るらった、るらった。
ご機嫌な鼻歌が雨音に混じり、町も人も寝静まった暗い夜道に落ちては水たまりをつくる。
無邪気なあの子はお気に入りの長靴を履いて、できた水たまりからまた別の水たまりに飛び移って遊んでいる。ぴちゃん、ぴちゃんと跳ねる水滴が点滅する外灯の光を取り込んだ。
あの子はだあれ?
どこから来たの?
ひそひそとささやく声が暗闇の空白から漏れだすけれど、あの子はなんにも気にしない。歌声は全てをかき消して、眠りへと誘った。
るらった、るらった、すてっぷ、じゃんぷ。
ひと際大きな水たまり、ざぶんとあの子を呑み込んだ。誰も見てない、誰も知らない。
時計の針は二十四時を超越している。世界を打つ神様の涙が、地面を揺らめく鏡に作り変えた。
その表面にあの子はいるの?
しっとり濡れた髪を下げて、片手に持った傘を地面に調子よくついて。いつもは怒られることだって今ならできる。重くなる瞼を擦って、壁一面に映るカラーバーを目に焼き付けて。この時間は永遠だと錯覚し続ければ、いつしか嘘は誠になる。
るらった、るらった。自由な時間、不安な時間。
学校も、会社も、お店も、遊園地も、今は名前を失って、ただそこにあるだけ。深夜営業なんてしてないよ、もう眠ったほうがいい。
雨は止まない。明日の朝まで続くそう。
なら雨が止む日なんてずっと来ないね。
水の中からぶくぶくと、おかしなあの子の声がした。
どこかの誰かは真空の宇宙さえ青ざめるほどの冷たい空気を肺に入れて、どこからかにじり寄る不穏な気配をやり過ごそうと身を潜める。
光とあたたかさを運ぶあの火の玉が顔を見せるのはもう幾分か先、あの子が溶けて消える時。
このままがいいね。このままでいい。
それとも、早く消えて欲しい?
あの子は真夜中。ここは仮初の永遠。
言いつけを破ってこんな時間にも寝ないわるい子は、静寂のお化けに連れていかれるんだって。
るらった、るらった、らんらんらん。
あの子に「おはよう」を言う日はずっと来ない。
雨と鼻歌の合奏中、1khzの正弦波が遠くから聞こえていた。
【真夜中】
愛を食って生き長らえている。
それは他者から自分に与えられた愛であり、あるいは全く別の方向へ向けられる愛から零れ落ちた破片だった。
それを栄養とし、愛だと認識することはなかった。
「この世は愛が全てなんです」
盲目的に渦巻く目を細め、正面に座るその人は吐き気を催すほどの多幸感を振りまきながら言った。
「愛によって生まれ、愛に振り回されて生き、愛のせいで死を迎えるのです」
いくら耳を塞ごうと、反論の言葉を捻り出して突き刺そうとも、その人は聞く耳など持たず、いかれた声でこちらの思想を塗り潰そうと笑っている。これでさえ愛だとほざくのはその人があまりに無知で純粋な証拠なのだろうか。
「愛されないというのは自分の方へ矢印が向けられていないというだけの話です。そう嘆き、憤っている間にも誰かから別の誰か、もしくは何かへと愛は向けられています。愛されたいと願ったあなたはそれらの愛の副産物で構成されているのです。」
「愛が、愛から派生した感情が生命を巡らせて、世界を回しているのです。それに、気が付けていないだけ」
万病に効く薬などありはしない。精神論なら尚更だ。
ただ、愛という感情・状態への愛に全身を浸けたその人は、これこそが万能であると信じて疑わない。
目の前で湯気を立ち上らせるティーカップの中、幾重にも色が重なり合った、濁る透明な液体が毒々しく甘い香りを漂わせていた。
人が定義付けしきれない愛のようだった。
「愛が人によって、人のためだけに存在するものだと誰が証明できるでしょう。ひとりの持つ愛がたった一つだと誰が言ったでしょう」
「自身の歩んできた道に顔を覆う誰かは不幸に愛されているのでしょう。その生命を呪う誰かは死と孤独に愛されているのでしょう。あなたが何者であろうと愛はついて回ります。だからこそ世界は変化するのです。愛にはそれだけの力がある」
宗教じみている。しかし神となる者さえ話に聞くには愛に掻き乱されているのだから、何も間違いではないのかもしれない。強いて言うならば途方もないその感情に名前をつけたことが間違いだった。
その人は自分の手元にあるティーカップを優雅に傾けた。得体の知れないその中身をよく見知った風に口内で転がしては、至上の美味を味わい目を伏せた。
「私はあなたを愛しています」
驚きはしなかった。心のどこかでそう言われることを勘づいていた。
「恋愛、親愛、敬愛、友愛、慈愛……何と分類しようとこの事実だけは変わりません。私は他ならぬあなたを生かし、殺す愛の一部でありたいのです」
愛でいかれているからこそ、その願望はどこまでも純粋だった。深く曖昧で信用の置けない感情はもう拒否することさえ馬鹿らしい。そもそもこの告白に返事など必要なかった。ただ、その人はこちらに向けた愛を持っているという事実の宣言でしかないのだから。
どんなに微細だろうと関わりを持った以上、その人は、その人の愛は、こちらの生に影響を与えるのだろう。それが自分にとって利益になりうるかはまだ分からないが。いや、きっと一生気が付くことはないのかもしれないが。
愛という概念を何よりも愛しているその人ならば、愛が引き起こす可能性のある、全ての事象を可能としてしまうのだろう。そこに倫理や道徳など関係は無い。
愛のみがある。
意を決してカップの中身を流し込む。
無意識に消費し続けた、数多の誰かの愛の味は思い出せなかった。知らなかった。
結局は断言できないものなのだ。
世界を構成し続ける全ての要素が愛に関連していると信じるその人にとって愛は万能に違いなく、そんな風に考えたこともない自分には、愛というものはせいぜい生きる手助けをする程度のものに思える。
ただ、それだけ。
【愛があればなんでもできる?】
目眩がするといつも貴方が見える。
貴方は私の後ろから肩を抱いて、私に何かを囁きかけるのだ。これは正しい、あれは違う、けれどきみは何も悪くないと、慈愛に満ちた静やかな声が鼓膜を、頭の中を震わせる。
私は痙攣する手で自分ごと貴方を抱きしめて許しを乞う。許しが必要となるようなことなど何もしていないはずなのに、不安が止まらない。貴方に嫌われたくなかった。私の起こした些細な物事で貴方の機嫌を損ねてしまう可能性を何度も思い浮かべては、恐怖に呑み込まれそうになる。
私を払い除ける手が、非難する目が、刺々しい声が鮮明に想像されて、その度に涙で視界を歪ませながら何度も貴方の名前を呼ぶ。そうすれば、陽炎のように揺らめく貴方は私を白いその腕で抱いて安心させてくれた。貴方は私を愛してくれていた。
「大丈夫」
(全て後の祭りだった。いくら懺悔しようとも本当の許しを得ることなどできない。
一時の激しい感情が引き起こした悲劇はもう既に手の届かない過去の遺物となってしまった。
目を閉じた。
暗闇の中、まだ貴方は微笑んでいる。大丈夫だ、だいじょうぶ、まだ貴方はここにいる。そう言い聞かせ続けた。透き通るような貴方の声が聞こえる。ひんやりとした貴方の指先の感触が伝わる。貴方の目が、目が。私を見つめている。覚えている。
都合の悪い事実は忘れることにした。)
「すきだよ」
何度も伝えた想い。貴方から返ってくることを待ち侘びた言葉。やっと聞けたそれはひどく不安定で曖昧で。後ろを振り返り見た貴方の顔は、煙のように虚しく濁り霞んでいた。
ああ、ちがう、ちがう。私が欲しかったのはそんなに薄っぺらなたった四文字の台詞ではなくて、貴方の心も生命も感じられないあからさまな作りものじゃなくて、ああ、満足など一瞬のことだったと。
私が上手く自分を誤魔化すために生み出した夢は、現実との齟齬と過去の私に殺された。知っている。貴方はこんなことを言ってはくれないのだ。
あなたがわらっている。
責め立てるように、あわれむように、嘲るように。
汚れの落ちない手をぶら下げて、自業自得の受け止めきれない現状を嘆き崩れ落ちた。
【後悔】
「たっだいまぁ」
鍵の開く音、玄関から聞こえてきたやけに弾む声色がルームメイトの帰還を知らせる。意味もなくタイムラインをスクロールしていた指を止め、先程まで子猫の動画に癒されていた視線を移動させた。
手洗いうがいを済ませた後にリビングまで来た彼女は、近くのスーパーへおつかいに行っただけだというのに、なぜか誇らしげに片手のマイバッグをこちらへ掲げている。
「おかえり」
ひとまずお決まりの台詞を返し、相手の次の行動を待つ。が、彼女はいかにも何が問いかけてほしそうな気配を漂わせ、しかし無言で私の正面に仁王立ちするのみである。彼女がこんな風に浮き足立っているのは大抵小さな、しかも私にとっては割とどうでもいいことであると知っているからこそ気は微妙に乗らなかったが、このまま無視することもできない。
「……何かいいことでもあった?」
私がそう問いかければ、彼女はたちまち表情を輝かせておつかいの成果を発表し始めた。
「ふっふっふっ……よくぞ聞いてくれたね親友よ」
ご機嫌なルームメイトはそう言うと同時にバッグの中へ手を突っ込み、まるで某有名猫型ロボットが秘密道具を公表する時のように「じゃじゃーん!」と高々にいつくかの箱や袋を取り出した。
共通してカラフルかつポップで可愛いデザインのそれらは確かに見覚えはあれど、今となってはもう買うどころかまともに見ることすらなくなったもの。
「知育菓子……?」
言いたいことは色々浮かぶも、予想もできなかったそれの登場にどれもまともな音となって発されることはなかった。
「なんで」
彼女と私の間にある明らかな温度差。少しの沈黙の後に口をついて出たその質問も、私の顔に浮かんでいただろう困惑の表情も彼女にはいつも通りに見えたのだろうか。全く気にしていなさそうな様子で首を傾げた。
「安くなってたから。やろうよ」
「ええ……」
あっけらかんと答える彼女に、そういえばこういうやつだったと今までのあれこれを思い出しては自分を納得させる。別にこれに付き合ったところで何か損をするわけでもないし、今日はこの後何をすべきかも考えていない。多少素直な戸惑いは漏れてしまったが彼女の遊びに付き合うのも悪くはない選択肢かもしれない。笑いと呆れを含んだ息をそっと吐いてから、まあいいよと了承を返した。
それから数分。
パッケージの内容物と水を混ぜて、出来た塊やらクリームやらを伸ばして、絞って。
やるからにはイメージ画像のように綺麗に作ってやろうと意気込むも、意外と難しいのか私が不器用なのかなんだか不格好な形が並んでいく。雑談をちまちまと交わしながら二人でテーブルを囲み、時折彼女の方を見れば、私よりずっと上手な出来栄えであることを知ってなんだか悔しさを覚える。
やがてフルコースだと言わんばかりにテーブル上にずらりと並べられた、寿司やら和菓子やらをかたどったお菓子たち。幼いころの自分が見たら手を叩いて喜んでいたかもしれないと想像し、先程までの自分も案外集中して楽しんでいたことを思い出しては気恥ずかしくなった。
「最後にやったのいつぶりだろうねぇ。こういうの得意だったんだよ。工作とか」
「たしかに。そんな感じする」
写真を撮り、いただきますをして、指先で摘める小ささの一つをまた少し眺めてから口に運ぶ。
甘い。コーラ味だとかグレープ味だとかの、当然ながら見た目の料理とは到底かけ離れたソフトキャンディやグミの味。スイーツの形のものはモデル風味らしいがどちらかと言えば駄菓子な気もする。好みの別れそうな何とも言えない味に懐かしさを覚えた。
「前動画かなんかでおすすめに流れてきてやりたかったんだよね」
「なるほど。それで丁度いいことに安くなってたのを見つけたわけね」
「そゆこと」
彼女はにまにまと楽しげに手元の菓子を練っては、スプーンですくわれた薄紫のふわふわに細かいキャンディを纏わせる。そうしてそれをひと口食べると、気まぐれな親友は「またやろうね」と笑った。
彼女がいなければ家の中で過ごす休日はこんなに新鮮ではないのだろうなと思う。普段ひとりでは思い付かないようなことを共有してくれる友人への好感をもって、私はいつも「気が向いたらね」と返してやるのだ。
【おうち時間でやりたいこと】
影を踏んで、草花をちぎって、雲に形を見出して。
全ては途方もなく広くて、きらきらと色を教えてくれた。知り得た何もかもが不思議で、理解したことが自慢で愉快だった。
全てが “そういうもの” なのだと目に馴染んだ今、振り返ることしかできないそれらの思い出は多少なりとも都合よく脚色されているのだろう。それでも、妥協と暗黙を身につけて社会を歩かざるを得ないこの現状からしたら、その時代には確かに戻りたいと願うだけの価値があるのだ。
時間は不可逆である。世の理で、常識で、納得しきれないもやもやをいくら抱えようとも、自分では覆すことなど出来ない。だから理解したふりをして、そのもやもやをどこかちょうどいい所に収めておくしかなかった。
冷えた夜風に息を吐く。
こうして窓を開け、暗闇に浮く月と星を見て。いつか金色の粉を振り撒く妖精が偶然にも目に映ることをどこかで期待している。逃げた影を追う純粋で気ままな少年に手を引かれることを夢見ている。
自分は周囲が思うより大人になりきれていないのだ。正しく大人に成長する道のりも知らずに、時間に流されるままで外側だけ立派になってしまった。教えの乞い方も知らなかった。
他の皆はどうなのだろう。皆自分と同じように、大人になりきれない自身と片手を繋いで生きているのだろうか。もしかしたら本当の “大人” なんてどこを探してもいないのかもしれない。
そんなことを考えれば馬鹿らしくなって、塩気がしみた考えは次第に環境音に溶けて消える。
ああ、でも。やっぱり純粋に大人に憧れたあの頃が恋しい。
彩られた記憶より少し褪せた世界を眺め、もう届かないネバーランドを夢想した。
【子供のままで】