出したのは、今のわたしが旅行中に大粒の雨を浴びさせた空を睨んでいるからだ。