集合住宅の一室。本来そこで暮らしていたはずの人物がいなくなってから、どれくらいの月日が経っただろう。
未だその事実を受け止めきれない青年は、毎度たった一本の造花を持ってその部屋を訪れている。
あの人が、先生が好きだと言った白い花。
生活感が残ったままの家具の配置。彼らの持つ記憶が色褪せないように、過去のものにならないように。青年はその埃を払い、丁寧に拭く。
部屋中に飾られた花は全て青年が持ってきたものだった。どれも萎れることなく、望まれたままの綺麗な姿を保っている。
それは彼の願望とエゴの産物であり、先生に向けた想いの丈であった。元の部屋が抱いてしまった寂しさを埋め尽くすように重ねられた花々は、悲しくもこの空間が空白となった日数を記録することとなっている。
青年はただ黙って今日の造花を花瓶に刺した。
素晴らしい人だった。この世の善に目を向けて生き、自らの持つ善を見返りも求めず他者に押し付けるような。いつでも他者のためを思っていると言い、その実全ての行動は自分のためでもあるような。
それでも、目に映る全ての人に手を差し伸べたいのだと理想を語る先生の言動に嘘偽りはなかった。
お人好しで、親切で、誠実な聖人君子。自分勝手で恐ろしいほどの善人。それが先生だった。
そんな人だったからこそ青年はあの人に救われ、あの人は自分の犯した罪と誰かの復讐を受け入れて殺された。
そう、最後まで目の前に優しく、その後の不幸を考えることもない、ひどい良心の塊だった。失われてはならない存在だった。
部屋の中心、白い花畑に埋もれたテーブルセット。椅子に掛けられた白衣は持ち主の姿を鮮明に思い出させる。
先生は木製の馴染んだ椅子に姿勢よく腰掛けて、優しく微笑んでは青年を手招きする。青年は痛々しく、待ち侘びたように目を見開き、躓きそうになりながらそちらへ寄るのだ。
今は留守にしているだけだからと、いつか帰ってくるからと言い聞かせ溜め込み続けた感情を吐露し、幻との再会に安堵を覚える。
そうして疲れ果てればふと夢は覚め、虚ろな思考のまま青年は息をついて帰るのだろう。
全て残酷な日課だった。
この閉じられた部屋は幸せな日々の棺桶であり、その輝きの復活を待つ宝箱でもある。
頭の奥底では分かっているのだ。ただ、青年には今更自身の恩人を帰らぬ思い出に降格させる度胸はなかった。
これは青年が再び真に先生と会える日まで続くのかもしれない。
その可能性を嘆き憐れむ誰かが触れたように、締め切られた窓から淡い光を受けるレースカーテンが虚しく揺れた。
【狭い部屋】
6/4/2023, 4:18:44 PM