締め切った部屋で毛布に包まる。横になれば徐々に穏やかに緩むはずの呼吸は、私の願いに反して荒い。
深呼吸。暗闇の中に浮かんでは消えてくれない不安がその効果を拒む。毛布の柔らかい毛足は安心に不十分だった。
「長い夜がこわいの?」
意を決して閉じた瞼。しかし枕元で聞こえた声に視界は一瞬で開かれた。
知らない顔。心配そうに私の顔を覗き込む誰かは、蝋燭のように揺らめく光を身にまとっていた。
「眠れないから?」
「……そうだけど、ちがう」
それは結果であって原因ではない。私の傍、ベッドに座った誰かと会話することに、私は不思議と違和感も恐怖も抱いていなかった。そこにいることが当たり前であるかのようで、そこにいて欲しい存在。私はゆっくりと怠い上半身を起こした。
「自分でもわからない。でもこわいんだ。夜も、ひとりも、明日も。ずっと、毎日こわい」
ぽつぽつと、自然に言葉が零れる。顔を歪めるよりも先に涙が頬を伝う。震える身体では、パジャマの裾で拭うことも叶わなかった。代わりに、夜の空気とはちがう何かが涙に触れる。
滑らかな指が塩気と悲しみを含んだ水滴をすくって、その誰かはそっと手を離した。共感や励ましの言葉も口にすることはなく、ただ静かに話を聞こうとしてくれる誰かは、私の求めていたものだったのかもしれない。自分勝手だとわかっていても、その行動が欲しかった。
「どうしたら解決するかなんて調べたってわからないし、検索結果は更に不安を煽るし、でも助けを求めるほどの勇気も、それだけの事柄でもないんだ」
それら全てのマイナス感情を発散する場所も、相手も、術も知らなかったから、ここまで溜め込んでしまった。
現実味のない誰かはじっとそこにいる。ゆっくり相槌をうち、私の止まらない涙を綺麗なハンカチで吹いてくれる。私は真っ赤な目元とひどい顔を見せたくなくて、ずっと俯いたままでいた。
「……ねえ、ぼくはほんの少し魔法が使えるんだよ」
私が口を閉じると、その誰かは静かな声で、けれど楽しみを孕んだ音色で囁いた。何の話かと怪訝に思い顔を上げる。自称魔法使いは微笑み、演奏を始めるように指を振った。
きらきらとその指先の軌道を追って広がる橙色の光の粒。それは本当に、いつか見たおとぎ話の魔法を彷彿とさせた。光の粒はどこからか二つのマグカップを連れてきて、私と魔法使いの手元に収まる。
「ココアがいい? それともホットミルク?」
呆気にとられながらも「ココア」と返す。するとたちまちカップの中に光が満ちて、それは手のひらをじんわりと温める茶色の液体に変わった。
横で満足そうに自分のカップを傾ける魔法使いを見てから、おそるおそる口に運ぶ。ぬるくなく、けれど舌を火傷するほど熱くはない。口の中全体に広がる懐かしい甘みは、不思議と私に安心感を与えてくれた。
「……これは夢?」
それ以外にありえない。だって魔法なんて便利なものはフィクション以外に存在しないし、面識もない誰かがいつの間にか私の傍にいるだなんて現実だったら怖すぎる。それでも私がこの魔法使いとやらに、周囲に隠し続けてきた心を開いてしまった理由は、夢であると言う他考えられないのだ。
宙に舞った光の粒を、星空みたいだとぼんやり考えながら眺める。ここ最近眺める余裕さえなかった景色。
魔法使いは少し考えてから「そうかもね」とだけ告げた。
「ぼくはね、誰かを助けられるわけじゃないけど。不安を完全に消し去ってあげることは出来ないけど。
こうやってそばにいて、せめて明日はいいことが起きるようにって魔法をかけてあげられる」
そう言ってまた一口ココアを飲んだ魔法使いは、閉じられたカーテンに光で満月を描いた。部屋中を包み込む仄かな光は私の頬を乾かして、疲れと共に穏やかな眠気を優しく誘う。自然に手から離れていくマグカップと、ふわりと身体を覆う毛布。視界を奪う暗闇は、もう不安の上映を始めなかった。
「おやすみなさい」
とん、とん、と一定のリズムを刻む魔法使いの手のひら。返事を返す間もなく、私は恐れていたはずの夢の中へと意識を落とした。
明日、目が覚めた時。貴方の見る世界に昇るのがあたたかな光でありますように。
ささやかな魔法使いはそう残して消えた。
【朝日の温もり】
6/9/2023, 3:35:16 PM