酒は強い方だ。
仲間うちで飲んだら大抵最後まで残って、先に潰れた連中の世話をするのが常だった。
だからこんな事は初めてで、彼は微かに酔った頭でぼんやりと目の前の男を見つめている。
「·····」
視線に気付いた男はニコリとしまりの無い笑みを浮かべる。彼より早いピッチで、彼より強い酒を飲んでいた筈なのに、その表情はいつもと何ら変わらない。
「まさか君とサシで飲める日が来るなんてね」
男の言葉に彼は不機嫌そうに鼻を鳴らす。苛立ちを紛らわせようとジョッキを傾ける姿に、男はますます笑みを深くした。
◆◆◆
路地を吹き抜ける冷たい風に、彼はぶるりと長身を震わせた。酒で火照った頬には心地よいが、全身でそれを感じるとやはり寒い。
季節は冬へと少しずつ向かっている。
「あぁ、楽しかった」
男はまだ飲み足りなかったのか、隠し持っていたスキットルを取り出すとぐびりとウイスキーを流し込む。
彼は呆れたようにそれを横目で見ながら煙草を取り出して火をつけた。
「アンタは楽しかったでしょうが、こっちはもう二度と御免蒙りたいですねぇ」
紫煙と共に吐き出した言葉が、夜気に紛れて消えていく。男はスキットルから唇を離して彼を見つめると、片方の口端を軽く上げて男臭い笑みを浮かべた。
彼が仕事ではなくプライベートでこの街を訪れたのも、男が普段とは違う店を訪れたのも、言わば偶然。だが、そこで二人が出会い、酒を酌み交わしたのは必然だった。少なくとも男はそう思っている。だが彼の方はそれを認めたくないのだろう、憎まれ口を叩くその横顔は、酔いのせいか微かに赤くなっていた。
「さて、そろそろ帰ろうか」
空になったスキットルを投げ捨てて、男が言った。
彼は手袋をした長い指で煙草を摘むと、ゆっくりと息を吐く。細く白い煙が蜘蛛の糸のように中空を漂うのを、男は目で追う。
「仕事モードになっちまう前に早く消えて下さぁい」
大きな月を背にそんな毒を吐く彼は、何をしても絵になると男は思う。スラリとした長身、煙草を挟む長い指、皮肉げに片方だけつりあがった唇、手入れの行き届いたスーツ。自分の魅力を良く知っているのだろう、そんな自信が現れる彼の一分の隙も無い姿が、男は見ていて好きだった。
――だって、崩しがいがあるからね。
「仕事でもプライベートでも、どっちでもいいからまた会える日を楽しみにしてるよ」
「寝言はおうちに帰って寝てから言って下さいねぇ?」
シッシッと手を振って追いやる彼に、男は笑う。
「あっはっは。じゃあ、またね」
ひらひらと手を振って人混みに消える男の背に、彼の視線が突き刺さる。
繁華街のざわめきは、男の昂る心を鎮めてくれそうになかった。
END
「またね」
人魚姫は泡になりたくてなったわけではないと思う。
自分の恋が叶わなくても王子様を殺すくらいなら泡になって消えたい、そう思ったんじゃなかっただろうか?
私はあのプリンセス達の方の人魚姫は知らない。
アンデルセンとは結末が違うらしい。
どちらがいい、とかの話ではないだろうけど泡になって死んでしまった結末の方が私は好きだ。
(風の精霊になった、という話もあるらしい)
物語は時代が進むにつれて枝分かれし、たくさんのifが生まれる。
泡になりたい、と心から願う人魚姫がもしかしたらもうどこかにいるのかもしれない。
恋を忘れて姉達と海底で楽しく暮らす人魚姫もいるかもしれない。
どんな結末でもいいけれど、他者に「泡になりたい」と思わせてしまうような人魚姫だけは、解釈違いだなぁと思う。
END
「泡になりたい」
アスファルトが陽炎のように揺れている。
見上げれば、ビルの窓ガラスには太陽が反射して白い光を放っている。
額に浮いた汗を拭って、恨みに満ちた視線を空へと向けた。
「·····」
ギラギラと突き刺すような痛みが露出した腕や首に降り注ぐ。真夏の太陽は容赦が無い。
いや、太陽自体は昔から何一つ変わってはいないのだ。人間が身勝手に環境を変えて、自分達の首を絞めているだけだ。だから突き刺さるこの痛みにも、うだるような暑さにも、苛立ちを覚えてもその怒りをぶつける場所が無い。
「·····」
暑さも痛みも、自分で避けようと思えばいくらでも避けられる。大人しく家でゆっくりしていればいい。
ニュースでもそういっている。
「·····」
自分で自分の首を絞めている。
ペットボトルの水をがぶ飲みすると、肩に掛けたカバンを抱え直した。
――年に一度、この為に。
この真夏の一日の為に、私の他の364日はあるのだ。
「ただいま!」
会場へと続く道で、胸の中でそう叫んだ。
END
「ただいま、夏」
「ただいまぁ。おーい、いるかぁい?」
玄関を開け、間延びした声で呼ぶ。
同居人の返事は無く、だが気配はするのでさして深く考えず奥へ進んだ。
「·····なんだ、いるじゃねえか。返事くらいしろよ」
同居人は開け放した窓の前で胡座をかき、いつものように厳しい顔をしている。隣にいるだけで熱気が伝わってきそうな暑苦しさに小さく肩を竦め、持っていた買い物袋からペットボトルを取り出して傍らに置く。
「ちったぁ肩の力抜きなぁ」
「·····」
返事は無い。
生真面目さが彼の長所であることは事実だが、こうも四六時中だとこちらの息がつまる。互いの過去を思えば仕方ないことなのかもしれないが、せめて自分といる時くらいは楽になって欲しい。
「もどかしいけどよぉ、俺らまだなんも出来ねえ小童だからねぇ。焦らず行こうや」
「一分一秒が惜しい」
ようやく口を開いたと思ったらコレだ。
呆れたようにもう一度肩を竦め、ベッドに腰掛ける。
「·····」
窓から入り込む風が心地よい。
ベッドに両手をついてしばらくぼんやりしていると、ようやく同居人がペットボトルを開ける音がした。
規則正しい共同生活なんて、自分には一生縁の無いものだと思っていた。
だが、必要最低限の事しか話さないこの男との生活は、意外にもスムーズで心地が良かった。そして、口数少ないこの男が時折語る言葉のまっすぐさと熱が、いいなと思った。
自分には無いものに、きっと人は憧れるのだろう。
同居人はペットボトルの炭酸を勢いよく流し込んでいく。透明な泡がいくつも湧いて、太い喉を通っていく。それを横目で見ながら自分も買い物袋を漁ってジュースを取り出した。
「うぇ、まっじぃ~~」
すっかりぬるくなってしまった炭酸は、めちゃくちゃまずかった。
END
「ぬるい炭酸と無口な君」
海には天使と悪魔が住むという。
寄せては返す波に足を濡らさないよう、気をつけながら彼と歩いた。
私達は海に嫌われている。
愛されている者達は航海でも漁でも安全と幸福を保証されているという。
私達はそのどちらも許されない。
海に落ちればたちまち波に飲まれ、翻弄され、この身は沈んでしまうだろう。
漁に出ても私達が手に入れるのは、徒労だけだ。
それでも海に惹かれるのは、潮騒と、波の煌めきと·····その深さに包まれたいからかもしれない。
繋いでいた手をほどいて、彼は数メートル先にある枯れ枝を拾い上げる。
座り込んで砂浜に何か書き始めた彼に、足を早めずに近付いた。·····足を早めたら彼に期待をさせてしまう。
私と彼の関係は、一言では説明しにくい。
先輩と後輩。
同僚。
悪友。
そして·····
「これが俺の本当の気持ち」
しゃがんだ彼の背後から、砂浜に書かれた文字を見下ろす。
『大好き。 愛してる。 ずっとそばにいて。』
何度も言われてきた言葉だ。
だが彼に、言葉を返したことは無い。
「なぁ!」
しゃがんだまま振り返った彼の目は、真剣そのもので――。もうはぐらかすのは無しだと訴えている。
「俺達ってさぁ·····っ、あ!あー!」
何なワケ?
恐らくこう続いたであろう言葉の代わりに、焦ったような声が上がる。
少し大きな波が打ち寄せて、彼が書いた文字を全て消してしまったのだ。
「·····返事はまた今度」
私は言いながらガクリと肩を落とす彼の頭をそっと撫でて、ゆっくりと歩き出す。
ちぇっ。
彼がわざとらしい舌打ちと共に立ち上がるのが分かった。
さっきより寄せ来る波が大きくなった気がする。
「·····」
私達は海に嫌われている。
END
「波にさらわれた手紙」