「……ああ、ちょうど良かった。少し誰かとおしゃべりしたい気分だったんです」
雨がトタン屋根を打ち付けるバス停、町の外れにぽつんとあるそこで、少女は左横の枝垂れた木の影に向けてそう言った。
制服なのも構わず吹き込んだ雨粒で濡れるベンチに腰掛けて、黒く曇った空と遠くまで見えない正面の風景をぼうっと眺めながら口を開く。少女にとって、影からの返答がないことはそう重要ではなかった。
ざわざわと風に吹かれた木の葉が擦れ合う。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている」
「有名ですよね。小説でしたっけ。今や都市伝説みたいな扱いですけど」
雨音は時間経過に比例して強くなっているようだった。ぽつりぽつりと、しかしどこか無邪気にこぼされる少女の声ははたしてバス停の外にまではみ出しているのだろうか。波打つ屋根の溝を伝って繋がった大きな水滴が一つ、少女の目の前を滑り落ちていった。
「私、その話を初めて聞いた時、気になって気になって仕方なかったんです」
「作り話だろうって思っていても、もしかしたら本当なんじゃないかって考えがふと頭をよぎるんですよ」
わかりませんか? と少女は問いかける。代わり映えしない景色を真っ直ぐ見据え続けるその顔が枝の伸びる方向を向くことは決してなかったが、それでもその問いは、暗く落ちた影に対して共感を求めるものだった。返事はない。相槌が返ってくることもない。少女はその沈黙を快く受け止める。
「だから、確かめてみたんです。近所の公園に都合よく桜の樹がありまして。日も落ちて、そこで遊ぶ少しの子供も家に帰る頃に、家の倉庫からシャベルを持ち出して木の根元を掘り返しました」
「何があったと思います?」
「何にもありませんでしたよ」
「そりゃそうですよね。強いて言うなら土が、沢山の微生物の死骸が混じっているであろう土がありました。
でも、あの言葉が言いたいのはきっとそういうことじゃないんですよね」
残念そうな薄い笑顔。期待していたものが現れるはずはないと知っていたのにも関わらず、自分の手で夢を壊してしまったことへの後悔。少女は好奇心によって、秘めたままでいたかったはずの謎を殺した。
真実を知って、共有してなお、雨はやまない。一方通行のおしゃべりは続く。
「それから何年か後。割と最近ですね。家の裏手に山があるんですけど、その脇にある細い道路で動物が死んでいるのを見つけたんです。
ああ、もちろん私が殺したわけじゃないですよ? 多分事故かなんかだと思います」
「……何を思ったんでしょうね」
「私は裏山の、特に立派な樹の根元にその屍体を埋めました」
地面にぶつかって弾け、水溜まりの表面にとめどない波紋を作り続ける雨粒が、ざあざあと激しい音を立てている。少女の頭上で響くこもった煩いまでの音が、人知れず告白された事実をひた隠そうとしている。
陰惨に項垂れる枝が、葉が、地面につこうかというほど、少女の表情に興味を持って覗き込もうとしているようにしなる。
「桜でもなんでもない、名前も知らない、年がら年中緑色の樹です。どうしてかその時の私は、そうしたいと、そうするべきだと思い込んでいたんです」
少女に悪気は感じられなかった。ただ不思議そうに、その光景を、抱いていたはずの感情を思い起こそうとしている。少女は自他ともに認める好奇心の塊だった。
脳裏に再生したその思い出が時間を進めるたびに、少女の声は弾み、胸を高鳴らせるようにその大きな目を見開く。今少女の目の前にあるのは天候の沈む町の風景などではなく、あの日の興奮と発見だった。
「そしたらどうなったと思います? そう、次の月、何となくその事を思い出して様子を見に行った春」
「そこには間違いなく桜が咲いてたんです」
「綺麗な花でした。目を奪われて、見ていると不安になるのが分かるほどの」
見間違えるはずも、迷子になるはずもない。少女の知っている限り、裏山の中に桜が咲くことなどそれまでなかった。
では誰かが植え替えた? 一体何のために。そこにあった何の変哲もない樹の下に屍体を埋めたことを、少女は誰にも打ち明けたことはなかった。
たった今、そこにいる真っ暗な影に気まぐれに口を開いたのが初めてだというのに。
「あの話はやっぱり本当だったんでしょうか。私が確かめた公園は、掘り起こす深さが足りていなかったとか。もしかしたら公園の桜も元は違う樹だったんでしょうか」
「それとも。私が、誰かがそうあって欲しいと思ったからそうなったんでしょうか。ただの作り話が広がって、都市伝説になったから」
疑問は尽きない。真相を突き止める術は知らない。
「ふふ。どっちにしろ、私のした事がバレたら怒られちゃいますから。これは内緒にしておいてくださいね」
少女はようやくバス停の横に視線を移すと、その影の中に佇む人型の黒い何かに向けてしぃ、と人差し指を立てた。軽いいたずらを親に隠す子供のように、頬を色づかせてお茶目なはにかみを見せた少女は、傍らに立てかけておいた傘を手に取って立ち上がる。
太陽が姿を隠している中で不自然な程に濃かった影は満足そうに、アスファルトへ雨粒と溶けて染み込んだ。
【誰にも言えない秘密】
集合住宅の一室。本来そこで暮らしていたはずの人物がいなくなってから、どれくらいの月日が経っただろう。
未だその事実を受け止めきれない青年は、毎度たった一本の造花を持ってその部屋を訪れている。
あの人が、先生が好きだと言った白い花。
生活感が残ったままの家具の配置。彼らの持つ記憶が色褪せないように、過去のものにならないように。青年はその埃を払い、丁寧に拭く。
部屋中に飾られた花は全て青年が持ってきたものだった。どれも萎れることなく、望まれたままの綺麗な姿を保っている。
それは彼の願望とエゴの産物であり、先生に向けた想いの丈であった。元の部屋が抱いてしまった寂しさを埋め尽くすように重ねられた花々は、悲しくもこの空間が空白となった日数を記録することとなっている。
青年はただ黙って今日の造花を花瓶に刺した。
素晴らしい人だった。この世の善に目を向けて生き、自らの持つ善を見返りも求めず他者に押し付けるような。いつでも他者のためを思っていると言い、その実全ての行動は自分のためでもあるような。
それでも、目に映る全ての人に手を差し伸べたいのだと理想を語る先生の言動に嘘偽りはなかった。
お人好しで、親切で、誠実な聖人君子。自分勝手で恐ろしいほどの善人。それが先生だった。
そんな人だったからこそ青年はあの人に救われ、あの人は自分の犯した罪と誰かの復讐を受け入れて殺された。
そう、最後まで目の前に優しく、その後の不幸を考えることもない、ひどい良心の塊だった。失われてはならない存在だった。
部屋の中心、白い花畑に埋もれたテーブルセット。椅子に掛けられた白衣は持ち主の姿を鮮明に思い出させる。
先生は木製の馴染んだ椅子に姿勢よく腰掛けて、優しく微笑んでは青年を手招きする。青年は痛々しく、待ち侘びたように目を見開き、躓きそうになりながらそちらへ寄るのだ。
今は留守にしているだけだからと、いつか帰ってくるからと言い聞かせ溜め込み続けた感情を吐露し、幻との再会に安堵を覚える。
そうして疲れ果てればふと夢は覚め、虚ろな思考のまま青年は息をついて帰るのだろう。
全て残酷な日課だった。
この閉じられた部屋は幸せな日々の棺桶であり、その輝きの復活を待つ宝箱でもある。
頭の奥底では分かっているのだ。ただ、青年には今更自身の恩人を帰らぬ思い出に降格させる度胸はなかった。
これは青年が再び真に先生と会える日まで続くのかもしれない。
その可能性を嘆き憐れむ誰かが触れたように、締め切られた窓から淡い光を受けるレースカーテンが虚しく揺れた。
【狭い部屋】
雪が降った。多大なる遅刻なのか、はやる気持ちがゆえのフライングなのか。どちらにせよ季節外れの雪だった。
今は梅雨のはじめ。春から夏へ気温と景色の変化を見せていたここら一帯は、この白い妖精の登場によって困惑と少しの高揚感を持ち朝を迎えた。
広範囲に行き渡った寒さ。いつもの情報番組も、SNSのトレンドも、今日はその話題で埋まっている。
それでも社会とは厳しいもので、いつも通りの生活を強いられるのだ。
もうしばらく出番はないからと奥にしまい込んだ上着を引っ張り出して、幸い真冬ほど冷たくはない空気の中に出ていかなければならない。重い足跡をぽつぽつと先へ、歩道を薄く覆う雪を潰して溶かしていく。
朝は苦手だ。起きられない。こんなに冷える朝なら尚更だった。どう考えても間に合わない時刻を表示する液晶画面をポケットにしまい込み、快適な温度を求めて駅へ入り込む。環境音しか聞こえないような小さな駅は、雪のせいでいつもより寂しく思えた。
切符を買って無人のホームに出ると、ちょうど目の前で発車していく電車を諦めと落ち着きの感情で眺めた。
長い空白の時間は座って待っていようかと、ベンチの置かれた方へ顔を向ける。
ホームには一人、自分以外の誰かの姿があった。
おそらく先程の電車から降りてきたのだろう。何故かどこに行くこともせずに、ただしんしんと降る雪を見て立ち尽くすその誰かには覚えがある。
「久しぶり」
近寄って声をかければようやくこちらに気が付いたようで、呆けた顔は瞬く間に驚きと懐かしさを孕んだ表情に変わった。
彼は何年か前にここを去った友人だった。離れた直後は、定期的とまではいかずとも連絡を取りあっていたが、その回数も月日が経つにつれ減った。存在こそ頭の中にはあれど、最近は全く関わりを持たなくなってしまった。そんな仲。
背丈は何センチ伸びただろうか。声は、顔はどれほど大人びただろうか。記憶の中にいる彼の形は随分すり減っていて、目の前にいる彼の変化の大きさを具体的に実感できない。
「久しぶり。いやぁ、一瞬誰かと思ったわ」
「そんな変わってないよ。……帰ってきてたんだ」
「ん、ちょっとな」
自分から話しかけたくせに、そうなんだ、などと当たり障りのない返事に頷きをそえて返すくらいしか出来なかった。
距離感をはかりかねている。気まずさが拭えなかった。別に仲違いをした訳でも、自分から連絡を絶った訳でもないのに、昔のように話題を繰り出すことが出来なかった。関係の自然消滅などよくある事だというのに、それを元通りにする方法も、そうすることが正しいのかも知らない。
「変な天気だね」
「な」
彼の方はどうなのだろうか。今の今まで、こちらのことなど忘れていただろうか。もう馴染んでしまったどこかの街で、充実した生活を送っているのだろうか。
なんでもないようなその態度の裏が気になって、しかしそれを直球に聞くのはよくないことのような気がして躊躇われた。
普通なら誤魔化しのように思われる天気の話題は、今日ならば新鮮な話として持ち出せる。今はこの雪が有難かった。
「確か雪、好きって言ってなかったっけ」
「よく覚えてんな。今も好きだよ、なんかテンション上がるし」
度々雪を眺める沈黙を挟みながら会話を交わす。聞きたいことや話そうと思っていたことはいくつもあるはずなのに、それを切り出す勇気は出ない。それでも、はじめよりはこの距離が上手く近付いているのではないか。
早く次の電車が来ることを願う一方で、もう少しだけこの時間が続いて欲しいとも思っていた。
ちらりと携帯で時計を確認する。電車の到着予定時刻まではあと数分。この気候で遅延などはしていないだろうか。わざわざ確認することはしなかった。
徐々に両方が口を閉ざす時間も短くなってきて、ほんの少しかつてのような温かみを取り戻してきたその数分後。互いの声をさえぎって近くの踏切が警報音を鳴らした。電車は自分とは違い、ほぼ予定通りに来たようだ。
「あ。俺もそろそろ行かなきゃ」
彼も時間を確認し、見計らったようにそう声を上げる。それなりの時間をここで過ごしてくれたのは、こちらとの交流を望んでのことか、それとも。
過ぎった考えは気分を沈める上、彼にも失礼だと急いでかき消す。どうか前者であって欲しかった。
「待ち時間に付き合わせてごめん、寒いのに」
「いや、久々に話せて楽しかったよ」
手を振る。別れはすぐだ。まだ話したいことの半分も話せていない。天気の話は場を繋ぎ、緊張をほぐすのには有効だが、関係の修復には力不足だった。
ここで再び会えたのは偶然なのだ。ならば。
迷惑と距離を、相手の今を崩さない方がいいのかと考えるばかりに踏み込めなかった一歩。これっぽっちも大きくはない、昔からしたら当然で何気ないこと。
「また連絡するね」
開いたドア。空いた車両に乗り込む前に、彼がこちらに背を向けて去る前に。たった一言そう言った。
「おう」
返ってきたのは笑顔と肯定。なら、これはきっといい兆候だ。気にしすぎていたのはきっと自分だけだ。
安心とどこか晴れたような気持ちを胸に、友人へ軽い別れの挨拶を残した。
季節外れの雪は小降りになって、代わりに遠くで晴れ間が見えていた。
【天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、】
「実は私、月から来たんだ」
星一つ輝かない暗闇のベランダ、彼女はいかにも深刻そうな顔を作ってそう言った。
空には唯一、普段よりも色の濃い月だけが不自然なほど綺麗に上っている。
「随分突飛な冗談だね、かぐや姫様?」
わたしは手すりに身を預け、肺を濁す煙を一つ吐いては彼女をからかって目を細める。白く浮かんだ曖昧な模様は、ささやかな風に吹かれて消えた。
何にもない、たった二人の狭い空間。ちかちかと明滅する都市の光はどこか遠い世界のようだった。背後で透けるカーテンの向こう、室内に置いてきた温白色の光がこちらを名残惜しそうに照らしている。
彼女はわたしの顔をしばしじっと見つめると、「流石に信じないか」と目を伏せて笑った。
「そりゃそうだろう。酔ってるのかと思ったけど」
「お酒飲めないの知ってるでしょ」
「ああ」
「……なんとなく。何となく言ってみただけだよ」
その言葉が本物だとしても、偽物であったとしても、どちらが真実なのかをこちらに悟らせない彼女の雰囲気は、わたしにとっての杞憂の原因であり、同時に彼女を魅力的に思わせる一面だった。
夜は好きだ。日中の苦悩を放り出して二人で寄り添い合える夜なら。彼女が居れば充分だと、半分も減っていない煙草を灰皿の水に押し込んだ。
「もういいの?」
「きみが月に帰るまでは生きてたいなと思って」
「そっか」
それが遠い未来だと信じている。そうであって欲しい。決して有意義とは呼べないこの時間を出来るだけ続けたいと願うのは、きっと自分だけではないと。
だからいつ帰るのかは聞かなかった。
簡単な好意の伝え方さえ素直に実行できない代わりに、遠回しな月並みの言葉を零す。
彼女が本当に宇宙人なら、秘められた意味に気が付かないでいてくれるだろうか。純粋な賞賛に聞こえるだろうか。いつか別れる運命ならば、その方がいい。
ふふ、と笑う彼女が可愛らしくて、わたしは照れ隠しのように目を逸らした。
『きみの故郷は綺麗だね』
【月に願う】
私とあの人は高校生の時に出会いました。
ええ、同級生です。その当時、クラスは違いましたが。
今思い返せば一目惚れだったのかもしれません。あの人をはじめて見かけた時、すごく綺麗な人だと思いました。背筋が伸びていて、耳触りのいい声で。教室移動中に窓から教室内を盗み見る程度しかあの人のことは知りませんでしたが、毎回その姿は強く印象に残っていました。
直接話すきっかけが出来たのは次の学年に上がってからです。運良くクラス替えで同じクラスになれたんですよ。私は舞い上がって、これは運命なんじゃないかとさえ思えてしまいました。それまでと比べたら関係値を築く機会は段違いに多くなりますから。
実際、私はあの人と在学中に間違いなく友人と呼べる、いえ、もう少しだけ上の距離間を得ることが出来たんです。何気ない雑談から真面目な相談、一人では抑えておけない秘密の話。私はそれらを聞く権利を得ました。休日に駅前へ遊びに行ったこともありました。どれも思い出深い青春です。忘れることなんてできるはずもないでしょうね。
ご存知の通り、あの人とは進学先も同じでした。これは偶然ではなく、私があの人と合わせて選んだ結果です。
ええと……はい、その、お付き合いを始めたのもその後ですね。改めて言葉にするとどこか恥ずかしくもありますが……。告白は私からでした。休日、いつも通りに遊びに出かけて、帰り際に好きだと伝えたんです。
いつか言おう、いつか言おうとインターネットで理想的なシチュエーションやら勇気の出し方やらを検索して、それらを事前に計画立てると余計に緊張してしまうと諦めて。結局あの人と過ごして安心し、高揚するときめきを持ったまま自然に、自分の言葉で伝えました。
そうしたらあの人は驚いた顔をして、それから甘酸っぱくはにかんで、自分もだと答えてくれたんですよ。
その時の喜びといえば、言葉では表現しきれないほどでした。だってその後は夢見心地で、どうやって自分の家に帰ったかさえまともに覚えていないんですから。
ええ。これが私の恋物語です。勿論、ほんの一部に過ぎませんが。あの人への思いの丈を全て語るには、あまりに私の持つ言葉が足りないのです。
自分のことながらよくできた、それこそ作り話のような展開だとは思います。それでも、全て私の記憶にある本当のことなんです。恋をすると世界が色づいて見えるというのも、想い人のことを考える度に胸があたたかく、時々ささやかな痛みを持って複雑にやがて幸せを構成していくのも、どれも本当のことでした。
出会ってからずっとあの人のことを見てきましたが、今でもあの人について知らないことはあります。全てを知りたいと思う反面、全てを知ってしまったら何か大事なものが崩れてしまう気がしてならないんです。
恋とは多少夢を見ているくらいがちょうどいいのかもしれません。難しいものですね。
ああ、そういえば。あの人、最近誰かにつけられている気がすると言っていました。怖い人もいるものですね。
え? ええ、大丈夫です。私ができる限りそばに居て、安心させてあげられればと思います。
【恋物語】