ーー感情を捨てろ。おまえは、言われたことだけしていればいい。
そう育てられた少年は、今、体に深い傷を負い、冷たい路地裏に横たわっていた。
表通りの石畳とは違う、粗い砂利が、初めは薄い服の背中越しに感じられたが、その感覚もやがて薄れてきた。
おれは、ここで、死ぬのかな……。
少年のような、貴族の屋敷の下仕え人は、その主人によって運命が決まった。
与えられる仕事は、様々だった。草刈りや屋敷の掃除などの雑用もあれば、執事としての上等な仕事に就く者もいる。そして、彼のようなーー汚れ仕事を、させられる者も。
「……っ、」
ごぼ、という音と共に、血の混じった咳が喉から溢れた。ナイフで抉られた腹は、今はただ熱く、痛みはなかった。
倒れたまま見上げた空は、鈍色で、遠い。
首を傾けて、路地の壁の隙間から、表通りの方を見た。
小さな可愛らしい布靴が、大きな革靴と、ヒールのある靴と一緒に通り過ぎていく。小さな女の子の、こぼれるような笑い声が聞こえた。
ああ、とつぶやいた声は、音にならなかった。
もし、おれが、あんなふうな場所にいたらーー…。
年上の仲間から頭を撫でられた時に感じた、あたたかさを。道端に捨てられていた仔犬を抱き上げた時に、湧き上がった気持ちを。
言い表す言葉を、知っていただろうか。
少年にとって、その子どもは遠い存在で、羨ましいとは思わなかった。
ただ、春の日差しが降ってきたような、やわらかな思い。それを何と呼べばいいかわからないことが、ひどくさびしかった。
いつかーー…。
その感情に名前がつく日を、薄れていく景色の中で、最後に願った。
『その花が咲く日まで』
(愛を注いで)
自分自身に問いかける。本当にこれでよかったのか、と。
齢は六十を超え、身体のどこかがきしむ音を聞かぬ日はない。
先代である父から家を継ぎ、傾きかけた事業を立て直そうと、これまで必死にやってきた。幸いにも多少の商才はあったらしく、魔術師や貴族と特産品や調度品の取引を通じて、それなりに財も成した。結婚こそ縁はなかったが、弟一家と交流しているおかげで、寂しさなどはない。身の回りの世話なども、雇い人がしてくれており、何不自由のない生活を送ることができている。
振り返れば、いい人生だったと、他人は羨むだろう。
けれど……。
屋敷の階段を降りながら、胸に湧く思いがある。
まだ冷たい空気の中で、春の訪れの気配を感じたとき。秋の初めに、心を揺らすような涼しい風が吹いたとき。
何かに、呼ばれるような気はしなかったか。
小さな荷物を担いで、見知らぬ土地に行って自分を試してみたくはないか。そんなふうに、何者かにそそのかされることはなかったか。
踊り場にある、大きな姿見の前に着いた。
何代も前から受け継がれている、立派な額装がしてあるものだ。
その中に映し出された、自分の姿と向き合った。
仕立てのよい衣服に身を包んでいても、その表情は、どこか、満たされていないように見える。
磨き上げられた鏡面に、近づいた。節が目立つ手を伸ばし、触れてみる。
わかっていた。
この手は、契約のためのペンではなく、旅のための杖を握りたいのだ。
階段を降りる時、頑なに手すりを使わないのは、いまだに足腰が弱っていないと思いたいのだ。
自分が、本当は何を望んでいるのか。
鏡の中に、一瞬、旅装に身を包んだ自分が見えた、ような気がした。
当主としての責任は、もう十分果たしたように思う。一緒に事業をしている弟なら、この家を継いで、上手くやっていってくれるだろう。
心の中で蓋をしていた箱が、ゆっくりと開く。
今まで背負っていたものを下ろし、どこというあてもなく、国中を旅してみよう。もしかすると、その先の国々へも。
そう決めた後の自分は、見たこともないほど、穏やかな顔で笑っていた。
さあ、心のおもむくままに。
『旅の途』
(鏡)
私は、静かに目を開いた。
天井近くにある、唯一の窓から、朝の光が差し込んでくる。
ここは、塔の上にある小さな王廟だった。この石造りの建物の中には、先祖を祀った正面の祭壇と、今私が腰掛けている椅子、水差しの乗った小さな卓しかない。
即位を控えた前夜は、王子の位を返上し、この廟に籠もるーー国の決まりにより、今だけは、私はどんな身分でもなく、全ての狭間にいた。
昨晩から、一人ここで過ごしている間に聞こえたのは、遠くで獣の吠える声、そしてーー、
「あなたたちは、私を受け入れていないのだな」
私は、祭壇に向かい、口の端を歪めて笑った。
しんと冷えた闇の中にいると、過去の王たちが私を責める声が、呪詛のように染み出してくるように感じたのだ。
それは、愚かな王になろうとする子孫を咎める賢王たちの声が本当に届いたのか、はたまた私の中に、まだためらう気持ちが残っているのか。
「だが、後戻りはできない」
私は、豪奢な衣の裾を払って、立ち上がった。
確実に王位を継ぐために、兄を陥れ、父王の死期が早まるように画策した。少しずつ準備を進めてきた隣国との戦も、やがて始まるだろう。
自分のしてきたことの重みは、誰よりもよくわかっている。これから、大きな波が襲いくるだろうことも。それでも、成し遂げたいことがあった。
王廟の扉が、外から開いた。
「即位式のお時間です」
私は頷いて、足を踏み出した。
風の音に混じって、どこかで時を告げる鳥の声が、聞こえた気がした。
『狭間の終わり』
(嵐が来ようとも)
今日は、一年で一番日が長くなる。魔力が強まるこの日は、毎年、国で大掛かりな祭りが開かれ、あちこちに催しのテントが出る。
わたしにとっても、特別な手助けをする、忙しい一日だ。
「お次の方、どうぞ」
わたしは、自分のテントに入ってきた少年を、木の椅子に座らせ、目を閉じるように促した。
吊りズボンを履いた少年は、大人しく言われるがままに腰を掛けたが、握った拳に緊張が表れていた。
無理もない。これで、自分の運命が決まるのだから。
わたしは息を吸うと、右手に持っていた一振りの枝をかざした。特殊な力を含む実がなった、ハイゼルの枝だ。
さらさらと、少年の顔の前で、その枝を上下に動かす。
ーーこの者の、秘めたる力が、現れますように。
そして口の中で、呪文を唱える。手に持った枝が熱くなり、願いに応えるように震えた。
「いいわ、開けてみて」
ぱっと、少年が目を開く。その茶色い瞳の奥には、先ほどまではなかった、小さな赤い花が映っていた。
「赤ーー〈炎〉の力ね」
「ほんと⁉︎ やった!」
少年が顔を輝かせて、ぴょんと椅子から飛び降りた。テーブルの上にある鏡を覗き込む。
「父ちゃんと一緒だ」
その様子に、思わず頬が緩んだ。
「よかったね」
「うん、ありがとう!」
魔力を持つ者は、瞳の中に、その力に沿った色の花が咲く。
だが、その種が芽吹くのは、一年にたった一日、今日という日にだけ。そして、〈時〉の魔力を持った者に、種の成長を手伝ってもらう必要があった。
テントから出ていきかけた少年が、こちらを振り返った。
「お姉さんは、何の花の人ーー?」
わたしは微笑んだ。
わたしの瞳の中の花は、もうほとんど見えないくらい、色が薄くなっている。〈時〉の魔力のおかげで、この外見からは想像もつかないだろう、長い時を生きてきたから。
外から、少年を呼ぶ、両親の声がする。
「花を、咲かせる手伝いをする人よ」
そう告げて、テントの外へ彼を送り出す。
きっと、わたしの花はもうすぐ散るだろう。でも、瞳の中に色鮮やかに開く、たくさんの花を見てこれたおかげで、心残りはあまりない。
ただ、もし一つ願いが叶うならーーめったにない、〈時〉の花の芽吹きに、立ち会うことができたらいいなと思っている。
『瞳の種』
(花咲いて)
湿っぽい洞窟から、鉄格子越しに見える、綺麗なもの。
ーーあそこに見えるのは、なあに?
そう聞いた私を哀れに思ったのか、「あの青い色は、空だ」と教えてくれたのは、年老いた牢番だった。
山の中ほどにある、この洞窟は、入り口に鉄格子がはめられ、牢屋として使われていた。
ーー村を大きな嵐が襲った夜に、生まれた忌み子は、怪異となりて災いをもたらす。しかし手を下せば呪いが返るため、生かして封じるべしーーそんな言い伝えのもとに、私は物心がついた頃から、この牢屋に閉じ込められていた。
一日一回、差し入れられる食事。洞窟の奥の囲いの中で、用を足す。それ以外に、私ができることといったら、外を眺め、牢番に話しかけてみることだけだった。
そんな、変わり映えのない毎日が続いていく。
牢番は、数人の村人が交代でついているようだった。ほとんどの牢番は、私と言葉を交わすと呪われると思っているのか、返事があることはまれだった。
だが、その中で一人、その年老いた番人だけは、私に色んなことを教えてくれた。物の名前も、天候の見方も、村の言い伝えも。
ぼそぼそと、白いひげの下から出てくる言葉は、水のように、渇いた私に染み込んだ。亡くなった孫娘と私の背格好が似ているから、と彼は言った。
私にとって、単なる“外”でしかなかった場所は、空であり、大地であり、鮮やかな色がついている世界なのだと、知った。
そうして、知ってしまったがゆえに。
自分が当たり前だと思っていたものはーーごく一部の切り取られた景色で、私はここから出ることを許されないことが、ひどく苦しくなったのだ。
もっと、たくさんのものを。広い空を見てみたい。
握りしめた鉄格子から、きしむ音がした。
もし、私が、本当に災いであるなら。この牢を砕いて、外に出ることも叶うだろうか。
『その空の先を望んで』
(私の当たり前)