私は、魔法の力を失った。
この指先には、二度ともう、光は灯らない。
枯れた花を芽吹かせた日も、分厚い雲を追い払い星を眺めた夜も。私の隣には、いつもあの人がいた。
生まれつき、体内で魔法の力が滞ってしまっていた私は、それをうまく表に出して使うことができなかった。
母も、父も、兄妹たちも。手を振るだけで魔法を軽々と操る彼らは、誰ひとりとして、私の苦しみをわかってはくれなかった。
この身のうちには、たしかに魔力のあたたかさを感じるのに。それを示す術はなかったのだ。
幾度も、指先を擦り合わせても、私の前には魔法は現れてくれなかった。
ただ、その人だけが。
私の手を握ってくれた時、魔法を引き出すことができた。
どうして、普通の人間であるその人が、そんなことができたのかはわからない。
じんわりと、体の中を通ってきた魔法が、指先を温め、あたりが明るくなったとき。
私は生まれてはじめて、自分の力を知った。
それからは、いくつもの季節をその人と共に過ごし、小さな用事と、少し大きな事柄に、魔法を使った。
けれども、それは決して、万能な力ではなかった。
その人の、零れ落ちていく命を押し留めることは、とうてい叶わなかった。
祈るように握りしめた指先が、だんだんと冷たくなっていったことを、今でも覚えている。
あの時、私は、少しでも苦痛を和らげることができただろうか――。
どうか。
消えてしまった魔法が、あちらで、あなたを温めてくれていることを願っている。
『送る光』
(凍える指先)
彼は、心底怯えていた。
吹き荒ぶ雪の中、真っ白な世界にひとり取り残され、周りには見知った生き物の気配がない。
いや、――遠くから、脅かすような、吠え声だけは聞こえてきていた。獰猛な、獣のような。
この土地にしては例年よりも早い、大雪の訪れだった。
彼と一緒にここへ来た主人は、辺りの様子を見てくる、と言って、しばらく前にこの場所を離れ、そこから戻ってくる様子もない。
果たして、この雪の中で、方角を間違わず、戻ってこられるのだろうか。
身体の芯まで届くような寒さに、彼は震え、足踏みをした。
そうしているうちにも、あの恐ろしい声は、どんどんこちらへ近づいてくる。
怖い。逃げたい。
そう思う彼をここに留まらせているのは、主人への忠誠心などではない。
革紐で、近くの木に繋がれているからだ。
彼を買った主人は、決してひどい人物ではないが、たまに声を荒げたり、叩かれたりすることもあった。
鋭い気配が、迫ってくる。
嫌だ、死にたくない……!
彼は、必死に身を捩った。
すると、主人が急いで繋いだためか、木に結ばれた革紐の結び目が、少し緩んだ気がした。
いける……!
彼は、より強い力で、革紐を何度も引っ張った。
とうとう、結び目が解けた。
雪の中を、彼は、一目散に駆け出した。
恐ろしい獣の声とは逆方向へ。
地面を蹴る彼の蹄の下で、ぱっ、ぱっと白い雪煙が舞い上がる。
あれほど恐ろしかった獣の気配は、あっという間に後ろへ遠ざかっていく。
たてがみを靡かせ、走っていく彼の身体は、翼でも生えたかのように軽かった。
『白と馬』
(雪原の先へ)
ふわり、と、彼――何という名前だったか――の体には、やわらかい衣が着せ掛けられた。
きらきらと光を放つ細やかな糸で織られた、上等な絹が、下着の上から、そっと彼を包む。
ほうっと、彼は、強張っていた肩の力が抜けるような気がした。
何か、――見失っていたものがひとつ、この手に戻ってきたような、そんな心持ちだった。
世話人たちが、彼の周りをかいがいしく動いて、さらに衣を重ねていく。彼は、されるがままに、その身を委ねていた。
果物のような、鮮やかな赤い色の上衣を。
彼は、その瑞々しい色合いに、広大な自分の庭で同じ色の果実を手に取ったことを思い出した。
青と紫の入り混じった地に、複雑な紋様が記された帯を。
彼の脳裏には、かつて船で渡った、異国の海の水面が浮かんだ。
そうだ、そんなこともあった―…。
最後に、そっと手に触れさせられたものは、宝飾がちりばめられた、冠だった。
ああ、そうか。わたしは、
静かに、それを頭に戴く。
はるかな昔、まだ年若い彼が位を継いだ時、そうしたように。
王で、あったな――。
目の前の扉が開かれ、明るい、やさしい光に満たされていく。
年老いて、朝になると全てを忘れてしまうようになっても、その王の装束は、いつでも彼に自分を連れてきてくれた。
わたしの“時”は、あとどれくらい残っているだろう。
白髪を背に流しながら、彼は、ゆっくりとその先へ踏み出した。
『光る衣』
(記憶の地図)
ーー感情を捨てろ。おまえは、言われたことだけしていればいい。
そう育てられた少年は、今、体に深い傷を負い、冷たい路地裏に横たわっていた。
表通りの石畳とは違う、粗い砂利が、初めは薄い服の背中越しに感じられたが、その感覚もやがて薄れてきた。
おれは、ここで、死ぬのかな……。
少年のような、貴族の屋敷の下仕え人は、その主人によって運命が決まった。
与えられる仕事は、様々だった。草刈りや屋敷の掃除などの雑用もあれば、執事としての上等な仕事に就く者もいる。そして、彼のようなーー汚れ仕事を、させられる者も。
「……っ、」
ごぼ、という音と共に、血の混じった咳が喉から溢れた。ナイフで抉られた腹は、今はただ熱く、痛みはなかった。
倒れたまま見上げた空は、鈍色で、遠い。
首を傾けて、路地の壁の隙間から、表通りの方を見た。
小さな可愛らしい布靴が、大きな革靴と、ヒールのある靴と一緒に通り過ぎていく。小さな女の子の、こぼれるような笑い声が聞こえた。
ああ、とつぶやいた声は、音にならなかった。
もし、おれが、あんなふうな場所にいたらーー…。
年上の仲間から頭を撫でられた時に感じた、あたたかさを。道端に捨てられていた仔犬を抱き上げた時に、湧き上がった気持ちを。
言い表す言葉を、知っていただろうか。
少年にとって、その子どもは遠い存在で、羨ましいとは思わなかった。
ただ、春の日差しが降ってきたような、やわらかな思い。それを何と呼べばいいかわからないことが、ひどくさびしかった。
いつかーー…。
その感情に名前がつく日を、薄れていく景色の中で、最後に願った。
『その花が咲く日まで』
(愛を注いで)
自分自身に問いかける。本当にこれでよかったのか、と。
齢は六十を超え、身体のどこかがきしむ音を聞かぬ日はない。
先代である父から家を継ぎ、傾きかけた事業を立て直そうと、これまで必死にやってきた。幸いにも多少の商才はあったらしく、魔術師や貴族と特産品や調度品の取引を通じて、それなりに財も成した。結婚こそ縁はなかったが、弟一家と交流しているおかげで、寂しさなどはない。身の回りの世話なども、雇い人がしてくれており、何不自由のない生活を送ることができている。
振り返れば、いい人生だったと、他人は羨むだろう。
けれど……。
屋敷の階段を降りながら、胸に湧く思いがある。
まだ冷たい空気の中で、春の訪れの気配を感じたとき。秋の初めに、心を揺らすような涼しい風が吹いたとき。
何かに、呼ばれるような気はしなかったか。
小さな荷物を担いで、見知らぬ土地に行って自分を試してみたくはないか。そんなふうに、何者かにそそのかされることはなかったか。
踊り場にある、大きな姿見の前に着いた。
何代も前から受け継がれている、立派な額装がしてあるものだ。
その中に映し出された、自分の姿と向き合った。
仕立てのよい衣服に身を包んでいても、その表情は、どこか、満たされていないように見える。
磨き上げられた鏡面に、近づいた。節が目立つ手を伸ばし、触れてみる。
わかっていた。
この手は、契約のためのペンではなく、旅のための杖を握りたいのだ。
階段を降りる時、頑なに手すりを使わないのは、いまだに足腰が弱っていないと思いたいのだ。
自分が、本当は何を望んでいるのか。
鏡の中に、一瞬、旅装に身を包んだ自分が見えた、ような気がした。
当主としての責任は、もう十分果たしたように思う。一緒に事業をしている弟なら、この家を継いで、上手くやっていってくれるだろう。
心の中で蓋をしていた箱が、ゆっくりと開く。
今まで背負っていたものを下ろし、どこというあてもなく、国中を旅してみよう。もしかすると、その先の国々へも。
そう決めた後の自分は、見たこともないほど、穏やかな顔で笑っていた。
さあ、心のおもむくままに。
『旅の途』
(鏡)