空気を震わせるブザーの音。ざわめきの静まる会場。無音に込められた期待と緊張を全身で感じとる。
ゆっくりと上がっていく緞帳も、暗闇から一転、網膜に焼き付く程にこちらを照らす照明も、全てを舞台に引き込む劇的で叙情的な音響も、どれもがわたしの愛すべき世界だった。
何度も唱えた台詞。指の先まで間違いのない動き。わたしは、わたし以外の何者にだってなれるのだ。
観客の目を惹き付けて、ひとり舞台を踊り尽くす。息が切れて、声が枯れて、足が棒のようになり地に伏せるまで。床が抜けて、照明器具が落下して、悲劇的にこの命が尽きるまで。わたしはただ、いつか見た第四の壁の向こう側に立っていたいだけ。台本に描かれた、現実では無いどこかの景色を見せていたいだけ。
どこからか聞こえる低い咳払いの音も、退屈さを隠そうともしない寝息のひとつも、隣合う席と話し合う囁き声も存在しない。聞こえない。
これはわたしの、わたしのための舞台だから。
真正面、上手から下手まで全てを美しく見渡せる一等の席で、わたしが吸い込まれるようにこちらを観ている。
台詞に織り込まれた小粋な冗談と大袈裟な身振りに笑みを零し、大胆でロマンチックな恋物語に胸を高鳴らせ、恐ろしく急変する展開に息を飲み、変えることのできない運命に涙を流すわたしがいる。
物語を全て知っていようとも、時間の許す限り何度だってチケットを買う。幕が上がるその時まで、弾けそうなほどに心臓を動かしている。
目いっぱいに伸ばす手も届かない、けれど目の前に存在する別世界に痛いほど焦がれている。
時間を重ねる度に変貌する舞台。それぞれが巻き戻すことの出来ない、たった一回限りの開場。
所狭しと書き込まれた台本のページがめくられていく。時間を惜しみなく掛けて組み上げた舞台装置が崩れそうなほど揺れている。盛り上がる音楽が何もかもを掻き消そうとしている。私を照らし出すスポットライトが白く飛んでいる。
止めどない拍手喝采。割れんばかりの騒音。立ち上がる観客たちの中央に座るわたしだけが何も出来ず目を見開いている。
違う、違う、嫌だ、行かないで、待って、まだ!
どちらのわたしの叫びも聞き入れてくれない緞帳が重く、無慈悲に下りていく。台詞は続いている。舞台の上に立つわたしだけが暗闇に残されていく。でたらめな続きを作っても、延長などされるはずもないというのに。
分厚い幕の向こうでざわめきが復活する。客席の明かりが点灯していく。わたしだけが永遠を望んで動けないままでいる。再び緞帳が上がる時をここでずっと待っている。
終演のブザーをどうか鳴らさないで。
【終わらせないで】
夏空がよく似合う。
この季節には似つかわしくないような白い肌も、ふわふわと広がる波打った細い髪も、あの不気味なほどに無機質で平坦に伸びる青色の中では一際浮かんで見えた。
今日は快晴だ。
少女が駆け回るにはいささか強すぎる日差しが地面を焦がしている。庭の向こう側で向日葵が揺れた。
気遣いで差し出した日傘は、不自由になるからと断られたのだったか。代わりに送ったつばの広い麦わら帽子は随分と気に入ってくれたようだ。
淡い花柄のサマードレス、ほんの少し大人ぶるローヒールサンダル。花壇を手入れする最中に摘んだ、いくつかの花をその帽子に差してやれば、少女はこちらを見上げてはにかんだ。
細かな網目状の影が落ちる柔らかな頬。控えめなそばかすと、ひんやりと透き通った瞳がずっと私の頭に棲みついている。楽しそうに口角の上がった唇から紡がれる音階の名前が思い出せない。けれどずっと懐かしさが記憶を叩いている。
青々と茂る植物たち。芝生を踏む音。じりじりと景色を揺らす陽炎。手に持ったホースから弧を描いて流れゆく水がそれら全てを濡らす。
暑い、日だった。
手が滑る。盛大に足にかかった冷たさに気が付いた時、直射日光が見せたいつかの情景は消え去っていた。
足元に落ちた花を拾う。眩しくひらめくスカートの裾が、くらくらとする視界の端に映った気がした。
ああ、せめて帽子くらいは被っておくんだった。
【麦わら帽子】
締め切った部屋で毛布に包まる。横になれば徐々に穏やかに緩むはずの呼吸は、私の願いに反して荒い。
深呼吸。暗闇の中に浮かんでは消えてくれない不安がその効果を拒む。毛布の柔らかい毛足は安心に不十分だった。
「長い夜がこわいの?」
意を決して閉じた瞼。しかし枕元で聞こえた声に視界は一瞬で開かれた。
知らない顔。心配そうに私の顔を覗き込む誰かは、蝋燭のように揺らめく光を身にまとっていた。
「眠れないから?」
「……そうだけど、ちがう」
それは結果であって原因ではない。私の傍、ベッドに座った誰かと会話することに、私は不思議と違和感も恐怖も抱いていなかった。そこにいることが当たり前であるかのようで、そこにいて欲しい存在。私はゆっくりと怠い上半身を起こした。
「自分でもわからない。でもこわいんだ。夜も、ひとりも、明日も。ずっと、毎日こわい」
ぽつぽつと、自然に言葉が零れる。顔を歪めるよりも先に涙が頬を伝う。震える身体では、パジャマの裾で拭うことも叶わなかった。代わりに、夜の空気とはちがう何かが涙に触れる。
滑らかな指が塩気と悲しみを含んだ水滴をすくって、その誰かはそっと手を離した。共感や励ましの言葉も口にすることはなく、ただ静かに話を聞こうとしてくれる誰かは、私の求めていたものだったのかもしれない。自分勝手だとわかっていても、その行動が欲しかった。
「どうしたら解決するかなんて調べたってわからないし、検索結果は更に不安を煽るし、でも助けを求めるほどの勇気も、それだけの事柄でもないんだ」
それら全てのマイナス感情を発散する場所も、相手も、術も知らなかったから、ここまで溜め込んでしまった。
現実味のない誰かはじっとそこにいる。ゆっくり相槌をうち、私の止まらない涙を綺麗なハンカチで吹いてくれる。私は真っ赤な目元とひどい顔を見せたくなくて、ずっと俯いたままでいた。
「……ねえ、ぼくはほんの少し魔法が使えるんだよ」
私が口を閉じると、その誰かは静かな声で、けれど楽しみを孕んだ音色で囁いた。何の話かと怪訝に思い顔を上げる。自称魔法使いは微笑み、演奏を始めるように指を振った。
きらきらとその指先の軌道を追って広がる橙色の光の粒。それは本当に、いつか見たおとぎ話の魔法を彷彿とさせた。光の粒はどこからか二つのマグカップを連れてきて、私と魔法使いの手元に収まる。
「ココアがいい? それともホットミルク?」
呆気にとられながらも「ココア」と返す。するとたちまちカップの中に光が満ちて、それは手のひらをじんわりと温める茶色の液体に変わった。
横で満足そうに自分のカップを傾ける魔法使いを見てから、おそるおそる口に運ぶ。ぬるくなく、けれど舌を火傷するほど熱くはない。口の中全体に広がる懐かしい甘みは、不思議と私に安心感を与えてくれた。
「……これは夢?」
それ以外にありえない。だって魔法なんて便利なものはフィクション以外に存在しないし、面識もない誰かがいつの間にか私の傍にいるだなんて現実だったら怖すぎる。それでも私がこの魔法使いとやらに、周囲に隠し続けてきた心を開いてしまった理由は、夢であると言う他考えられないのだ。
宙に舞った光の粒を、星空みたいだとぼんやり考えながら眺める。ここ最近眺める余裕さえなかった景色。
魔法使いは少し考えてから「そうかもね」とだけ告げた。
「ぼくはね、誰かを助けられるわけじゃないけど。不安を完全に消し去ってあげることは出来ないけど。
こうやってそばにいて、せめて明日はいいことが起きるようにって魔法をかけてあげられる」
そう言ってまた一口ココアを飲んだ魔法使いは、閉じられたカーテンに光で満月を描いた。部屋中を包み込む仄かな光は私の頬を乾かして、疲れと共に穏やかな眠気を優しく誘う。自然に手から離れていくマグカップと、ふわりと身体を覆う毛布。視界を奪う暗闇は、もう不安の上映を始めなかった。
「おやすみなさい」
とん、とん、と一定のリズムを刻む魔法使いの手のひら。返事を返す間もなく、私は恐れていたはずの夢の中へと意識を落とした。
明日、目が覚めた時。貴方の見る世界に昇るのがあたたかな光でありますように。
ささやかな魔法使いはそう残して消えた。
【朝日の温もり】
変色する空と降り止まない瓦礫、阿鼻叫喚という表現がこれ以上似合う日はもうきっと来ないだろう。
全ての生物の日常が瞬く間に崩れ、足掻きが無に帰す世界をただ呆然と見つめていた。危険ひとつ振りかからないおかしな瓦礫の塔で、隣に座る君は穏やかな顔をして絶望を眺める。
どうして、とうわ言のように呟けば、君は
「きみが『世界なんて終わってもいい』って言ったから」
とこちらを向いて微笑んだ。褒めて、と頭を差しだす犬のように。自分には触れることも、手を伸ばすことも出来なかった。
君の意思ひとつで、予告もなく文明は、世界はその幕を悲劇的に閉じる。現実をこの目に映してなお、それはまるで信じることも馬鹿げたフィクションに思えた。そう思いたかった。
「初恋だったんだよ、きみが」
伝説の木の下でも、文面でもデートの最中でもない。考えうる限り最もドラマチックで、最も異常な告白。
ただの恋する乙女のように頬を染め、照れ隠しでいじらしくとっておきの景色へと視線を背ける。周囲は今までにないほどうるさかったはずなのに、傍にいる君の声だけがすっと耳に入ってきた。
ひとがたをした、可愛くて残酷なひとでなし。
「きみのためなら何だってできるって、知ってもらいたかったんだ」
常識から外れた善意と好意は、たった一部を除いた地獄を生み出すのだと知った。自分たちの周囲だけが時間の流れを無視しているかのようだった。
君の正体も知らず、ほんの些細なことで世界を呪った過去の自分が愚かだったと思わざるを得ない。徐々に静寂と荒廃をもたらしていく砂嵐が、全ての後悔さえも掻き乱してなくしてくれたなら。視界を覆う水の揺らめきが、どこかで上がる炎の色を拒んでぼやかした。
それとも、自分が本当に世界を嫌いであれたなら。こちらの涙を困惑したように拭う君を、喜びと感謝を込めて抱きしめてあげられただろうか。
悪意など微塵もない無知な君を責める気さえ今は到底浮かばなかった。見るも無惨、何もかも終わりだった。
「ねぇ、これが終わったら何をしようか。何でもしていいんだよ、自由なんだよ。何でも叶えてあげられるんだよ、だから、」
日常も、世界も、君の初恋も。
自分たちが、無数にあった選択肢のどれかを誤ったせいで。
「笑ってよ……」
この終幕にはカーテンコールも拍手喝采もない。もしも再公演があったのなら、結末は変えられるのだろうか。もっと幸せで望ましい世界の終わりを迎えられるだろうか。
あわれな君へ罪悪感と慰めの歪な微笑みを。脆い瓦礫の塔は太陽の光に焼かれて呆気なく崩れた。
【世界の終わりに君と】
たった一つ、彼女からしたら、いいや、世間一般からしてもきっと何気ない言葉で僕の人生は変わったのだ。変わった。いとも簡単に変えられてしまった。
『わたしがずっと一緒にいてあげる!』なんて。
今考えれば到底無茶なことだとすぐにわかるのに、その時の僕は、短い小指をたどたどしいしぐさで絡ませて、嬉しさと知らない鼓動の高鳴りを感じながら頷いた。
幼い頃の思い出なんて、自分で蓋をして心と脳の深い場所に沈めておきたくなるようなものしかなかった。なぜだか綺麗に着色までされて残っているのは彼女と遊んだ記憶だけだ。
僕が生きてきた世界とはまるで違う、親切と祝福をその身にめいっぱい浴びて育ってきたかのような、そんな錯覚を持たせるような顔で笑う彼女。自分の身に降りかかった不幸で周囲に心配をかけまいと、幼いながらに自らいい子であることを選んだ彼女。
純粋で、人懐こく、窮屈そうな彼女。
約束の小指といつか作ってくれた拙いシロツメクサの指輪は、その存在を胸に抱えるだけで僕の前を眩しく照らしてくれた。彼女が絡む過去の日々はほとんど良いものだった。
彼女が家庭の都合とやらでどこかへ引っ越した日を除いては。
わかりやすく言うのならば、それからの日々は灰色だった。元より人と関わる気が希薄で、言葉を選んで口を開くことさえ億劫だった僕に新しい誰かとの関係値が築かれることもなく。
それでもなお心に根を張り続けた彼女の記憶は、約束は空白の時間を使って美化されていく。
『ずっと一緒に』。叶わなかった子供の願いなど割り切って捨ててしまうのが何よりも健康的で常識的に決まっている。可哀想な子供の頃の自分が首を横に振っていても。もう昔の距離感で再び会うことなどないのだから。
でも、もしも。
もしも彼女も自分のした約束と僕のことを覚えていてくれたなら? そんな米粒ほどの望みが手放すことを許してはくれないのだ。理性、常識と願望、欲を上手く共存させ、自分ひとりの知る宝石として約束は保存される。
あの日のこと、僕は生涯忘れることなど出来ないだろう!
彼女を見つけた。
大学進学の折に地元を離れ、新たな生活の始まりとなる場所で再会できるだなんてどんな確立の幸運だろうか。しばらく見ない間に随分大人びた姿になった彼女は、綺麗で上出来な微笑みを常にたたえていた。
街角ですれ違っただけだというのに、本人だと認識できた。こちらを見て立ち止まった彼女の唇は確かに僕の名前を紡いでいた。その真珠のような目には確かに幼い僕が映し出されていた。
今までの退屈を埋めるように舞い込んできた偶然は、僕の期待を破裂させ、運命だと思い込ませるには十分すぎるほどだった。
約束はきっとまだ間に合うから。今からでも遅くない、時効なんて設けていないから。僕を暗闇から引っ張りあげた責任を取ってくれ。希望を持たせた責任を。
変わらず、ずっと好きだったから。
だけどそう。僕よりずっと世渡り上手で多くの人と関わってきた彼女にとって、僕なんて子供の頃の友達でしかなくて。
はは、ひどい話だ。彼女が無邪気で、無責任で、優しさと純粋な好意で交わした約束は彼女の記憶に欠片も残されていなかった。馬鹿みたいじゃないか。酷い裏切りじゃないか。綿毛くらいに軽い言葉だったって?そのひと文字一文字を僕の全てにしておいて。その声で根を張り僕の心を奪い続けておいて。
彼女は『ごめんね。約束ってなんだったっけ』なんて。眉を下げて、ほんの申し訳なさそうなその笑顔で。
無関心になれなかったのが僕の間違いだったとでも言うのだろうか。過去で唯一伸ばされた暖かな手を、その思い出を振り払ってしまえなかったのが罪だとでも。
僕の知らない誰かを隣に、今を見て生きる彼女が憎くて、彼女を奪った周囲が憎くて、確実にどこかで道を踏み外した自分が憎くて、仕方なかった。
僕を狂わせた綺麗で眩しくて最低な彼女。嫌いで、大嫌いで、忌々しくて厭わしくて。それでもまだ愛してしまった。
全てがぐちゃぐちゃに混ざりあった後の汚い色が渦巻いて、そこからようやく絞り出した僕の化け物じみた感情をたった漢字二文字で表せてしまうというのだから、言葉なんてずっとろくなものではなかった。
【最悪】