自分自身に問いかける。本当にこれでよかったのか、と。
齢は六十を超え、身体のどこかがきしむ音を聞かぬ日はない。
先代である父から家を継ぎ、傾きかけた事業を立て直そうと、これまで必死にやってきた。幸いにも多少の商才はあったらしく、魔術師や貴族と特産品や調度品の取引を通じて、それなりに財も成した。結婚こそ縁はなかったが、弟一家と交流しているおかげで、寂しさなどはない。身の回りの世話なども、雇い人がしてくれており、何不自由のない生活を送ることができている。
振り返れば、いい人生だったと、他人は羨むだろう。
けれど……。
屋敷の階段を降りながら、胸に湧く思いがある。
まだ冷たい空気の中で、春の訪れの気配を感じたとき。秋の初めに、心を揺らすような涼しい風が吹いたとき。
何かに、呼ばれるような気はしなかったか。
小さな荷物を担いで、見知らぬ土地に行って自分を試してみたくはないか。そんなふうに、何者かにそそのかされることはなかったか。
踊り場にある、大きな姿見の前に着いた。
何代も前から受け継がれている、立派な額装がしてあるものだ。
その中に映し出された、自分の姿と向き合った。
仕立てのよい衣服に身を包んでいても、その表情は、どこか、満たされていないように見える。
磨き上げられた鏡面に、近づいた。節が目立つ手を伸ばし、触れてみる。
わかっていた。
この手は、契約のためのペンではなく、旅のための杖を握りたいのだ。
階段を降りる時、頑なに手すりを使わないのは、いまだに足腰が弱っていないと思いたいのだ。
自分が、本当は何を望んでいるのか。
鏡の中に、一瞬、旅装に身を包んだ自分が見えた、ような気がした。
当主としての責任は、もう十分果たしたように思う。一緒に事業をしている弟なら、この家を継いで、上手くやっていってくれるだろう。
心の中で蓋をしていた箱が、ゆっくりと開く。
今まで背負っていたものを下ろし、どこというあてもなく、国中を旅してみよう。もしかすると、その先の国々へも。
そう決めた後の自分は、見たこともないほど、穏やかな顔で笑っていた。
さあ、心のおもむくままに。
『旅の途』
(鏡)
8/19/2023, 5:48:29 AM