匿名様

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たった一つ、彼女からしたら、いいや、世間一般からしてもきっと何気ない言葉で僕の人生は変わったのだ。変わった。いとも簡単に変えられてしまった。
『わたしがずっと一緒にいてあげる!』なんて。

今考えれば到底無茶なことだとすぐにわかるのに、その時の僕は、短い小指をたどたどしいしぐさで絡ませて、嬉しさと知らない鼓動の高鳴りを感じながら頷いた。
幼い頃の思い出なんて、自分で蓋をして心と脳の深い場所に沈めておきたくなるようなものしかなかった。なぜだか綺麗に着色までされて残っているのは彼女と遊んだ記憶だけだ。
僕が生きてきた世界とはまるで違う、親切と祝福をその身にめいっぱい浴びて育ってきたかのような、そんな錯覚を持たせるような顔で笑う彼女。自分の身に降りかかった不幸で周囲に心配をかけまいと、幼いながらに自らいい子であることを選んだ彼女。
純粋で、人懐こく、窮屈そうな彼女。
約束の小指といつか作ってくれた拙いシロツメクサの指輪は、その存在を胸に抱えるだけで僕の前を眩しく照らしてくれた。彼女が絡む過去の日々はほとんど良いものだった。
彼女が家庭の都合とやらでどこかへ引っ越した日を除いては。

わかりやすく言うのならば、それからの日々は灰色だった。元より人と関わる気が希薄で、言葉を選んで口を開くことさえ億劫だった僕に新しい誰かとの関係値が築かれることもなく。
それでもなお心に根を張り続けた彼女の記憶は、約束は空白の時間を使って美化されていく。
『ずっと一緒に』。叶わなかった子供の願いなど割り切って捨ててしまうのが何よりも健康的で常識的に決まっている。可哀想な子供の頃の自分が首を横に振っていても。もう昔の距離感で再び会うことなどないのだから。
でも、もしも。
もしも彼女も自分のした約束と僕のことを覚えていてくれたなら? そんな米粒ほどの望みが手放すことを許してはくれないのだ。理性、常識と願望、欲を上手く共存させ、自分ひとりの知る宝石として約束は保存される。

あの日のこと、僕は生涯忘れることなど出来ないだろう!
彼女を見つけた。
大学進学の折に地元を離れ、新たな生活の始まりとなる場所で再会できるだなんてどんな確立の幸運だろうか。しばらく見ない間に随分大人びた姿になった彼女は、綺麗で上出来な微笑みを常にたたえていた。
街角ですれ違っただけだというのに、本人だと認識できた。こちらを見て立ち止まった彼女の唇は確かに僕の名前を紡いでいた。その真珠のような目には確かに幼い僕が映し出されていた。
今までの退屈を埋めるように舞い込んできた偶然は、僕の期待を破裂させ、運命だと思い込ませるには十分すぎるほどだった。
約束はきっとまだ間に合うから。今からでも遅くない、時効なんて設けていないから。僕を暗闇から引っ張りあげた責任を取ってくれ。希望を持たせた責任を。
変わらず、ずっと好きだったから。


だけどそう。僕よりずっと世渡り上手で多くの人と関わってきた彼女にとって、僕なんて子供の頃の友達でしかなくて。
はは、ひどい話だ。彼女が無邪気で、無責任で、優しさと純粋な好意で交わした約束は彼女の記憶に欠片も残されていなかった。馬鹿みたいじゃないか。酷い裏切りじゃないか。綿毛くらいに軽い言葉だったって?そのひと文字一文字を僕の全てにしておいて。その声で根を張り僕の心を奪い続けておいて。
彼女は『ごめんね。約束ってなんだったっけ』なんて。眉を下げて、ほんの申し訳なさそうなその笑顔で。

無関心になれなかったのが僕の間違いだったとでも言うのだろうか。過去で唯一伸ばされた暖かな手を、その思い出を振り払ってしまえなかったのが罪だとでも。
僕の知らない誰かを隣に、今を見て生きる彼女が憎くて、彼女を奪った周囲が憎くて、確実にどこかで道を踏み外した自分が憎くて、仕方なかった。
僕を狂わせた綺麗で眩しくて最低な彼女。嫌いで、大嫌いで、忌々しくて厭わしくて。それでもまだ愛してしまった。
全てがぐちゃぐちゃに混ざりあった後の汚い色が渦巻いて、そこからようやく絞り出した僕の化け物じみた感情をたった漢字二文字で表せてしまうというのだから、言葉なんてずっとろくなものではなかった。


【最悪】

6/6/2023, 6:25:02 PM