一人で海に行くのが好きだと言った。
誰もいない朝に聴く潮騒。
日中にはしゃぐ子供連れや恋人達。
凪いだ水面に降り注ぐ月光。
そんな景色を一人で眺めるのが好きなんだと、立ち止まり振り返ったその顔。
泣いているようにも、笑っているようにも見えたその儚さを、今も忘れられないでいる。
水辺が苦手な私はいつも、波打ち際を歩く彼を帰ってくるまで車の中から見つめている。少し離れた先では、手を繋いで歩く老夫婦の姿があった。
「·····」
いつかあんな風になれるのだろうか。
そんな事を考えながら彼へと視軸を移すと、ちょうどこちらに戻ってくるところだった。
「帰ろう」
「いいのか?」
「うん。もういい」
素っ気ない返事。
私は彼の心をまだ掴みきれないでいる――。
◆◆◆
誰もいない夜の海は、闇がどこまでも広がっているように見える。
私は手にした花束から花を一本引き抜くと、花びらをちぎって海にばらまいた。
ばらばらに散らばり、波にさらわれ、飲まれていく小さな欠片。もうどこにも無い·····。
引き止めれば良かったのか。
ついていけば良かったのか。
後悔はずっと胸に燻り続けて、八月の太陽のようにジリジリと私を炙る。
答えはまだ見つからない。
私はその答えが見つかるまで、彼が消えたこの海を毎年こうして訪れるのだろう。
そしてまた、八月がやってくる。
END
「8月、君に会いたい」
初めは小さな小さな点だった。
星なんて見えない曇天のなか、見間違いかと思えるほどの小さな光。
灯台の灯りか船の照明か、どちらかだろうと思っていたけれど、そうではなかった。
暗い海の闇を斬り裂いて進む一筋の閃光。
もの凄いスピードで進むその光は、暗黒の海を照らし雲を、闇を貫いていく。
小さな点だった光はいま、巨大な剣先となって僕に向かってくる。眩しくて目を開けていられない。
――駄目だ。
目を閉じるその瞬間、光は僕と目が合うと·····
笑った。
END
「眩しくて」
他人の鼓動なんて、触れでもしなけりゃ分からない。
そしてそんな関係性は、全ての人が築けるわけではないもので、だからこそ幼い頃から隣にいることが当たり前になっている彼の鼓動は、他のどんなものよりも手放したくないものだった。
「君はいつも熱いねえ」
首筋に手を添えて、脈動を感じる。
彼は常に自分より体温が高い。
トク、トク、トク。
触れた指先で一定のリズムを刻む鼓動。
トク、と鳴るたび、自身の指先も熱くなっている気がする。
腕を組んだまま眠る姿に、愛しさが込み上げる。
普段の険しい顔つきが幾分和らいだその表情に、思わず手を伸ばしたのは数分前。
働きすぎの感のある彼が、ほんの僅かな時間でも安らぎを得ているのなら良いけれど――。
トク、トク、トク。
彼の鼓動が伝わるたび、再認識する。
「君が隣で生きてるから、生きていけるんだ」
END
「熱い鼓動」
人生、何事もタイミングだよね。
タイミングが合わなければ、ソレを経験しないまま死ぬことだってザラにあるわけで。
〝やりたいことリスト〟は一応あるけど、いくつ実現出来るかなぁ。
END
「タイミング」
一時間ほど降り続いた雨は埃っぽい街を洗い流したようだった。しばらくして雨が上がったことに気付いた男は両開きの窓を開け、青く澄んだ空に僅かに目を細める。
「オー、虹だぁ」
見上げた空には、橋を架けたように大きな虹が掛かっている。
「おーい、来てみなよぉ。綺麗に虹が掛かってるよぉ」
振り返り、ソファに伸びるアイマスクをした長身に声を掛けた。
「んが·····」
返ってきた声に小さく笑い、男はまた空へと視線を向ける。
「ガキの頃、虹が出ると根っこがどうなってるか見てみようって、よく走ってったなぁ」
雨上がりの心地よい風が部屋に吹き込んでくる。
「日が暮れるまで走っても、結局虹の終わりもはじまりも見つけられなかったんだよなぁ」
遠い目をしながら男は呟く。
「今どきの子も、そんな夢みてえなこと言ってんのかね·····」
独り言に応える声は無い。
「お宝が眠ってる、なんて噂もあったなぁ·····」
◆◆◆
「俺は見つけたよ。虹のはじまり」
静寂を破ったのは、眠っている筈の男だった。
振り向くが、アイマスクはまだ瞼を覆ったままで。
「光が無きゃ、虹も夕焼けもあんな綺麗にならねえ。氷が青く見えるのも、マグマが赤いのも、みんな光の作用だよ」
「·····寝言にしちゃあ、えらく饒舌だねえ」
「光あれ、ってさ。みんな求めてんだよ」
「求められてばっかの光はえれえ苦労だ」
「嬉しい癖に」
「生意気言ってんじゃねえよ、ガキ」
「ぐう」
足音を忍ばせてそっと近付く。
再び寝息を立て始めた男に肩を竦めると、ドアに向かった。
「一時間後に起こしに来るからよ」
「·····」
返事は無い。
「俺の光は··········だよ」
ドアを閉じる瞬間、そんな呟きが聞こえた気がした。
END
「虹のはじまりを探して」