青空、雲、新緑、桜
囃子、鈴、足音、笑い声
日本酒、団子、枝豆、焼きそば
祭事、春爛漫
コルセットが私をまだ締め付けている。
先程までの賑わいが嘘のように静まっていた。
ふと隣を見ると、彼は私に合わせた赤のネクタイを緩めているところだった。
「……ん?なんかあった?」
「ううん、見てただけ。」
「……惚れ直したでしょ。」
「うん。」
「えーそこは……え?!惚れ直したの?!」
ふふ。器用にも、慌てながら喜ぶ彼に、思わず笑いが漏れる。
いつまでも子供のようだ。まるで、私が告白を受けたあの日の。
「一緒に生きていこうね。」
「もちろんだよ!!てかもうやっちゃったでしょ、結・婚・式!」
「そうだね。苗字も同じだもんね。」
「そうそう!……え、苗字同じなのか……やばー……。」
「何いまさらびっくりしてんの。」
私たちは愛を誓った。
書類、言霊、指輪、キス。今やそれらが私たちを証明している。
意識的に口元をなぞった。
「あ、てかそうだ、言いたいことがあるんだよ」
「ん?」
彼は緩めたネクタイをもう一度締め直すと、私にきっちりと向き合った。私もそれに合わせる。
「これからも、よろしくお願いします!」
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
頬と涙腺が緩む。あぁ、どうかよろしく。
これからも、ずっと。
「見て、沈む」
「綺麗だね〜」
とうに終わりだった。足元を濡らす海はつつがなく満ちゆく。現実的な光だけが空を照らした。あかいあかい夕焼けだった。
「もうダメかぁ」
ぽん、と小気味よい音を立てて瓶を開ける。ざらりと錠剤を手のひらに出す。
「ほい」
「ありがとー」
ふたり流れ着いて数ヶ月。この建築物が徐々に沈んでいることに気がつくのに、そう時間はかからなかった。
だからと言ってどうも出来なかった。懸命に狼煙を炊いても、漁船ひとつ見えはしない。座標はおろか、海域も分からない。ここは一体どこなのか。
拳を握ると、ぎっ、と薬の糖衣が擦れる音がした。
「あ、最後一服よき?」
「もちろ〜ん」
彼女はポケットに錠剤を突っ込むと、タバコとライターを取り出した。小柄な体格にはどうも似合わないそれをふかす。
幸いにしてここにはある程度物資があった。私達は死までのつかの間の猶予を、探索と娯楽に費やした。
「ふー……」
「屋上、まじ寝心地悪かったね〜」
「それはガチでそう。最後くらいふかふかにせえやって感じー」
副流煙。気にする気にはもうならない。磯の香りを、キツいミントがかき消す。もう足首まで冷たい。
「終わりか」
「終わりだねー」
あっ、と声がした方を見ると、タバコが水面に流されて沈んでいくのが視界の端に写った。
「あぁ、ラスト一服……」
「どんまい」
手のひらを開くと、手汗で薬がベタついていた。特に取り出す必要は無かったかもな、と今更思った。
「いくか」
「しゃーなし」
ずるりとふたりでフェンスに体重を預けて座り込む。
「あ、冷たっ」
「うぉ〜、おしり冷える……」
「ま、これからうちら全身ヒエッヒエになるけどね」
「笑えな〜」
ちゃぷんと波の音がした。息を吸う音がした。
「せーのっ」
甘い。噛み砕くと苦い。嚥下しても相変わらず不味かった。
「おえ」
「はい、第二陣」
「不味すぎて先に死ねる」
「置いてかないで?」
「分かってるよ」
……数十、百は超えたか。日はもう沈んで、暗い。寒い。
肩に体重がかけられた。ぬるい彼女は、遅い呼吸をしている。それに妙な安心感を覚えて、そのつむじに頬を埋めた。
先程置いた空瓶が、もう波に攫われていく。ふと目を閉じると、開かない。見えない中で、背を濡らすほどの波が跳ねて、飛沫が首筋にかかる感覚がした。
「あ、」
空を切った。
そこには何もなかった。何もなくなった。
あった筈の何か、それは一体何だった?
いまさら知覚をした。指先が震えて声も出ない。
未だあるのは残響と気配、それすら幻覚だった。
ぬるい風が頬を撫でた。次に雫が頬を撫でた。
鼻の奥が痛くなった。肺が広がらなくなった。
足元が濡れる音がした。子どもたちがじゃれ合う音がした。
それらすべては思い出のように。
膝をついて、手をついて、頭をつけて、私は泣きじゃくった。
ない。
それは喪失を超える孤独だった。
君が窓を背にして立っている。
煌々とさす月光と打ち付ける雨。
またか。
僕はただそれを見ている。動かない。動けない。
視線を下げて、上げると、景色が変質した。
熱帯雨林と愛犬の声。
うずまき銀河とスズメの群れ。
雲上の国と黒い出目金。
最後にあの日の景色になった。隣に君がいる。
そんなはずはないのに。
目の前に君の安らかな寝顔があった。透明な樹脂をすり抜けて頬を撫でた。温度はわからない。
踵を返して席につく。
花まみれの背景と横たえられた棺。
君はいつの間にかいなかった。